止まればいいのに。息も、時間も。
ピンポーン、ピンポーン……静まり返った市営住宅にインターフォンが響く。注意深く聞くとガチャと同じ音階だ。
ピロリーン、ピロリーン……ここに来るまでに何回ガチャを回しただろう。
「どちらさま、ですか」
扉の向こうから控えめな声。
「鴇田晴臣です」
ガチャリと鍵が解かれるのと扉が開くのは同時だった。
「どうして」
素足で飛び出してきた碧さん。マスクも眼帯もしていない。眼鏡も外していた。
蜘蛛の巣に覆われた外灯のあかりでも頬と目蓋の痛々しい腫れがはっきりと見えた。
「ごめん。気づいてあげられなくてごめん」
碧さんを引っ張り出すようにしてぎゅっと抱きしめる。
抱きしめた腕の中で碧さんは微動だにしない。黙っておれを受け止めていてくれる。
しばらく経ってから、ようやく碧さんが口を開いた。
「こんな遅くにどうしたの? 鴇田くん、変だよ」
唯一普通の状態を保っている左目が細められる。気遣ってくれているのだ。
「これ」
見せたのはおれのスマホ。ガチャの画面。そこに現れた碧さんの悲鳴。
『たすけて』
碧さんは黙っている。
だからここまでに回したガチャの結果も全部見せた。
『たすけて』
『わたしを遠くへ連れて行って』
『駆け落ちしよう』
『お金をちょうだい』
『警察に電話して』
『あの男の職場に電話して』
『叔父さんを殺して』
『わたしを殺して』
「排出率をいじったんだね」
すべてを悟ったように碧さんは頷いた。
憑き物が落ちたような顔をして。
「ごめん」
「……中、入って。ここだと声が響くから。周りの人たちはみんな静かだけど、本当は聞き耳を立てているんだよ」
促されるまま室内に入る。
生ごみの異臭が鼻を突く。食べ散らかした菓子の袋を避けながら奥へ進みリビングへと出る。
テレビや机はなく、煙草のにおいが染みついた布団一式と二つの枕が無造作に並べられていた。
「ここで、なにさせられていたの?」
立ち尽くしたまま問いかける。
開け放ったカーテンから青白い月光が注いで碧さんの目元に影をつくる。とても疲れたような、淋しそうな顔だ。
「叔父さんの仕事仲間だっていう男の人たちが入れ替わりで来てお酒や煙草と一緒にわたしで遊んでいくの。――とても嫌だった」
肩を震わせて布団から顔を背ける碧さん。
「一回ごとに叔父さんからお小遣いをもらえるの。いつもは千円、多いときは五千円。わたしはそれを貯金箱にぎゅうぎゅうに詰め込んで、いっぱい貯まったらこの家を出るつもりだった。誰もわたしを知らない遠い国で、今度こそ幸せに暮らそうと思っていたの」
前かがみになった碧さんはひときわ大きく体を震わせた。
「もう少しだったの。もうすぐこの家から、叔父さんから、自由になれるはずだったの」
「碧さ……」
「だけど鴇田くんが。鴇田くんが現れたから……わたしの運命めちゃくちゃになった。一日でも早くこの家から出たいのに、一回でも多く鴇田くんに会いたいし、一分でも早く叔父さんに死んでもらいたいのに一秒でも多く鴇田くんと話していたいの。矛盾だらけでバラバラでぐちゃぐちゃで、自分でもどうしたらいいのかわからなくて」
なにも言えない。だからそっと肩に触れた。それを合図のように今度は碧さん自らおれの胸に飛び込んできた。
「昨日ふたりが来たとき奥で叔父さんに組み敷かれていたの。昨日はいつになく酔っていてすごく乱暴で。わたし死ぬほどいやで、ずっと鴇田くんの名前を心の中で呼んでいたんだよ。そんなときにふたりが来たの。すごく嬉しかった」
「もしかして頬と右目は」
不格好な顔の表面を指先でたどる。碧さんはそこに自分の手を重ねて愛おしそうに目をつむった。
「ふたりが帰ったあと『あの男は誰だ』って叔父さんに殴られたの。でも全然痛くなかったよ。だって鴇田くんのことしか考えていなかったから痛みなんてどこかに飛んじゃった。たとえ顔が潰れたとしても、生きてさえいれば鴇田くんに会えるんだから」
「……バカやろ」
碧さんの背中に腕を回してぎゅうっと抱いた。数多の男どもがいたぶったであろう細い背中をさすった。
「お願い。もっとぎゅっとして。背骨が折れそうなくらい強く。息が止まるくらい強く」
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