第5話 涙橋

 社長の家は、アパートの近所にある立派な邸宅だ。

 道すがら、ふつふつと怒りが沸いてくる。石沢が事務所へ電話してきた時のように、私のテリトリーへ勝手に上がり込んでくる図々しさが腹立たしかった。

 一体、何をしにきたのか。真意は分からないが、これ以上振り回されるのはごめんだ。私はぐっと拳を握り、唇を噛み締めた。

 社長宅に着いて呼び鈴を鳴らすと、間を空けず玄関が開いて、咲江さんが顔を出した。

「尾田君、待ってたわよ。どうぞ上がって」

 咲江さんはいつものような調子で私を出迎えた。そして私を家の奥、応接間へと案内してくれる。

「息子さん、お見えになりましたよ」

 そう呼びかけながら、咲江さんは応接間のドアを開いた。

 室内は白い絨毯が敷き詰められ、壁際にはいくつかの調度品が飾られている。部屋の真ん中、茶色い大きな革のソファに、美恵子が座っていた。ソファの前のローテーブルにはコーヒーのカップが置かれている。

「お手数掛けてすみません、奥様」

 そう言って、美恵子は咲江さんへ頭を下げた。彼女は面会時とまったく同じ格好だった。この質素なワンピース以外、まともな外出着を持っていないのかもしれない。

「お茶を淹れてくるわね」

 私を応接間へ通し、咲江さんは気を利かせたつもりか、そそくさと台所へ下がっていった。部屋の入り口で立ち尽くしたままの私へ、美恵子が恐る恐る声を掛けてくる。

「孝弘……」

「どうして」

 私は呻いた。

「どうして、来たんですか」

 美恵子は沈黙して、私へ差し伸べた腕を下ろした。

「――もう一度、会いたかったの」

 彼女は縋るような目で、私を見つめてくる。それから取り繕うように笑って言った。

「この前は、ろくに話し合いも出来ないまま石沢さんに連れ帰られちゃったから。今日はゆっくり話せるわね」

「話すことなんて、何もないです」

「――そんな」

 私の言葉に、美恵子はショックを隠しきれない様子だった。

「何もない訳ないでしょう? 二十四年も会えなかったのに」

「こっちはあなたの事なんてひとつも覚えていないんだ」

 私は声を荒げて美恵子を睨みつけた。彼女は体を竦ませ、それから、細い目尻に涙を浮かべた。

「やっぱり、怒ってるよね」

 美恵子は俯き、私から目を逸らした。拍子に、小さい水滴が頬を伝って落ちていく。

「当然よね。あんなに小さかったあなたを残して出て行った母親なんか、許せるはずがないわね」

 私は頭を抱えそうになった。どうしてここまで、息子はずっと自分のことを想ってくれていたはずと思い込めるのか。私には、この人が信じている親子の絆なんて、これっぽっちも存在しないのに。

「本当にごめんなさい」

 美恵子はなおも、自分が信じているそれを私へ押しつけてくる。

「私、あれから後悔しない日はなかったわ。いつも、あなたのことばかり考えていた。なのに、ずっと勇気が出なくて・・…ううん、言い訳なんて今更よね。私は謝ることしかできないの。ごめんなさい、孝弘。本当に……」

「じゃあ、許します」

 これ以上彼女の自己満足に付き合う気は無かった。私はうんざりしながら言い捨てる。

「あなたの謝罪を受け入れます。だから、もう帰って下さい」

 美恵子は固まって、言葉を失っていた。予想外の反応だったのだろうか、おろおろと視線を彷徨わせている。

 そこへ、私の分のコーヒーを持って咲江さんが応接間へ戻ってきた。

「まあ、一体どうしたんです」

 驚いた咲江さんはカップをテーブルに置いて、私と美恵子の間に立つ。私はどう答えたらいいものか、頭を悩ませた。

「奥様、これは私達親子の問題ですから……」

 涙を拭いながら、美恵子が健気に振る舞った。咲江さんはますます心配の色を濃くして、彼女の背中を擦る。

「遠藤さん。第三者を入れることで、問題が解決することもあります。話してみませんか?」

「奥様……ありがとうございます」 

 美恵子は再び涙を流し始める。そして私が止める間もなく、己の境遇をつらつらと語り出してしまった。

 いよいよをもって、私はこの人が憎らしくなった。きっと彼女はこんな風に人を巻き込みながら、そのくせ自分は飄々と生きてきたのだろう。腸が煮えくり返るとは、まさにこのことか。

