鉾を持つ者
研究所から離脱して数時間が経過しようとしたころ、不意に、コックピット内の水圧のメーターが振れた。リュドミラは己が感じたデジャヴのままに機体の進行方向を変え、来たるべき衝撃を回避する。
次いで、隕石でも落下したかのような衝撃。リュドミラは衝撃波を完全に回避することができなかったが、その分の衝撃を流体装甲が吸収していた。損害は軽微だ。
リュドミラたちの目前に、両腕が不自然に大きなダイヴスーツのシルエットが浮かび上がる。そしてそいつは、いつかのようにこちらの近距離通信にねじ込んできた。
「人の命が軽い世の中だ」
カッシーニ・ソヴィエト水軍中佐、アレクセイ・ヤクボクの声だった。
「戦艦一つの陥落で何百もの人間が死に、命令書一つで共同体一つが消え去る。なあ、ダイヴスーツ乗りよ」
「アレクセイ・ヤクボク」
「覚えて貰えるとは光栄だな。リュドミラ・パスカヴィル。よくもまあ一人で潜入してきたものだ。そして……状況は分かっているな?」
「無論だ」
互いに目的があり、それを決して譲ることはできない。衝突は避けられないが、しかし、だからこそリュドミラたちは言葉を交わしていた。
「では補足しておこう。既に第二級交戦距離には我らが艦隊が展開を終えている。合図一つで飽和攻撃が可能だ。だが、それでは意味がない」
ソヴィエトとの交渉で、リュドミラたちは新型機体が自走機雷による飽和攻撃をも耐えることを知っていた。それは今の状況にも当てはまり、戦艦からの雷撃戦闘は牽制以上のものにはならないはずだ。
だからこそ、アレクセイはこうして目の前に立ちふさがっている。
「オレグ・ヘルマンといったな。貴君はその機体の名を知っているかね?」
「そういや知らないっすね」
「
「つまり現状であんたの装甲をぶち抜けるのは、この機体しかいないわけっすね」
アレクセイは低く笑った。
「そうだとも。なんとも味気のない戦いばかりだったよ。この
「そいつはまた贅沢な悩みっすね」
いい機会だと、リュドミラは以前から疑問に思っていたことを投げかける。
「外からの暴力が流れ込んで来れば、お前たちも脅かされる側になる。その時、お前たちは私たちのような採掘企業など切って捨てるだろうな」
「そのような考え方もあるか。だが、それは不可能だ。既に我が邦にとって、採掘企業との繋がりは切っては切り離せぬものとなっている。今更切り捨てることなどできるはずもない」
ソヴィエトは零細企業を切り捨てることができない。リュドミラはその発言に虚を突かれる。
だが、オレグはそうではなかった。
「つまり、あんたたちは外との戦いのとき、俺たちを矢面に立たせるわけっすね。今までと同じだ。いや、もっと性質が悪い。それで戦闘ができる人材がいなくなったら、その企業はどうなる? 資本ごとあんたたちに食われるしかない」
「よくわかっているではないか。オレグ・ヘルマン。流石は元傭兵と云うべきか」
アレクセイは再び低く笑うと、鷹揚に機体の両腕を広げた。奇妙な動作に、リュドミラは機体を身構える。
「それにしても、痛快だとは思わないかね?」
「何がだ?」
「このような高圧環境下では人間一人の命など軽い。故に我々は群れ、規律で自らを律し、個を全体に捧げている」
そもそも、人類が群れなかった日など無いがね。アレクセイはそう続けた。
「だが、どうだ。この状況は。この場にいるのは私と、君たち二人だけだ。この戦いが水層世界の未来を変えるかもしれぬ。だが今、この瞬間だけは、大企業と零細企業の違いなど存在しない。個人と個人のぶつかり合いだ」
「あんた、案外暑苦しい男だったんっすね」
大分温度差のある返答に、アレクセイは苦笑の声を漏らす。それでも愉快そうな様子だった。直後、アレクセイの機体から発せられる重力波が明らかに出力を増す。
