第3話 親と子

「おい、大丈夫か」

 背後から、岡崎が優しく背中を叩いてきた。私は振り返り、よう、と短く返事をする。

 昼食時。普段なら弁当も食べ終え、缶コーヒー片手に一服している時間。だが私は弁当をほとんど残したまま、無言で手元の箸を見ていた。

 食欲はない。仕事中は作業内容を頭に詰め込んでいたからマシだったが、それらが抜けてしまうとたちまちあの人――遠藤美恵子の事で頭がいっぱいになる。

 昨夜は、とても眠れなかった。

 昨日で何もかも決着がつくと思っていただけに、美恵子の置き手紙には憎悪しかなかった。同時に、自分の考えの足りなさにも失望していた。

 私は無理矢理詰め込んでいた弁当を残し、トイレへ向かった。並んでいる個室の最奥に入り、壁にもたれて息を吐いた。

いっそのこと、彼女が殺人犯だったら良かったのに。いや、強盗でも、詐欺でも、とにかく何でもいい。人様に顔向けできないような経歴でいてくれさえすれば、それが正当な理由になる。

 私は叔母へ電話して、美恵子が過去に犯したであろう極悪非道な行いを、一切合切聞いてしまおうかとも思った。

「おい、尾田。いるか?」

 ドアの向こうから、岡崎の声がした。我に返って、慌てて返事をする。

「ここだよ」

「もう仕事始まるぞ。大丈夫か?」

「ちょっと腹が痛くてさ……」

 嘘ではなかった。腹が、いや胸がぎりぎりと痛み出していた。激しく脈を打って、私を圧迫してくる。

 不意に、目から涙が一筋流れた。勝手にこみ上げて勝手にしたたり落ちていく涙は、とてつもなく気持ちが悪かった。何が悲しいのだろう。何が悔しいのだろう。分からない、全くもって分からない。

「分かった。班長には言っておくから、安心しろ」

 岡崎はそう言って、ドアを軽く叩いた。

「仕事がキツそうだったら、俺の携帯に着信よこせよ。すぐ行くから」

「ありがとう」

 私は心から礼を言う。岡崎は無理するなよと言い残し、トイレから出て行った。

 大きく息を吐く。涙も胸の痛みも、未だ止まない。会わなければ、何も知らなければ、こんな痛みを感じることもなかったのに。

 母親が非道であってくれと願うなんて、人として間違っている。

 私は聖人であろうと思ったこともないが、悪に染まるつもりもない。それなのに、昨日の過ちで、私は決断を迫られてしまった。自分の首を絞めたのだから、痛むのも当然なのだろう。

 叔母の警告を無視した罰だ。

「馬鹿だな」

 独り言ち、忌々しく流れる涙を袖でこすり取る。現状を把握すればする程、自分の愚かさに嫌気が差した。

 母親なんて別に要らないと思っていた。だって、私には父や叔母がいた。叔父も、祖父母も。友達だって。それで充分じゃないか。

 それなのに、今思い出されるのは、ずっと心に残っていたしこりの数々。

『あら、坊や、お母さんは? ――あ、そうなの。悪いこと聞いちゃったわ。ごめんなさいね』

 四歳の時、遊園地で迷子になった私へ、知らないおばさんが掛けた言葉。

『お母さんがいない分、ご家族で支えてあげてください』

 小学校へ上がって初めての家庭訪問で、担任が父へ言った言葉。

『尾田くんはお母さんいないから、買えないわね』

 小学三年生の五月。よそいきの服を着た同級生の女子に、花屋の前で言われた言葉。彼女は赤い花束を抱えていた。私はおつかいの帰りで、重いスーパーの袋をぶら下げたまま、嬉しそうに帰って行く同級生を見送った。ああ、そういえばと気づいたのは、その日の夕食時、和樹が叔母へ赤い花を渡すのを見た時だった。

 幼い頃からずっと感じていた、行き場のない戸惑い。

 母親がいないことは、『悪いこと』なのか。

 母親がいない分、自分には欠けている物があるのか。

 赤い花を買わないことは、そんなにおかしいだろうか。

 虐待をした鬼母が何人逮捕されようと、世間の多くは『子供にとって母親は必要不可欠』という価値観を崩さない。だから、母親がいない子供を端から不幸と決めつける。その扱いが、子供を傷つけることも知らないで。同情にまみれたナイフを翳して、可哀想ねと言いながら小さな心臓に突き立てるのだ。見知らぬおばさんも、担任も、同級生も。世間の価値観と悪意のない純粋な同情心が、彼らの手にナイフを握らせ、振り下ろさせる。お母さんがいなくて可哀想、大変でしょう、お母さんがいなくて、なんて言葉を吐きながら。