「――それで、私はただこの子に会いたくて……その一心で今日は……」

「遠藤さん……」

 咲江さんが同情に溢れた眼差しで、美恵子を見つめている。私は吐き気がする思いだった。

「咲江さん」

 堪らず、私は声を掛けた。これ以上、彼女の自己満足に他人を巻き込みたくない。私は咲江さんに暫く二人だけにしてくれと告げようとした。

 しかし咲江さんが私へ目線を向けた途端、私の口は固まって、動けなくなった。咲江さんの目は、あの日見た石沢の目と同じだった。

「尾田君」

 咲江さんは子供を諭す時のように、慈悲深く微笑んだ。

「少しだけでも、お母さんのお話を聞いてあげたらどうかしら」

 それを聞いた美恵子は、わざとらしく首を振って声を上げた。もちろん、目尻から涙を一筋垂れ流しながら。

「やっぱりいけません、奥様。これは、私達自身で解決しなくちゃいけないことです」

「でも、遠藤さん」

 美恵子と咲江さんの様子を、私はどこか他人事のように見ていた。ただ、咲江さんがあちら側の人間なのだという事実が無性に悲しく、また悔しくもあった。

 あるいは、美恵子や咲江さん、石沢達こそ正しいのかもしれない。子は母を、母は子を慕い、支え合う。親子の間、同じ血と血の間には断ち切れない強い絆がある。なればこそ、民法はこう定めているのではないか。

『民法第877条 第一項

 直系血族及び兄弟姉妹は互いに扶養する義務がある』

 そうとするならば、やはり。

 ――私は、どうあっても聖人にはなれないのだと悟った。

「咲江さん。急用を思い出したんで、行ってきます」

 私の口は勝手に動き、咲江さんを呆れさせた。

「ちょっと待ちなさい」

 逃げてはダメ、と咲江さんの叱咤が聞こえる気がした。しかしもう構わない。彼女等がいくら盲信のもと、私の心をぐちゃぐちゃにかき回して『親子の絆』なるものを引きずり出そうとしても、それは叶わないことなのだ。

 ないものは、ないのだから。

「孝弘!」

 美恵子が悲鳴混じりに叫ぶ。それを振り切り、私は社長宅を飛び出した。

 太陽は頂点に近付き、気温はぐんぐん上がっていく。空は目も眩む程青く光り、深緑の葉が風に揺られて白く煌めいていた。

 全てが清く輝く中を、黒い影を揺らしてひたすら走る。太陽は責めるように私の背を焼き、その中にある残酷な、私が真に正当なものとしたかった感情を白日の下に晒し出した。

 私はポケットを探る。幸い、携帯はそこにちゃんと収まっていた。

 人気の無い公園の前で、私はようやく走るのを止め、車止めの柵へ座り込む。汗は顔を伝ってだらだらと足下の地面へ降り、息はいつまでも荒かった。唾を飲み込み、大きく息を吸った。

 携帯を取り出し、画面をタップする。躊躇うことなく叔母の電話番号を押し、発信した。

叔母はすぐに電話に出てくれた。

『もしもし、ヒロ?』

「叔母さん」

 声はしゃがれ、鼻の奥が熱くなる。私は折れて崩れてしまいそうな意思を必死に支えた。携帯を持つ手に力が入る。

「教えて、母親のこと、全部。何があって、どうなったか」

『ちょっと、どうしたの? 何かあったの?』

 叔母は動揺を隠せないらしく、声が裏返っていた。私は俯きながら、喉の奥から言葉を吐き出す。

「知りたいんだ、知らなければいけないんだ。そうでもしないと――」

 太陽が背中を炙る。残酷な感情は悲鳴を上げてのたうち回る。それは傷を欲していた。自分が正当なものであるための、深く醜い傷を。

 私が清廉潔白である証を。

『――分かった』

 長い沈黙の後で、叔母は何かを悟ったように、決意を声に滲ませながら語り出した。

『兄さんは……あなたのお父さんは、あの女に騙されたのよ』

 それは今まで聞いたこともない、固く、重い声だった。

『お父さんは若い頃、あの女と駆け落ちしたの。私達とも縁を切って、ずっと長いこと連絡もつかなかったわ。――お父さんがあの女と離婚して帰ってきた時、皆心底驚いたの。昔の面影がすっかり失せて、まるで別人みたいにやつれてしまっていた。その上、借金まで背負わされて』