「では始めようか。史上初めて記録される、メタトロン装甲を持った機体同士の戦闘を!」
云うや否や、アレクセイは機体の右腕を引き絞る。リュドミラとオレグがその場から離脱すると同時にそれは放たれ、深海生物の咢を思わせる破壊がリュドミラの影を捉える。
一度相対した経験から、リュドミラたちはこの攻撃の正体をおおよそ予測していた。礫投げ(ウェリテス)の腕を構成するメタトロン装甲が前方の空間を瞬間的に圧縮し、真空の一段階上の空白地帯、質量の断層を作り出す。周りの溶液は一時的に圧縮されメタトロン化した物質からの反重力で押し出されるが、次の瞬間に圧縮された空間が前方に射出されると、支えを失って咢のごとく空白地帯に殺到する。
以前、ワイヤーが容易に捻じ切られた原理はこれだ。瞬間的な空間圧縮による反重力と、空白地帯に殺到する物質の境目では、どのような物質であろうとも捻じ切られ、圧潰する。
原理が分かればどのように回避すればよいのかも分かる。リュドミラは既に
初撃を回避したオレグが、ブレードを展開して躍りかかる。スラスターの爆発的な加速で、流線型の機体が滑るように
オレグが無造作にブレードを振り下ろすが、その直前にアレクセイが腕を一振りすると、刃は軌道を逸らされて水中を切り裂くのみ。
「くそっ、なんて水圧だ」
オレグが毒づく。
攻撃を躱したアレクセイは体勢を立て直し、ショルダータックルの要領で突っ込んでくる。あの質量のメタトロン装甲を持つ機体に体当たりされたら、どんな作用をぶつけられるか分かったものではない。オレグは機体の身軽さを利用して闘牛師のごとく機体を翻す。機動力では
しかし、アレクセイは突進の動きを止めず、腕を振るったかと思うと急激なベクトル変換をかましてリュドミラへと突っ込んできた。
「姐さん!」
リュドミラは答えず、機体の右腕を構えた。リュドミラを狙ってくるのは想定内だ、こちらは圧倒的に戦力に劣るのだから。
この行動でオレグはアレクセイに攻撃できる機会を失った。こちらを救援しようと、全力でアレクセイに追従する。
これまでの動きを見る限り、
リュドミラはギリギリすれ違う軌道へと機体を加速させ、右腕の
しかし、
「何っ!」
アレクセイが狼狽の声を上げる。
「やれ!」
リュドミラの一喝を受けたオレグが、背後からアレクセイを強襲する。一度腕を振り抜いたアレクセイは、すぐには腕による重力制御ができないはずだ。
進路上の物質すべてを切り裂く
リュドミラからは、アレクセイがブレードを回避したのではなく、オレグが機体ごと右にずれたように見えた。得体の知れない挙動に、オレグはその場を離脱する。
「ふむ、それぞれ一枚手札を切ったわけだ」
アレクセイが素早くこちらに向き直る。リュドミラは未だスパークを散らす非破壊検査モードの
「やはり重力制御の肝は密度か。ソールの話は正しかったわけだ」
リュドミラとユーリ、それとソールがずっと疑問に思っていたことがある。この戦いの発端となった、メタトロン装甲に覆われた研究施設だ。
メタトロンは自身が圧縮した空間の圧力の差分、反重力を発生させる。施設を覆っていたメタトロンは低い密度にも関わらず、鋼鉄の七十倍もの強度を持っていた。これほどの強度を持つためには相応の空間圧縮が必要なはずだが、それに付随する反重力を発生させていなかった。
モナドからの聞き取り調査や
ヒントはメタトロンの密度の低さにあった。あの研究施設を覆っていたメタトロン装甲を調べたところ、その組成はダイヴスーツの代謝性金属繊維に近いもので、自在に内部の結合や密度を変化させられる代物だということが判明した。
