最後で、永遠の、アクション
月だけを見届け人に、おれたちは抱き合った。碧さんの仕事場である布団の中じゃない部屋の隅っこで。
「……痛くなかった?」
「うん、平気」
暗闇の中、碧さんが息を整えるように答えてくれる。
「ごめん」
「ううん、嬉しい……なんだか、涙出てきちゃった」
碧さんが恥ずかしがるように顔を押しつけてくる。お互いの心臓の音が聞こえるような気がした。
「こんなに幸せな気持ちは初めて」
おれも。
そう告げるかわりに何度目かになるキスをした。
「のど渇いてない?」
おれの腕の中から抜け出した碧さんはシャツ一枚を羽織ってキッチンに立つ。
乱れた髪が彼女の肌に張り付いていた。
「そのシャツって」
莉奈は男ものだと指摘していたけど。
「これ? 安売りのときに買ったんだよ。おばさんたちに交じって揉みくちゃになりながら手に入れたのにさ、全然違うサイズが紛れ込んでいたみたいでこの有り様。おかしいでしょう」
笑いながらコーヒーを入れてくれる。
その横顔にスマホを向けた。お互いの写真を待ち受けにするというガチャのアクションを実行に移すためだ。
シャッターボタンを押す。
ガチャリ。
扉の施錠が解かれたのは同時だった。
「帰ったぞ、碧」
野太い男の声が響き、玄関で物音がする。
やばい。
おれは放り出していた下着や服を慌てて引き寄せた。
「んーなんだこの靴。男かぁ? 碧、おい碧、いるんだろッ」
碧さんはおれと視線を合わせると窓のほうを指し示した。窓から外へ逃げろという意味だろう。自分は廊下へ飛び出していく。
「叔父さんお帰りなさい。きょうは早かったんだね、夜勤は」
服の前後とかボタンとかめちゃくちゃだけど、とにかく着た。
そこへ怒声が響いてくる。
「だれを連れ込んでるんだ。俺の仲間以外は入れるなって言っただろッ」
布団を踏んで窓に駆け寄る。鍵はかかっておらずあっさり開いた。
「叔父さん待って、これは、きゃーッッ」
悲鳴。窓の外の手すりを掴んでいた手が止まった。
「てめぇ碧、ここまで育ててやった恩を忘れやがって。この恩知らずがッ」
叩きつけられる音。踏み鳴らされる床。ガラスの割れる音。
碧さんの悲鳴は聞こえない。
固いものを殴打するような音だけが、ひたすら。碧さんの悲鳴は聞こえてこない。
――やめろ。
おれは無我夢中でキッチンのテーブルに乗ったコーヒーのガラス瓶を掴んで廊下に飛び出した。
(やめろ)
馬乗りになった男がサンドバッグのように碧さんの顔を殴りつけている。
「やめろ……ッッ」
思いっきり振り下ろしたガラス瓶。
その側面が男の頭部にめり込み飛散する。男は声ひとつ上げることなく背中から倒れ込み、そして、動かなくなった。
※
我に返ったときには、ぜんぶ終わっていた。
男は頭部が陥没した状態で倒れ、ぴくりとも動かない。
――あぁ、終わったな。
膝から力が抜けて座り込んでしまった。固く握りしめていた凶器のガラス瓶を手放す。
――終わった。なにもかも。
思わず天を仰ぐ。いつだったか見損ねたプラネタリウムのような星空はなく、煙草のヤニが染みついた汚れた天井だけがあった。
不思議なほど後悔はなく、諦観だけがあった。やれるところまでやったけど、ちょっとしたミスでゲームオーバーになったときのような、口惜しいけれどもやり切ったような清々しい気持ち。
夜中にこれだけの騒ぎを起こしたのだ。もうすぐ警察が駆けつけるだろう。そしておれは捕まり、これからの人生の多くを薄暗い世界の中で過ごすのだ。
「碧さん、起きられる?」
顔をひどく殴られていた碧さんだけど、ゆっくりと上体を起こした。
起きてからしばらくは動かなくなった叔父さんをぼんやりと見ていたけど、思い出したようにおれを振り返る。
「……これから、どうしよう」
「そうだな」
「一緒に逃げようか」
声の調子からでは冗談なのか本気なのかわからない。
「どこへ?」
「誰もわたしたちのことを知らない遠いところまで」
笑うしかなかった。
「天国とか?」
「うん、できれば痛くない方法で」
「いいよ。一緒に行く」
素直に頷くと、碧さんがぎろりと睨んだ。
「……うそつき」
碧さんの手が伸びてきて、おれの肩にしがみつく。震える肩。泣いているのだ。