 叔母の声が震えだす。荒い吐息がこちらにまで聞こえてくる。

『あの女はね、兄さんに散々貢がせておいて、もっと条件の良い男が見つかると、そっちに鞍替えしようとしたのよ。唐突に兄さんと別居して、夫婦の擦れ違いによる調停離婚に持ち込んで。調停の場で子供の親権の話になった時、あの女は……』

 叔母の言葉が詰まり、躊躇うような息づかいだけが聞こえてくる。やがて叔母は怒りに満ちた声を吐き出した。

『鼻で笑ったんですって。あなたにお任せするから、どうぞご自由にって。まるで、物か何を譲ってやるような態度だったって』

 何かが、確実に私の胸に突き刺さった。求めていた傷を与えられ、苦しみから解放されると同時に、私の心は血塗れになり、暗いところへ転がってゆく。私はそれを黙って見ている。古傷に喘ぐ私を、遠く、遠くから。

『兄さんはそこでどうでも良くなって――いえ、目が覚めたのね。こっちにあなたを連れて帰ってきて、家族皆に頭を下げたの。あの女への慰謝料と、あの女に騙されて被った借金で、兄さんは本当に一文無しだった。――私が許せないのは、あの女が兄さんを誑かしたことでも、借金を背負わせたことでもない、私達家族から兄さんを奪ったことよ』

 叔母は、父の妹に戻っていた。涙声を隠そうともせず、胸の内を吐露し続ける。

『私達は帰ってきた兄さんを、ひたすら頭を下げる兄さんを許したわ。ただ純粋に、嬉しかったの。でも、兄さんはすっかり変わっていて――明るくて頼もしかったのに、変に卑屈で、寂しそうに笑うようになって。昔の兄さんが消えてしまったみたいで、凄く悲しかった……。全部、あの女がいけないのよ!』

 悲痛な叫びが、私の耳を、心をつんざく。

『私、絶対許さないわ。許せないわよ』 

 私は涙を流して、叔母へ許しを乞うた。

「ごめん、叔母さん」

 叔母は嗚咽を漏らしながら、ううん、と言った。

『私の方こそごめんなさい。過去に何があっても、あなたにとってはたった一人の母親なのに、酷いことを言って……』

「叔母さん」

 そうじゃないんだ。私は――私が、許して欲しいんだ。

 叔母が、家族がずっと私を傷つけないように心に秘めていた苦しみを、自分勝手な理由でこじ開けてしまったことを。私はいつの間に、こんなに悪い奴になってしまったのだろう。