「一度空間を圧縮したメタトロンは、密度を上げると組成を保てなくなり、空間の圧縮度が下がる。よく発見したもんっすよね。しかもその現象に必要な圧縮度は従来の数十倍とか。やっぱセフィトロの研究者どもは変態っすわ」
モナドから情報を受け取ったオレグが、確認するように呟く。メタトロン化した後の物質の密度を操り、内部で反重力を相殺させる。それがあの装甲の実態だった。
「そこで
超重力装甲を無効化しかねない手段を受けて尚、アレクセイは愉快そうに話す。
「その努力に敬意を表し、先の手札を明かしてやろう。見るがいい」
「
羽化すると同時に重力波の変化を解析したオレグが感嘆した。
「ご名答。これだけの量の超重力物質があれば、この圧縮度のメタトロンを保有できる。重力制御も思いのままだ。機体が重すぎて水層世界でしか活動できないのが難点だがね」
すぐにアレクセイは
「では、続けようか」
アレクセイは一方的に話を打ち切り、再度リュドミラに突進してきた。
「させるか!」
オレグがブレードを展開して立ちはだかる。ノーモーションで放たれた斬撃は、またしても強力な重力によってずらされる。だが、オレグは人魚のように機体を反転させると、礫投げの頭上から斬りかかった。
アレクセイは右腕を動かし、さらにオレグの放った斬撃をずらす。
確かにあの量のメタトロンを利用できるのならば、
オレグは反撃する隙を与えないよう、絶えずブレードを振るい続ける。当たりさえすればどのような装甲も貫く
リュドミラもいつでも干渉できるようにスラスターの用意をするが、荒れ狂う重力の断層とブレードの軌道には隙がなく、行動を起こせないでいた。
何度目かの斬撃で、オレグは
オレグは好機と見るや攻勢に出る。驚くべき速度で背後を取り、抉り出すような斬撃を胴体へと向けて放った。
その瞬間、リュドミラは
空間圧縮により格納されていた超重力物質の一部を、急激に圧縮率を下げて射出する。椀部が大きく小回りが利かない
オレグはその様子を詳細に幻視したはずだ。だが、そうはならなかった。超重力装甲の槍がブレードを掠めた瞬間、
「姐さん!」
「重力操作は私がやる。お前は戦闘に集中しろ」
リュドミラによる遠隔操作の結果だった。モナド本体を乗せたことで、鉾を持つ者(ハルバーディア)は恐るべき精度でリュドミラの指示に従うようになっていた。
重力制御に意識を割かなくなったオレグは、更にペースを上げて攻撃する。オレグ本人の戦闘センスが多分に影響しているだろうが、モナドによる戦術思考支援が加わることで動きの荒が取れている。さらにリュドミラの持つデコードキーと同調し、重力操作までも戦術に取り込む。
「素晴らしい! 聞いていた以上の性能だ。ダイバーによってこれほどまでに力が引き出されるとは」
決して有利な状況ではないはずだが、アレクセイは歓喜を込めて叫ぶ。
「こちらも出し惜しみはしていられないな。私の覚悟を見せてやろう!」
アレクセイが言うや否や、
リュドミラの記憶が正しければ、それはハリネズミとかいう動物のようだった。背中から超重力物質の針が無秩序に成長していく。
「なんすかあれ、気持ち悪いっすね」
リュドミラも同感だった。機械らしくないその挙動は虫かなにかを連想させる。
「行くぞ!」
合気と共にアレクセイが突進してくる。回避を優先しないのならば好機だと、リュドミラとオレグも同時に攻撃を開始する。
だが、アレクセイに接近すると共に異常な強度の重力波を感知したリュドミラは、ほとんど反射で非破壊検査モードの
「ふふふ、素晴らしいな、これは。しかしよくもまあこんなものを常時使えるものだ。頭が割れそうだ」
一矢報いた恰好のアレクセイだが、その声には余裕が無かった。
