白鳥の湖

サトミサラ

白鳥の湖

「きらいよ」

 雨が止んだのかと、思った。彼女の落とした言葉は、薄暗い廊下にはよく響いた。思わずその腕から手を離す。彼女のことは、ずっと分からない。

「なにが、です」

「何もかも。でも、あんたがいちばんきらい」

「そう、ですか」

 他になんて答えるのが正解だったのだろう。彼女のことなんて、何も知りやしないのに。彼女は不満げに息をこぼしただけで、それ以上何も言わなかった。

「すきですよ」

 反対の言葉を返してやると、彼女はじっと目を合わせたまま、弱く笑った。つややかな黒い髪が揺れて、雨粒が手に落ちた。慌てて手を引っ込めたが、彼女は逃げはしなかった。

 ずっと彼女を追いかけていた。名前も知らぬまま、遠くから見つめていた。その美しさに見惚れて、そして今やっと腕を掴んだ。彼女に触れることができた。

「きっと、空だって飛べたのに」

「雨の日に、ですか」

 鳥だって、わざわざ雨の日を選んで飛んだりしないだろう。それでも確かに、彼女は飛ぼうとしていた。あのとき、腕をつかんでいなかったら、彼女は迷わず飛んでいただろう。

「ばかね」

 立ち上がった彼女が、大きく腕を広げた。澄んだ声が、心に刺さった。

「こんなに大きな翼があるでしょう」

 凛と伸びた背中が、美しい髪が、整った顔立ちが、彼女には嫌というほどよく似合う。白のセーラー服がひらりと揺れ、目が離せない。バレエなんて見たことがないけれど、それはきっと白鳥の湖だろう。白くて、大きな翼を持つ白鳥に、彼女は確かに似ている。

「人でいてください。だって、あなたのことが……」

 彼女はもう、そんな言葉はどうでも良かった。開け放ったドアの向こう側には青空が広がっていた。そして華麗に、艶やかに、舞う。あれほどに美しい景色は、今までに見たことがあっただろうか。彼女は確かに、空を飛んだのだ。

 雨なんて、とうに止んだはずだった。膝の上にこぼれ落ちた雫は、雨ではないのだろう。

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白鳥の湖 サトミサラ @sarasa-mls

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