「ごめん。ごめん……」

『ヒロ』

 叔母は優しく語り掛けてくる。私はもはや返事も出来ず、ぐっと唇を噛んで、涙を落とし続けた。

『これだけは覚えておいて。何があっても私は……私や夫や和樹は、あなたの味方だから。周りが何と言おうと、私達は絶対あなたを責めたりしない。だから』

 叔母が鼻をすすり上げる。

『一人で悩まないで。――家族でしょう、私達』

 それは、亡き父へ向けた言葉にも聞こえた。

 家族。

 そうだ。叔母ははいつだって、私達に手を差し伸べてくれていた。でも、父子揃って不器用で、恐がりだった。

 一寸先の闇の先には、光り輝く手が差し出されている。私はずっと、闇へ歩き出す勇気が持てなかった。知らないものは、怖いのだから。

 それでも、父が失ってしまったと思い込んでいた、私が絶対に得られないと思っていたそれは、目に見えないだけで、確かにそこにあったのに。

 私達は、真に家族から愛されていたのに。

「ごめんなさい」

 どうして、こんなになるまで気づかなかったんだろう。

「ごめんなさい、叔母さん。ごめんなさい……」

 私は泣いた。泣いても泣いても足りない気がした。二十四年分の後悔と、二十四年ぶりの安堵感で、私は子供のように喉を震わせて泣いた。

『本当、似すぎて困るのよ、あなた達父子(おやこ)は』

 叔母は笑っていた。その声はまだ少しだけ、涙で濡れていた。

 やがて太陽が雲に隠れ、私の背中はその日差しから解放される。足下の地面は涙と汗で真っ黒だったが、それもすぐに乾いて、もとの地面に戻っていった。 



 延々泣いて、泣いて、泣き疲れた頃。私は叔母に、美恵子のことを洗いざらい話した。

『そんなことだろうと思ってたわ』

 叔母はため息をついた。

『ヒロのしたいようにしなさい。この選択は、ヒロだからこそ出来るものなんだよ』

 叔母はそう言ってから、一段と声を励ました。

『何があっても、私達がついてるからね! 自分に負けるんじゃないよ!』

 それはまるで、運動会で子供を応援する母親のような口調だった。いつか、ずっと昔から掛けられてきたはずの言葉。それは頼もしく、私の心を支えてくれる。

 私は悪人でも聖人でも善き人でもないし、なくていい。そう思えた。



 私は決意を胸に、社長宅へ戻った。呼び鈴を鳴らすと、血相を変えた咲江さんが飛び出してきた。

「尾田君!」

 怒ったような、心配そうな声で叫ぶ。私は深く頭を下げた。

「さっきはすみません。逃げ出すような真似をして」

 私は顔を上げ、咲江さんの目を真っ正面から見据えた。

「母は――遠藤さんは、いますか」

 すると、咲江さんは困惑の表情を浮かべた。

「それがね……ちょっと、ついてきて」

 そう言って、咲江さんは玄関から出て、私を促して歩き出す。

 咲江さんは、私のアパートの前まで来て、そっと指差した。

「ここで待つって、聞かなくてねえ。暑いだろうに」

 咲江さんが示す先には、私の部屋の前で座り込む美恵子の姿があった。その顔は無表情で、じっと下を向いている。私は咲江さんへ向かって言った。

「咲江さんは、どうぞ帰っていて下さい。これは、私達の問題ですから」

 こう言われると、さしもの咲江さんも身を引くしかないようだった。咲江さんは何度もこちらを振り返りながら、それでも黙って引き返してくれた。

 私は一度、深呼吸した。心は落ち着いて、波風一つ立っていなかった。

 暑さのせいか辛そうに目を細める美恵子の前に立って、私は言った。

「話が、あります」

 ぱっと顔を上げた美恵子は、一瞬嬉しそうに笑った。しかし、唇を固く結んだ私の顔を見た途端、息を呑んで表情を強張らせた。

「私は、あなたを援助しません」

 私はゆっくりと、言葉を連ねる。

「一緒には暮らせません。あなたは生活保護を受けて、一人で生きていって下さい」

「……お母さんを、捨てるの」

 怒りか悲しみのためか、美恵子の顔はみるみる紅潮し、声は震えていた。

「いいの? もうあれも死んでるのに。たった一人残った身内を捨てて、あんたはそれでいいっていうの?」

 涙ながらに、美恵子が訴えてくる。あれとは、おそらく父親のことだろう。かつて愛し、子供まで成した自分の伴侶を、まるで物か何かのように言ってしまえるその精神は、私の中には流れていないと信じたい。

 美恵子は抱えていた松葉杖で、コンクリートの廊下を思いっきり叩いた。酷く煩い音がこだまして、アパート中に響き渡る。

「私は、あなたの母親なのよ! 何年離ればなれになっても、それは変わらないでしょう? ええ? そうでしょう!」 

 美恵子はすでに泣き落としではなく、脅すように声にドスをきかせて、私を睨みつけていた。アパートの住人達が何ごとかと顔を出し始め、それに気づいた彼女は勝ち誇った表情で私を見上げた。

