二
不思議な彼と出会った日から数日が経つ。今日は休日だというのに、朝から雨が降っていた。
「
母親が仕事へ行く支度をしながら私に言った。
「え~、この雨の中? ちょっと遠いのに?」
時間がないからお願い、と母は両手を合わせて言うと、
仕方がないなと朝食をキッチンへと片付けると、私も支度をして家を出た。相手が留守だったら、回覧板は玄関に置いてくればいいだけだ。
帰りは適当に散歩でもして帰ってこよう。そう思った。
しとしとと穏やかだけれど、細かくて密な雨。長靴で歩く音が、地面を転がる石のように重たげに鳴っている。
回覧板を受け取った松田さんから、「あら、誰か迎えに行くの?」と言われた。私が差していた傘の他に、もう一本持っていたからだ。
それはあの日に借りた傘だ。ぼろぼろだったはずの傘。彼が不思議な力で
返した方がいいのだろうと思っているのに、あの日からなかなか会えずにいる。
今日も駄目だろうかと思いつつも、持ち歩くことが癖になってしまったようだ。
遠目に紫陽花通りが見え始める。
あ――。
居た!
この雨の中、傘を差さずに紫陽花を見ている姿。彼を見付けた私の足は、無意識に早足になっていった。
彼の横顔に少しずつ近付いていく。
間違いない。彼だ。
「あの……」
勇気を出して声をかける。すると、彼が少しだけ驚いたような顔でこちらを振り返った。
「……お前か」
この前会った時と同じような無表情で彼は言った。
「あの、これ、返そうと思って……」
そう言って、私はあの日に借りた傘を彼に差し出した。
「要らない」
無愛想な
「でも……」
「俺の物ではない」
「まあ、そうかもしれないけど……」
確かにこの傘は、この紫陽花通りに捨てられていた物だ。私は少し考えると、差し出した手を引っ込めた。
「……」
「……あの、あなたの名前は? 私は
「ミ、ウ……?」
「美しい雨って書くの」
「美しい、雨……」
すると、彼の表情が少しだけ緩んだ。
「いい名前だな」
そう言って向けられた眼差しに、どきりと胸が高鳴った。
「俺は、アマネでいい」
瞬間、すっと彼の表情が戻ってしまう。
「アマネ……」
私は呟くように口にした。
「あなたは、何者なの?」
「俺は、お前たちの言葉で、妖精というらしい。梅雨の妖精だと」
妖精? 信じられない。この世に妖精だなんて。でも、彼には不思議な力があったことは確かだ。
「ここで何をしてるの?」
「雨を降らせている」
「そう……」
「……」
「あの、」
「……何だ」
「どうして、私にはあなたの姿が見えるのかな」
アマネに問いかけると、彼は体ごと私に向き直って、私の瞳を見つめてきた。
黒いと思っていた彼の瞳は深いグレーで、目が離せなくなるほどに美しく、そして神秘的だった。
「お前からは、幼い子供のような清らかな心を感じる」
「え、いや、そんな……」
何となく恥ずかしくなって頬が熱くなる。
「本当だ。お前の心は美しい」
アマネは無表情のままでそう言った。彼のまっすぐな視線に耐えきれず、私は視線を
「ま、また会える?」
「雨の日ならばここに居る」
「雨の日だけ?」
「ああ」
この日から、雨が降った日には必ず、紫陽花通りでアマネと会うようになった。
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