そして月日は六月から七月へと入り、今は梅雨のど真ん中だ。

 私は雨の日があまり好きではなかったけれど、最近では、梅雨の晴れ間が続いてしばらくアマネに会えないと、退屈で退屈で仕方がなくなっていた。

 今日は数日ぶりの梅雨空だ。

 久し振りにアマネに会えるというのに、今日の放課後は、図書委員の当番に当たっていた。

「小川さん、こっちの仕事が終わったから、返却手伝うね」

「はい、ありがとうございます」

 当番でペアになっている青空あおぞら晴人はると先輩が、受付うけつけ用の机の端で山積みになっている本を何冊か手に取って、本棚へと運び始めた。

 すらりとした長身にさらさらの黒髪が揺れる。持っている本を全て棚に納めると、黒縁メガネを軽く押し上げた。

「ほんと、梅雨の時期って忙しいですよね」

「そうだね。今日も頑張って片付けていこう」

 この高い湿度を下げられそうなほどの爽やかな笑顔で、青空先輩は本を分類していく。その分類された本を、今度は私が本棚まで納めに行った。

「図書委員さーん、貸し出しお願いしまーす」

「あ、はーい!」

 生徒に呼ばれて行こうとしたけれど、私よりも早く青空先輩が受付へ戻るところだった。

「僕が行くから、大丈夫だよ」

 青空先輩が、手の平をこちらに向けて私を制するようにして優しく言った。

「あ、いつもすみません」

 青空先輩に申し訳ない気持ちで本の片付けに戻る。

 早く終わらせなくては、アマネと話す時間が短くなってしまう。私の頭の中には、もうそれだけしかなかった。

 それから暫くして貸し出し時間が終わり、返却された本も全て片付け、私は自分の鞄を持って帰ろうと歩き出す。

「先輩、お疲れ様でした。では、また」

 そう言って思いきり走り出した瞬間、机から少しだけ出ていたらしい椅子の脚に足を引っかけてしまった。

「あっ――」

「危ない!」

 先輩の手が私の身体を力いっぱい引き寄せた。私の腕が、先輩の顔をかすめる。近くにあった本棚に背中をぶつけた次の瞬間、先輩のメガネが、床の上で小さく鳴った。

「先輩ごめんなさい!」

 すぐ近くには青空先輩の顔があり、先輩の手は私の腕を掴んでいた。綺麗に整った顔だなと冷静に思う。

「……」

「あの、先輩……?」

 先輩は無言のままこちらを見ている。

「あ、ごめんね! 大丈夫だった?」

 青空先輩は慌てたようにメガネを拾い上げて装着した。

「メガネ、大丈夫でしたか?」

「うん、大丈夫みたいだね」

 そう言って、先輩は普段と変わらない爽やかな笑顔で返してくれた。

「急いでるんでしょう?」

「あ、はい。あの、ありがとうございました。じゃあ、失礼します」

 本当に申し訳ないと思いつつも、私は図書室から駆け出した。


 アマネの話は聞いていて楽しい。人間とは違う世界で生きている事がよく分かるからだ。

 例えば、今日は雨蛙と世間話をしていたとか、花からも色々な話を聞いていたとか、私には想像も出来ない事を当たり前のように話してくれるのだ。

 他にも、雨が地面を叩く音や水が流れる音は勿論のこと、大地に雨が染み込んでいく音がよく聴こえるとか、雨の雫が愛おしいとか。彼は少しずつ、自分の事をよく話すようになってくれた。

「アマネ!」

 いつもの場所で呼びかけると、アマネがこちらを振り返った。

「美雨、今日は来ないかと思っていた」

「学校の用事で遅くなっちゃったの。待たせてごめんね」

「いや」

 そう言うと、アマネは両腕を空へと伸ばす。すると、少しだけ明るくなってきていた空が、再び薄暗くなった。

「久し振りだからな。もう少し降らせたい」

「そっか、晴れの日が続いてたもんね」

「ああ」

 ゆっくりと両手を下ろす。ふと何かに気付いたのか、アマネは紫陽花に手を伸ばした。

 葉についた雫を指で優しく拭い、愛おしそうに見つめる。そうしている彼の眼差まなざしはとても穏やかで優しくなるのだ。

 私はそのアマネの表情が大好きだった。

 いつか私にも、そんな優しい眼差しを向けてくれたなら……。

 私はいつしか、そんな事を考えるようになっていた。

 私はきっと、対象外――。

 そんな言葉がチクリと胸を刺すけれど、気付かない振りをした。

「アマネ、今日は何をしてたの?」

「今日はアメンボが来た。何やら早口で言いたい事だけ言って去っていったな。まったく、いつ会っても忙しそうな奴だ」

 そんな事を言いながらも、やっぱり彼の目元は優しい。

「確かに、アメンボって素早いし、忙しそうに見えるかも!」

 私がアマネにそう笑いかけた時、風が強く吹き付けて、傘から落ちた雨粒が、私の顔へ飛んできた。

「んっ!」

 私の手が反射的に顔を拭う。

「すまない。強すぎたか」

 アマネが私へ視線を移した。

「大丈夫。平気だよ」

 私もアマネがよく見えるように、傘を少しだけ持ち上げて返事をした。

「雫が……」

「え?」

 アマネの視線が、私の顔から髪へと移動した。そして彼の手が、私の髪へと伸ばされる。

 アマネに触れられると思った瞬間、彼の手は静かに下ろされた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る