「で、どうするのよ。私を捨てるの? こんな可哀想なお母さんを?」

 世間を味方につけたと、美恵子は勝利を確信したように微笑んだ。私はとても、とても悲しくなった。世間の価値観にしかすがれない彼女が、哀れで、愚かで、惨めだった。一歩間違えていたら、私もこの無間地獄へ陥っていたのかと思うと、身が竦んだ。

「はい、捨てます」

 私が断言すると、美恵子は今度こそ言葉を失って荒々しい鼻息を漏らした。

 私は静かに、愚かな母を諭すように、言った。

「たとえ血の繋がった親子であっても、変わるものはあります。なくなって、消えてしまうものだって、たくさん」

「何よ……何よ、それえ!」

 美恵子は絶叫し、松葉杖を私へ投げつけた。私は咄嗟に手を出して受け止める。

「あんたなんか、息子でも何でもないわ! この冷血漢! ああ、嫌になる。本当に、あのろくでなしにそっくりだね!」

 口汚く罵りながら、美恵子はもう一本の松葉杖も私に投げる。それは手元が狂ったか、大きく進行方向を曲げて、私の横へ飛んでいった。

「消えちまえ! あんたなんか頼るものか! わざわざ足まで折って、とんだ骨折り損だよ! ああ憎らしい! あんたこそ消えちまえ、消えろ!」

 泣き叫ぶ美恵子を冷ややかに見つめながら、私は携帯を取り出して、石沢へ電話を掛けた。

「もしもし、尾田です」

『まあ、尾田さん。どうなさいました?』

「今、遠藤さんがこっちに来ています。迎えに来てもらえませんか」

『え? あの……』

 美恵子が一段と奇声を上げた。戸惑う石沢に構わず、私ははっきりと、大きな声で、言った。

「お願いします。私はあの人とは金輪際関わりたくないので」

『あの、尾田さ――』

 石沢の返答を待たず、私は電話を切った。

「この、親殺しが! 人でなしが!」

 美恵子が般若のような顔で叫んだ。私は息を呑んで見守っているアパートの住人達へ、深く深く頭を下げる。

「ご迷惑を、お掛けしています」

 憤怒の絶叫が、夏の空へ吸い込まれていく。



「あ、尾田君、ちょっと」

 月曜の朝、朝礼前に事務所へ入ると、社長がバツが悪そうな顔で立っていた。七福神の恵比寿のように、いつも朗らかな社長がそんな顔をしているだけで、なんだか不安になってしまう。

「何でしょうか」

「……この前の日曜の事なんだけど」

 社長は気まずげに顔を逸らした。

「すまなかったね。嫁さんが余計なことをしてしまって」

「……いいえ」

 社長は父の先輩で、親友だった男だ。晩年にも親交が深かったのだから、当然、父親の不始末は心得ているはずだった。

「咲江さんには、どうぞお気になさらずと、伝えて下さい」

 苦い顔をしている社長へ、私は気の抜けた笑顔を見せた。

「もう、終わったことですから」

 その日の朝、私は遠藤美恵子への最後通牒を、赤い郵便ポストへ叩き入れてきたところだった。

 遠藤美恵子はあの後、石沢が慌てて回収にくるまで私を口汚く罵ったり、思い出したように母親面で涙を流していた。彼女は動かせない足の代わりに表情と口を総動員して、実に忙しく立ち回っていた。それは一種の舞台劇のようで、遠藤美恵子は一流の女優だった。私は観客席で、彼女の迫真の演技に胸を痛めた。

 日が幕を下ろす頃、石沢が到着して、わめき疲れてぐったりとした彼女を連れて行った。石沢は私に何か言いたげだったが、すっかり冷めた表情を見取り、逃げるようにその場を去った。

 

 

