紫陽花通り

平野 絵梨佳

「もー! 誰よ、盗んだのー!」

 ビニール傘には自分の物だと分かるように、何か目印をつけた方がいいという事は分かっていた。これは私が悪いのだ。

 ……本当に私が悪いのだろうか?

 いや、私は悪くない。る方が悪いのでは? 窃盗せっとうだよね? 犯罪だよね?

 そんな事を思いながら靴をき昇降口を出る。

「よし! ここは心意気で乗り切ろう」

 とはいえ、午後から降り始めた雨は、結構な大降りになっていた。

 今日の放課後は図書委員の仕事があった為、友人たちには先に帰ってもらっていた。

 この時間、自宅には誰もいない。自力で帰るのならば、濡れて帰るほかないのだ。

「こういう日に限って、なんで置き傘が持ち帰ったままになってたんだろう。梅雨つゆに入ったっていうのに、私のバカ……」

 どうせ濡れてしまうのだ。走っても意味はないだろう。まだ生徒がぽつぽつと残る中、私は雨の中を歩き出した。

 空を見上げると、梅雨つゆぞらのグレーが重苦しく広がっている。

 雨粒はあっという間に前髪を濡らし、それは額へと伝ってきた。溜め息をつきながら、雨粒を手の甲でぬぐう。

 校門を出て、いつも通り人通りの少ない道へと入る。次の角を曲がると、綺麗な紫陽花あじさい通りがあって、私は毎年、そこの紫陽花通りを歩くのが楽しみだった。

 角を曲がる。

「……?」

 紫陽花通りに誰か居る。勿論もちろん、それが特別に珍しいわけではない。けれど、その人はとても目立っていたのだ。

 その人はこの雨の中、私のように傘を差していなかった。

 それから、もう一つ――。

 私の気配に気が付いたのか、その人はこちらを振り向いた。そして、私と視線が合うと、その瞳がわずかに驚きの色に染まったような気がした。

「お前……、俺が見えるのか?」

「は……?」

 そんな言葉で突然話しかけられたら怖いじゃない。そう思いながらも、反射的に彼を見上げていた。

 年は私と同じくらいだろうか。背は低くもなく高くもない。体格も普通だろうか。

 髪は少しだけクセ毛っぽいけれど、重苦しくは見えな――

 えっ……!!

 目の前に立つ彼の髪は濡れていなかった。髪だけじゃない。服も、靴も、何もかも。確かに雨は彼に当たっているはずなのに、彼は濡れていないのだ。

「……何? ……幽……霊……?」

「いや、違う……」

 彼は、紫陽花の木の間に隠すようにして捨てられていた傘を手に取った。

 その傘は、もう使えるレベルの物ではなくなっている。

 彼が瞳を閉じると、彼の手元が光輝き、その光が傘を包んだ。

「うそ……」

 光に包まれた傘は、新品のようになって彼の手に収まっていた。

「必要なんだろう? 人間は」

 彼は無表情でその傘を私に差し出した。

「あなたは……人間じゃない……?」

 彼は私の言葉には答えずに、私を見据えて傘を差し出している。

「あの、私、もう濡れちゃってるからさ。……あなたが使ったら?」

「俺には必要ない」

 彼は無表情のまま私を見ていた。すると突然、彼は後ろを振り向いて口を開いた。

「ああ、分かった。今行く」

 彼が声をかけた方には誰も居ない。彼はすぐに、驚愕きょうがくして固まっている私に向き直った。

「ほら、これを使え」

 そう言うと、差し出していた傘を、さらに私に近付けた。頭で考えるよりも先に、私の手は傘を握ってしまう。

 そして彼は、背を向けて静かに歩き出した。

「あ、あの……」

 突然の出来事に頭がついていけない。

 彼は足を止め、無表情のままこちらを振り返った。

「傘、ありがとう……」

 頭が混乱していて、無意識に、そんなお礼の言葉を口にしていた。もっと他に言いたい事はあるはずなのに。

 彼は私の言葉を聞くと、そのまま姿を消した。言葉の通り、“消えて”しまったのだ。

「何……、今の……」


 これが、彼と私の出逢いだった。

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