どうしよう、碧さんに嫌われたかも
「やばい男かもよ」
休み時間に机で昼寝していたら軽く頭を叩かれた。誰かと顔を上げた先で莉奈の唇がぼそぼそと動く。
「きっとやばい相手だよ」
「……は? なにが」
状況が理解できずに聞き返すと、莉奈は苛立ったように顔を近づけてきた。
「だから、昨日原川さんが家に連れ込んでいた相手」
耳たぶに吐息がかかってゾワゾワしたけどいまは莉奈の言葉のほうが重要だった。
「どういうことだよ」
「ちょっと来て」
腕を引っ張って廊下へ連れ出される。あちらこちらで生徒たちが賑やかに話しているが、こういう場のほうが盗み聞きされなくていいと言う。
「朝、原川さんとトイレに行ったでしょう。睫毛をとってあげるふりして、ついでに肌キレイだからファンデ塗ってあげるって言ったの。だけど断固としてマスクとろうとしないんだよ」
「単にイヤだったんだろ。そもそもマスクしているのにファンデーションする意味ないんじゃないか?」
遠回しにお節介を責めたつもりだったけど莉奈に反省する素振りはない。
「だって変じゃん。昨日のことも。風邪引いて寝込んでいたはずの病人がなんでシャツ一枚だったわけ? 着込んであったかくするのが基本だよ」
莉奈は昨日碧さんが男を連れ込んでいたと信じ込んでいる。風邪と言ったことを疑っているのだ。
「あまりに強情だからファンデは諦めて、一緒に教室行こうって念押しして引きとめてからあたしだけトイレの個室に入ったんだけど、そのとき見ちゃったの」
「今度はなんだよ。トイレの花子さんでも見たのか?」
疑おうと思えばなんだって疑えるものだ。そんなつまらないことに心血注いでいる莉奈に付き合うのは疲れてきた。
「便座に立って扉の上からこっそり覗いたら原川さんマスクを取って鏡を見ていたの。頬が赤く腫れていたよ。あれはきっと男に殴られたんだよ」
「……え?」
休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、それ以上は聞けなかった。
いや、わざわざ莉奈に聞く必要はない。碧さんに直接話を聞けばいいんだ。
席に着きながら反対側の席に座る碧さんの様子を伺うと目が合った。
表情はほとんどわからないけど軽く手を振って合図を送ってくれる。
教室内であからさまに親しさをアピールしてくれるのは初めてのことでむちゃくちゃ嬉しいのに、素直に手を振り返せないのはなんでだろう。
※
放課後、いつものように碧さんを公園まで送っていった。
散々おれを煽った莉奈はさっさと帰った。あとは二人の問題だとでも言うように無関心を貫いている。
「ありがとう、ここまででいいよ」
碧さんの家はここから三駅の先だ。
「もし良ければ家まで送っていってもいいかな?」
碧さんの片眉が軽く上がる。困ったように瞳が揺れたあと、
「ごめんなさい、家までは来ないで」
と頭を下げられた。
だからと言ってハイそうですかと見送りたくはない。
「わかった、諦めるよ。だけど少しだけ話して行かないか? ほら、今朝のガチャで三十分話すって書いてあったし」
我ながらよくぞ三十分話すと条件をつけたものだと感心する。ガチャに誠実な碧さんは断れない。
「うん……じゃあ三十分だけね」
碧さんはベンチの端っこに腰を下ろす。おれも適度な距離を探りながらベンチの真ん中あたりに座った。互いの間にカバン二つ置けるくらいの間隔。それがいまのおれと碧さんとの心理的な距離だ。
碧さんは自ら話題を切り出すことなくおれの言葉をじっと待っている。
「昨日、押しかけて迷惑だったかな」
「嬉しかったよ。でも――」
初めて告白したあのときと同じように、碧さんは熱心に爪先を眺めている。長すぎる沈黙を、おれは辛抱強く待った。
三分が経った。
「あのアパートは叔父さんの家なの。夜勤で寝ていることが多いから騒がしくすると起こしちゃうから」
「……おじさん?」
「うん。両親が離婚したあと母は長期入院してしまってね、わたしは独身だった叔父さんのところに行くことになったの。いまも変わらず」
碧さんはもじもじと恥ずかしそうに体を揺らしながら饒舌に言葉を並べていく。
莉奈の指摘が本当なら、昨日の碧さんは裸だったという。相手の男はどこかから連れ込んだ相手なのかその叔父さんなのか。
そいつに殴られたのか?
「叔父さんは……優しい?」
「――うん、すごく」
噛んで含めるようにして頷く碧さん。
「だったらさ」
カバンを押しのけて身を乗り出した。
「マスクとって、キスしようよ」
覆いかぶさるようにして顔を近づける。驚いた碧さんは背筋をそらすけど背もたれに受け止められる。逃げ場はない。
吐息と唾液でマスクごしの下唇が濡れている。そこに噛みつきたい衝動をこらえながら碧さんがマスクを取ってくれるのを待った。
「やめて」
懇願するようにうめいた碧さんは両腕で顔を隠した。肩を突いて押しのけられる以上に強い拒絶だった。
「もうやめて。わたしに関わらないで。入り込まないで」
カバンを掴んで逃げるように走り去る碧さん。おれはその背中を見送るしかなかった。
最低だ。
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