 後にこの夏最高気温を記録した、八月の半ば。

 早朝、私と莉奈はおよそ八時間のバスの旅を終え、アスファルトが湯気を放つバスターミナルへ降り立った。

「あっつーい」

 ワンピース姿の莉奈が、ぱたぱたと手で顔を仰ぐ。海が近いため、ここまで潮の香りが漂ってくる。私は彼女と自分の荷物を持ちながら、タクシー会社の広告を指差した。

「タクシー、呼ぼうか。ちょっと待ってて」

 すると、莉奈はぽかんと一方向を眺め、それから私の袖を軽く引っ張った。

「ねぇ、孝弘。あそこで手を振っている人、知り合い?」

 莉奈が指し示す先には、ど派手なTシャツに短パン姿の若い男が、メタリックブルーの車の前でこちらへ手を振っていた。

「ヒロ兄。お帰り」

 そう言いながら、男は私達へ近付いてきた。私は思わず声を上げた。

「和樹!」

 和樹は幼い頃から変わらない、無邪気な笑顔で私を出迎えた。

「はいはい、荷物をどうぞ」

 和樹は私達の荷物を持ち、車へ積み込んでいく。私は真新しい車を見ながら、和樹に訊いた。

「この車、和樹の?」

 荷物を詰め込んだトランクを閉めながら、和樹は得意げにピースサインを見せた。

「そ。今年ついに買っちゃいました!」

「なかなか良いじゃないか」

「母さんには派手すぎって言われたけどね」

 それから和樹は照れくさそうに、私の後ろにいる莉奈を見遣った。

「それで、こちらが……」

 変な丁寧語を使って、和樹はそろそろと手で莉奈を指し示した。和樹の様子がおかしくて、私は苦笑を漏らした。

「莉奈、紹介するよ。従兄弟の和樹」

 私が言うと、莉奈は頷いて、弾けるような笑顔で挨拶した。

「丸山莉奈です。よろしくね、和樹君」

「佐伯和樹です! いつもヒロ兄がお世話になってます!」

 緊張で声が裏返った和樹は、恥ずかしいのか顔を真っ赤にしながら、そっと私に耳打ちした。

「ヒロ兄の彼女、美人じゃん!」

「やめろよ」

 私も頬に熱を感じながら、和樹の頭を小突く。

「そういえば、叔母さんと叔父さんは家にいるの?」

「父さんは仕事だよ。母さんは一緒に来たけど、今ちょっとトイレ行ってる。もうすぐ戻ってくると思うけど。――あ、そうそう、父さんがまた釣りに行こうってさ」

「うん、分かった。楽しみだな」

 私がそう答えた時、バスターミナルの向こうから、一人の女性が歩いてきた。中年で背の低い、ふくよかな体型のその人は、私の顔を見ると、泣きそうな、しかし心底嬉しそうな表情をした。

「お帰り、ヒロ」

 私の目の前に立ち、叔母は少しだけ潤んだ目を細めた。

「ただいま、叔母さん」

 今、叔母は叔母以上の存在になった。和樹も、今この場にいない叔父も、皆が皆それ以上の存在になって、私の周りを囲んでくれている。空は晴れ渡り、潮の香りが懐かしい海辺の田舎町。私が胸を張って、故郷と言って良い場所。私の家族が待っていてくれるところ。

「叔母さん、紹介したい人がいます」

私はあらたまって頭を下げ、傍らで緊張の面持ちをした莉奈の背を、そっと押した。



 海は黒く、月明かりだけが暗い海面を割いて輝いている。夜の海は、波音が昼間よりはっきりと聞こえるような気がした。

 後ろから、楽しげに賑わう声が聞こえてくる。振り返れば、目と鼻の先に古い木造民家があり、一階の窓から暖かい光と談笑が漏れて、私のいる砂浜まで流れてくるのだった。

 私の一抹の不安もどこ吹く風、莉奈と叔母一家はあっという間に打ち解けてしまった。莉奈と叔母は私について盛り上がり、和樹と叔父は可愛いお嬢さんにデレデレで、夕食の間中私をからかい通した。あげく強い酒ばかりを飲まされ、私は夜風に当たってくると言って、体よく抜け出してきた。

 海からの風が吹きつけ、火照った体が心地よく冷やされていく。アルコールでいっぱいの頭に、高い波音が子守歌のように響いて私の足をふらつかせた。私は砂浜に直に腰を下ろして、ぼんやりと月を見上げた。