「お前もモナドを……?」
オレグが緊張をはらんだ声で問うた。
「紛い物だ。オリジナルには遠く及ばん。だが、少なくとも同じ土俵には立つことができる」
「完全な複製は作れていないというわけか。ソヴィエトがモナドを欲しがるわけだな」
アレクセイはそれには答えず、再度突撃を開始した。先ほどとは違い余裕がないのだろう。短期決戦を望んでいるようだ。
アレクセイの突撃に合わせ、オレグが迎撃する。
リュドミラもまた、重力変化の相殺に追われていた。こちらは二人がかりだが、礫投げ(ウェリテス)はメタトロンの保有量が違う。オレグの戦闘センスと、リュドミラの戦術眼によって辛うじて凌ぎ続ける。
「くそっ、怪物か、こいつは」
「があっ!」
幾度もの打ち合いの末、アレクセイが咆哮を上げた。放たれた防御を捨てた一撃によって、
「終わりだ!」
合気を一つ、アレクセイは
続けてリュドミラも始末せんと、アレクセイはその先を見るが、しかし、そこには
撤退した可能性を吟味し、
対処する時間は無かった。
アレクセイの死亡を確認する暇もなく、唐突に
「終わった、か」
リュドミラは思わず詰めていた息を吐き出す。
「おい、オレグ、生きているか」
「ええ、なんとか。にしても、この機体は本当に丈夫っすね。あと一撃喰らってたら危なかったっすけど」
「よくやった」
「姐さんが俺の背後からあいつに近づいて行った時はヒヤヒヤもんでしたよ。重力制御のパターンでピンと来たっすけど。味方の戦闘能力が失われた瞬間に攻勢をかけるとか、姐さん無茶しすぎっすね」
「アレクセイは持久戦を許さなかっただろうからな。ならば相手の攻勢に合わせるしかあるまい」
鉾を持つ者(ハルバーディア)の重力制御と、リュドミラの機体の流体装甲によるステルス性の合わせ技によるものだった。重力変化で流体装甲を投下する光を捻じ曲げれば、視認は極めて難しくなるだろう。
「まあそうっすけど。で、この状況はどうするつもりなんですか?」
オレグは周囲を潜水戦艦に囲まれたこの状況を指して言う。
「さあな。どうにもならんだろう」
機体半分が粉砕され、両腕を失った新型ダイヴスーツと、左足を喪失したただのダイヴスーツ。これではとても戦艦の制圧雷撃に耐えられるとは思えない。
「投げやりっすね、姐さんらしくない」
「かもな」
それほど現状は致命的だった。こちらはメタトロン装甲の絶対量が足らない。足らないものはどうしたって足らないものだ。特に高圧環境下の単独作業では。
『現状の打開策を提案する』
だから、その合成音声が意味することを、リュドミラは一瞬、掴み損ねた。
「モナドか」
『肯定する。私に与えられた禁止命令は、宿り主の口を利用して勝手に発言することであったと記憶している』
「お前もご苦労だったな」
この作戦中、モナドは全力でオレグの支援を行い、同時にリュドミラからの重力変化の操作を受け付けていた。この作戦の一番の功労者であると言える。とはいえ、一連の事件の原因は彼にあるのだが。
『私は存在意義を達成している』
「そうか、それで、打開策とは何だ?」
モナドは速やかに答えた。
「礫投げ(ウェリテス)の残骸は大量のメタトロンを保有している。本機体の重力操作能力と電磁削岩機(マグパイル)の磁気操作を利用すれば、現状で十分な強度のシェルターに加工することが可能である」
リュドミラはほとんど球状になった
「だ、そうだが。オレグ、その機体で泳げそうか?」
「無理っすよ。出来れば運んでもらえると嬉しいっすね」
「ふん、まあいいだろう。さっさと作業を始めるぞ」
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