腕を通して振動が伝わってきたのか、おれの目尻も熱を帯びてきた。
「ありがとう。おれのために泣いてくれてありがとう」
大きな罪を犯したというのに、心の中は冴え冴えとしている。とても不思議だ。
人を殺めた罪の意識よりも碧さんを解放できた安堵感のほうが大きいのだ。
このまま抱き合っていたかったけれど、やるべきことがある。やわらかな腕を押しのけて立ち上がった。
「警察に電話するよ」
先ほどガラス瓶を握りしめてた手にスマホを持ち、電波のよいところを探して窓辺に近づく。
西へ傾いた月はもうそこにはいなかった。
かわりに朝日の気配が空に満ちている。
スマホの画面はカメラモードになっていた。画像をプレビューしてさっき撮ったばかりの写真を選び出し、待ち受けに設定する。これでよし。
ぶかぶかのシャツを着て、乱れた髪を気にしながらインスタントコーヒーを煎れる碧さんの横顔。すごくきれいだ。
このスマホは警察に押収されるだろうから手元に戻ってくるかわからないけど、少なくともアクションはクリアしたことになる。
待ち受けを設定したその指で電話した。
「もしもし警察ですか? 大変なことをしてしまったんです。すぐに来てもらえませんか? はい、お願いします」
すぐに駆けつけるとの返事を聞いて電話を切った。おれの後ろで見守っていた碧さんを振り返り、抱きすくめる。
「碧さん、幸せにな」
「なんでそういう言い方するの? 普通は待っててくれって言うんじゃないの?」
「だって次にいつ会えるかわからない。碧さんは幸せになるべきなんだ、すぐにでも」
「いや。責任とって」
「ごめん」
あぁ、こんなに好きなのに。
もう傍にいられないのか。
おかしいだろう。ウソ告した相手を好きになって、どんどん惹かれて、ついには人を傷つけるなんて。
おかしいよな。おかしい。
最初からずっとおかしかったんだ。
ガチャを回す恋なんて。
だけどいまは、あのころは想像もしなかったくらい幸せだ。
「最後に教えて欲しい。まだお試し期間は終わってないけど、おれは恋人として合格だったかな」
「……ガチャ回そう」
おれの問いには答えず、碧さんは自分のスマホを取り出してくる。
「あ、おれの写真」
碧さんのスマホの待ち受けは自分の机で転寝しているおれの写真だった。隠し撮りされていたらしい。
そしてアプリの一覧には消されたはずの恋人アプリが残っていた。
「恋人アプリのこと知られて叔父さんに勝手に消されたんだけどバックアップ機能で復元したの。端末の主導権までは戻っていないけど回せるよ」
「じゃあ二人で回そう」
これはたぶん最初で最後のガチャだ。
おれたちは互いの顔を見合わせあって一緒にボタンを押した。
いつものようにハート形が点滅しているのを眺めていたら、急に背景が金色になった。
「すごい、これ確定演出だよ。レアガチャが出るの」
碧さんが興奮気味に叫ぶ。
こんなときにと苦笑いするしかないけど、金色の点滅は否がおうにも期待を高まらせる。
ピロピロリーンッッ。
ひときわ高い効果音とともにガチャが排出される。それを目にしたおれたちは同時に噴き出してしまった。
「いまさら、だよな」
「本当にね」
肩を寄せ合って笑いあう。そのままキスをした。
ほんのり血の味がする。
おれたちは離れ離れになるけど、きっといつでも碧さんのことを思い出すだろう。
スマホの画面を興奮ぎみに覗き込んでいる碧さんを思い出し、結果がでた瞬間の驚いたような、戸惑ったような顔を思い出し、『鴇田くん』と呼びかける可愛らしい声を思い出してはこの血の味がするキスを思い出すだろう。
そしていま出たガチャのアクションを何度も実行するだろう。
そう。
『好きだと言う』
このたった一つのアクションを。何度でも。
唇を離した碧さんと目が合った。
「好きだよ、碧さん」
碧さんは笑ってくれた。
「わたしも大好きだよ、鴇田くん。だから次に会ったらまたガチャ回そうね。今度は夫婦ガチャ」
遠くからパトカーと救急車のサイレンが聞こえてきた。静かだった住宅街も騒がしくなっていく。
あぁほら朝日が昇るよ。
見える? 碧さん。
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