ぶかぶかのシャツ

「市営団地の二階の……あ、ここだ。郵便受けにも原川って書いてあるね。でもチラシ全然回収してないみたい」


 いつも待ち合わせる公園の最寄り駅から三駅以上離れた市営団地。その奥まったF棟の一室が碧さんの住所だった。

 かろうじて『原川』と読める郵便受けの中はダイレクトメールや光熱費のレシート類で溢れかえっていた。しばらく回収していないのだろう。見ているだけでなんだか腹が痛くなってきた。


「はやくー」


 莉奈はお見舞いだというコンビニのレジ袋(中身は大量の菓子。なぜかおれも半分金を出させられた)を揺らしながら階段をあがっていく。コンクリートの床にコツコツと響く音がなにかを急かす秒針の音みたいで気味が悪い。


「やっぱり電話入れたほうが良いんじゃないか。留守かもしれないだろ」


 莉奈を追いかけて階段を上がる。


「いると思うよ。外から見たら部屋のカーテン開いてたし」


 いつの間に確認していたんだ。


「はい、到着。ぴんぽーん」


 青だか緑だかわからないぼやけた色の扉の前で立ち止まった莉奈は人差し指をインターフォンに押しつける。

 音は鳴らない。


「んん、壊れてるのかな。ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん」


 鳴らないインターフォンをカチカチと連打しながら声で来訪を訴えている。壁や天井のコンクリートに反響してあちこちに莉奈の声がまき散らされているけど、不在なのか空室なのか他の住民が出てくる気配はなかった。


「なにしてるんだ莉奈」


 静かになったと思ったら莉奈は扉に耳を押し当てて真剣な顔つきをしている。


「しっ。中の気配を探っているの……ビニール袋の音がする。やっぱり中にいるんだ」


 莉奈はインターフォンをやめて扉を叩きはじめた。いちばん響く指の関節でコツコツと執拗に叩く。


「原川さんこんにちは。小山です。小山莉奈ですよー。昨日のお詫びに来たの。晴臣も一緒だよー」


 口調こそ穏やかだけど、このしつこさは悪質な金貸しが催促に来たみたいではないか。


「莉奈そろそろ諦め――」


 ガチャンと鍵が外れる音がした。パッと笑顔になる莉奈の前でわずかに扉が開く。


「小山さんと……鴇田くん……?」


 握りこぶしがやっと入るくらいの隙間から控えめな声が聞こえてくる。碧さんに間違いなかった。


「原川さん昨日はごめんね。お見舞いに来たの。中に入ってもいい?」


 扉を押し開けようとする莉奈。しかし碧さんはそれ以上開けさせようとしない。


「ごめんなさい。昨日の傷はもう大丈夫なんだけど、風邪を引いちゃったみたいで寝ていたの。部屋も散らかっているしお茶も出せないから」


「へーき、気にしないよ。あたしの部屋もぐちゃぐちゃだしお茶もいらないし」


 と無理やり扉をこじ開けて顔を突っ込もうとする。


「いいかげんにしろ莉奈。病人を困らせるな」


 さすがに失礼だと思って莉奈の肩を引いて扉から下がらせた。かわりにおれが前に出る。碧さんは扉の奥で怯えたように瞳を震わせていたけど、おれと目が合うとホッとしたように笑ってくれた。


「せっかく来てくれたのに追い返すみたいでごめんなさい」


「風邪なら仕方ないだろ。莉奈のことは大丈夫だから。体調が万全になったところでまた会おうな。それまでガチャも回さないし」


「……うん。ありがと」


「あ、そうだ、これお見舞い。菓子だけど」


 後ろで憮然としている莉奈からコンビニの袋を奪い取って隙間から差し出す。わずかに触れた指先はとても冷たかった。


「ありがとう。大事に食べるね」


「あぁ。またな」


「うん。またね」


 扉が閉められ、ガチャンと鍵がかけられる。こんなに近くにいるのにもどかしい。


「帰るぞ莉奈」


 手すりの前でふてくされている莉奈の肩を叩いて階段をおりる。


「つまんない。家に帰りたくないからお見舞いに来たのに」


「下心があるくせによくお見舞いなんて言えるよな」


「そっちだって同じでしょう。原川さんの姿が見たかったからついてきたくせに」


 苦笑いするしかなかった。莉奈にはお見通しなのだ。


「……でも、ちょっとわかったかも」


 階段を駆け下りた莉奈は夕暮れを背にして微笑む。眩しくて目がチリチリと痛んだ。


「原川さん、随分とぶかぶかなシャツ着ていたでしょう」


 思い出すのは、肩口が少し出るくらいのシャツとコンクリートのように冷たい指先。


「たぶん男ものだよ。煙草の匂いがした。それにシャツの下は裸だったし、あれは男を連れ込んでいるね」


 ざわざわと心が揺れた。それは夕焼けのせいかもしれない。夕陽が炎のように赤いから逆に心が冷えるのだ。

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