 また胸が苦しくなって、動悸も激しくなっていく。息を止め、目も閉じてひたすら耐えていると、ズボンのポケットで携帯が震えた。

 私は目を開けて携帯を取り出す。メールの着信ランプがついていた。

 メールは莉奈からだった。

『週末、空いてる?』そんな件名。

 覚束ない指で、そっとメールを開いてみた。

『両親が夕食でも一緒にどうですかって。来れそう?』

 一瞬、思考が停止した。私は携帯を封印するようにしまい込む。様々な思考や感情が入り乱れて、頭が働かない。

 もう、限界だった。

 私は個室を飛び出して、洗面所で勢いよく顔を洗う。頭を振って水を飛ばし、手のひらで頬を強く叩いた。

 トイレを出て作業場へ行くと、岡崎が驚いた顔で出迎えた。

「お前、顏びしょ濡れじゃん。大丈夫か」

「うん」

 私はそれだけ答えた。岡崎は訝しげな目を向けたが、とにかく顏拭いてこいと、事務所を指差した。

 事務所へ行って、鞄から予備のタオルを取り出して顔を拭く。再び作業場へ戻ってからは、ただひたすら働いた。何も考えなくて済むように。

 糸や布や、出来上がった服を様々な染料のプールに沈め、染めていく。私の頭は多種多様な色彩で埋め尽くされ、美恵子のことも莉奈のことも下地の奥へ押し込まれていく。

「あんまり気張るなよ。体調悪いんだからさ、お前」

 黙々と作業する私を、岡崎が何度も労ってくれる。私はただ頷くだけの返事をして、手を動かした。

終業後、工場を出たところで、見計らったように莉奈から電話が掛かってきた。いや、実際見計らっていたのだろう。

『お疲れ様。……お昼のメール、読んだ?』

 莉奈が探るように聞いてくる。不安げな声だった。

「ごめん、読んだけど、仕事が始まったから返信出来なくて」

 私が出任せに答えると、莉奈が小さく息を吐くのが聞こえた。

『それで、どうかな?』

 その声が、どこか強張って聞こえるのは気のせいだろうか。

「うん。大丈夫だよ」

 私は咄嗟に返事をする。莉奈を安心させたい一心で、深く考えずに答えてしまった。

『じゃあ、伝えとくね』

 そう言ってから、莉奈は再びため息を吐いた。

『あのね、孝弘』

「何?」

 私が訊くと、莉奈は黙り込んでしまった。

 莉奈はまだ会社にいるらしい。電話口の向こうからオフィスの雑音が聞こえてくる。ひっきりなしに鳴る電話。キーボードを叩く音、人の話し声。それらはどこか遠く、まるで知らない音楽を聴いているようだった。私はまた、荒れ野に置き去りにされた感覚に陥った。

 やがて莉奈は何かを振り切るように、ううん、と明るく言った。

『やっぱり何でも無い。……週末、よろしくね』

 莉奈が電話を切り、私は一人取り残される。

 珍しく晴れた空に、夕陽は昼間の輝きを失わないまま地へ落ちて、最後の最後まで赤く燃える。その強すぎる赤の残滓が、工場の門塀を焼いていた。社名の彫られた金属製のプレートがうら寂しく照り、私の影が長く平らに伸びていく。

 ぺしゃんこになってしまった影を引きずって、私はアパートへ帰った。



 翌朝、酷い吐き気に目を覚ました。どうにかこらえながらトイレへ行き、ひたすら吐いた。喉が焼け、鼻が詰まってすえた匂いが籠もる。腹の中が乱暴にかき回されているようだった。