 少し片側へ膨らんだレモンのようなそれは、その歪な形を夜空にくっきりと浮かび上がらせて、煌々と輝いていた。

 風が止み、べたつくような熱気が私にまとわりついてくる。

 ふと、ズボンのポケットで何かがガサリと音を立てた。おもむろに手を突っ込んでそれを引っ張り出してみると、雑に畳んだ紙が四枚、ぞろぞろと現れた。

 遠藤美恵子からの手紙だ。

 私は墓前の父に見せてやろうと、あえてこれらを持って帰郷した。

 昼間、莉奈と訪れた父の墓で、私はそれを激戦の戦利品のように見せびらかした。だが父は無言で線香を燻らし、私の目からこぼれ落ちていく涙が灰色の玉砂利に吸い込まれていくばかりだった。莉奈は蹲る私の傍らに座って、優しく頭を撫でてくれた。

 線香の煙と、夏の日差しのもと匂い立つ夏草と、蝉の声。まるでドラマのワンシーンだと頭の片隅で思いながら、それでも涙は止まらないし、莉奈の手はずっと優しい。この悲しい気持ちも全部作り物かもしれないと怯えたが、尾田家と刻まれた御影石を見る度、胸は軋んで嗚咽が漏れた。この痛みだけは本物であってくれと、私は心底願った。

私と莉奈は、十月から新しいアパートに入って同棲する予定だ。回答書類を出した後も白い封筒は届いたが、私はその全てを局留めにしていた。新しい住所を届け出る時にでも受け取って、一気に捨てようと思う。

 暗い波を蹴立てて風が吹き、私に張り付いていた熱気を清々しく取り去ってくれた。思わず、深いため息を吐く。

 私は手紙をまとめて折り、紙飛行機を作った。肥大して不格好な紙飛行機はとても飛べそうになかったが、私は構わず、靴を脱いで波打ち際ぎりぎりまで近付き、遠い沖へ向かって構えた。裸足に砂が蠢く感触がくすぐったく、押しては引いていく波が私の体を持って行こうとするが、私はしっかりと踏ん張って、風が止むのを待った。

羽の折り目から、『孝弘』という文字が覗いていた。

 父も、叔母も叔父も、和樹や旧友達も、私の事は『ヒロ』と呼んだ。叔母がそう呼び続けた事で、周囲にはすっかり『ヒロ』として定着してしまった。私自身、それが嫌ではなかったし、皆が親しく『ヒロ』と呼んでくれる度に、なんだか幸せな気持ちになったものだ。

 私は紙飛行機を海へ向かって構える。手紙の中で遠藤美恵子が『孝弘、孝弘』と絶叫している。

 風が止んだ水面へ向かい、私は紙飛行機をふわりと飛ばした。

 紙飛行機は空中で四つに分解して、錐揉みしながら海へと墜ちていった。打ち寄せる波が彼女等を無慈悲に攫い、止まることのない波音は断末魔のようにも聞こえた。

「ヒロ!そんなところにいたら危ないでしょう!」

 背後から叔母の怒声が響く。振り返ってみると、莉奈と叔母一家がぞろぞろと家から出てくるところだった。

「ヒロ兄、顔真っ赤だね。弱いなあ」

 自分も顔を赤くしながら和樹が笑い、叔父は和樹の頭をこつんと叩く。

「お前が言うなよ。ヒロ、大丈夫か?」

「うん。大丈夫だよ。叔父さん」

背の高い叔父は私の肩を支えて、難なく海から引き上げた。

「ほら、帰ろう」

 莉奈にも肩を貸してもらいながら、私はもう一度紙飛行機を見ようと海面を見遣った。

 波に飲まれたか沈んだか、そこにはもう、紙飛行機の影も形もなかった。

「明日は和尚さんがいらっしゃるんだから、いつまでも寝ていられないからね!」

「分かってるよ、叔母さん」

 急な眠気に襲われ、私はなんとかそれだけ返事をした。莉奈と和樹の笑い声が、叔母の文句が、なんだかとても心地良い。

「ねえ」

 耳元で、莉奈が囁いた。

「私も、『ヒロ』って呼んで良い?」

 開放感に溢れた海からの風が、私の頬を撫でていった。

 静かな波音が、耳に優しく響いている。

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涙橋 城戸火夏 @kidohinatu

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