 ようやくトイレから出て、台所の水道で口をゆすぐ。手も足も震えて、うまく動かない。立ち眩みがして、シンクの縁に必死に縋り付いた。暫く、そのまま動けなかった。

 頭が重く、体の震えが止まらない。私はタンスの引き出しに眠っていた体温計を取り出し、脇に挟んだ。

「……三十九度」

 その数値に、思わず天を仰いだ。高熱だと認識した途端、頭痛が更に酷くなり、体は凍えそうになった。心なしか息も上がっている。

 とにかく、連絡しなければ。私は携帯で工場の事務所へ電話を掛ける。

「おはようございます。尾田です……」

 早朝出勤の事務員へ、ことの次第を話した。その最中も、頭痛は容赦なく私を襲い、目を眩ませる。

「はい、はい。……すみません、よろしくお願いします」

 ようやく電話を済ませて、私はベッドへ倒れ込んだ。

 ……いや、このまま寝てはダメだ。病院へ行かないと。

 私は岩のようになってしまった体を起こし、携帯で近場の内科を検索する。とにかく近いところを選んで、予約を入れた。

 病院が開くまで、ベッドの中で体を丸める。とにかく、暗くて静かな場所でじっとしていたかった。

 どれくらいそうしていただろう。部屋のドアが静かに叩かれ、私は布団から顔を出した。どなたですかと言おうとしたが、乾ききった喉では満足に声も出せない。

「尾田君、近藤です」

 女性の声がした。私はなんとかベッドから這い出て、玄関へ向かう。ゆっくりとドアを開けると、心配そうな顔をした初老の女性が立っていた。

「おはようございます、咲江さん」

 私がしゃがれ声で挨拶すると、女性は眉根を寄せた。咲江さんは社長の奥さんで、一人暮らしの私を気遣って時々差し入れをしてくれたり、本当に良くしてもらっている。

「主人が事務の人から連絡貰って……様子見てきてって頼まれたのよ」

 咲江さんは、私を頭の先からつま先まで見ながら言った。

「熱が三十九度って聞いたけど、病院は?」

「とりあえず予約してます」

 私が病院の場所を言うと、咲江さんは頭を振った。

「一人じゃ無理ね。車で送るわ」

「いや、そんな……」

 一人で行けます。そう言おうとしたが、また立ち眩みに襲われた。ドアへ寄りかかると、咲江さんは私の体を支えながら叱るような口調で言った。

「ああ、ほら。そんな調子じゃ道ばたで倒れちゃうわ。いいからここは甘えておきなさい」

 咲江さんは私を車に乗せ、病院まで連れていってくれた。診察室にまで付き添ってくれ、私は本当に申し訳なく思った。

「胃腸が少し炎症を起こしています。梅雨ですし、食べたものが悪くなっていたのかもしれません」

 狭い診察室で、医者がカルテを見ながら言った。医者は細い銀縁の眼鏡を掛けた、恰幅のいい中年男性だった。

「はあ……」

 揺れ続ける意識の中で、私は曖昧な返事しか出来なかった。しかし、医者はまるで頓着せず、目はカルテに落としたまま話を続ける。

「あとは、過度なストレスとか。最近お仕事や日常生活で、無理をしていませんか?」

「無理……ですか」

 思い当たる節はある。美恵子のこと、そして、莉奈のことだ。だが今、それをこの医者に告げて、何になるのだろう。後ろに立つ咲江さんが、私へ視線を向けているのが背中越しでもよく分かった。

「まあ、季節の変わり目ですから、体調崩される方は沢山いますよ。不規則な生活も原因になりますからね。気をつけて下さいね」

そう無難に締めくくり、医者はカルテに書き込んで、お大事にと言った。

 病院から帰る車中で、私は咲江さんに礼を言った。

「ありがとうございました。助かりました」

 咲江さんはハンドルを回しながら、良いのよ、と笑った。

「何か食べるもの、持って行くわね」

「大丈夫です。まだ家に色々残ってますから」

「インスタントとかでしょ? 胃が弱っているのに、そんなの食べてたら治らないわよ」

 咲江さんが呆れたように言った。

 ようやくアパートへ帰り、ベッドに横になる。咲江さんは一旦家へ帰り、後から卵粥と、スポーツドリンクや皮を剥いたリンゴ、はては額へ貼る冷却シートまで届けてくれた。

「とにかく少しでも食べて、薬飲んで静かに寝てなさい。何かあったら遠慮無く言いなさいね」

 そう言って、咲江さんは帰っていった。私は小ぶりの椀に入った温かい粥を食べ、薬を飲み、ベッドに潜り込む。絶え間なく続く頭痛と寒気に唸りながら、それでも薬のおかげか、次第に眠気がやってきた。

 横向きになり、視線を見るともなしに巡らせていると、ふとタンスの引き出しに吸い寄せられた。そこには、あの日美恵子が置いていった手紙がしまってある。

 何故、捨ててしまわないのか。自分のことながら、私は甚だ疑問だった。

 今、こんなに苦しんでいるのは、あの人のせいでもあるのに。

 一段と頭痛が激しくなり、嘔吐感も強くなる。今は何も考えてはいけないと、体の防衛本能が訴えている気がした。

 私は傷ついた獣がそうするように、暗がりの中で息を潜め、ただ眠った。



 次に起きた時、部屋は真っ暗だった。いつの間にかカーテンが閉められていた。咲江さんには部屋の合い鍵を預けておいたので、おそらく彼女がしてくれたのだろう。額に貼られた冷却シートはすっかり温くなっていた。

 ちゃぶ台に置きっ放しだった粥の椀は綺麗に片付けられ、代わりに一枚のメモが置かれている。私はベッドから降り、それを手に取った。

『冷蔵庫におじやが入ってます。食べて下さい。 近藤』

 冷蔵庫を開けてみれば、小さい鍋に入ったおじやと、ヨーグルトやプリンまで入っていた。咲江さんは全く世話好きだ。有り難いを通り越して、こちらが恐縮してしまう程に。少しだけ、叔母を思い出した。叔母もよくこうやって、あれこれと世話をやいてくれたものだった。

 おじやの鍋を温めながら、携帯で時刻を見る。午後七時を過ぎたところだった。夕方五時過ぎに、岡崎からメールが入っていた。

『風邪どうだ? だから昨日無理すんなって言っただろ。ちゃんと休めよ』

 あいつらしい見舞いの言葉だった。思わず口元が綻んだ。

 よく寝たおかげか、頭痛も寒気もマシになったようだ。私は体温計を脇に挟んでみる。

 熱は三十七度まで下がっていた。

 身体的な熱が引くと、感情的だった頭もある程度冷めるらしい。現実を見失っているというのか、美恵子のことも莉奈のことも、まるで新聞の記事を読んだ時のように、他人事に感じてしまう。とにかく、考えるという機能が麻痺していた。この副作用は、私にとって実に有り難かった。何も考えなくていいと思うと、ほっと心が軽くなった。

 私はおじやを食べ、薬を飲む。再びベッドに入ろうとした時、ドアがノックされた。咲江さんだろうか。

「孝弘、いる?」

 莉奈の声が聞こえた。私は驚いて玄関へ向かった。

 ドアを開けると、仕事帰りの莉奈が立っていた。

「どうしたの、いきなり」

 私が聞くと、莉奈は自分の携帯を突き出して言った。

「何度もメールしたのに、返事ないから心配になって」

「何度も?」

 莉奈を部屋へ入れながら、携帯を確認する。よく見れば、岡崎の前に三件、莉奈からメールが届いていた。

「ごめん、気がつかなくて」

「ううん、いいの。……ていうか、もしかして風邪引いた?」

 莉奈が私の額を指差した。粘着剤がきれかけた冷却シートが、ぺろんと半分剥がれて垂れる。

「あ、うん。実はそう」

「連絡くれればよかったのに。もう」

 莉奈は憤慨して両腕を組んだ。そしてちゃぶ台に置かれた鍋を見て、首を傾げる。

「自分で作ったの? 言えば私がやってあげたのに」

「社長の奥さんからの差し入れだよ。病院にも付き添ってくれた」

「へえ、そうなんだ」

 言いながら、莉奈は不満げな顔をしていた。空になった鍋と薬の袋を恨めしそうに睨み、口を尖らせる。

「なんか、私がやることないみたい」

「やることって?」

「だから、こうしてごはん作ったりとか――」

 そこで、莉奈は突然口籠もった。決まりが悪いようにそっぽを向いて部屋を見回している。すると、彼女の視線は台所の隅へ注がれた。

「これ何?」

 莉奈はそこへ近寄って、放置された段ボールを指差した。

「ああ、叔母さんから梨を送って貰ったんだよ」

 私は冷蔵庫を開けて、大きな梨を一つ取り出した。

「ねえ、孝弘。これ、今食べる?」

 梨を手に取って、莉奈が訊いた。その顔は妙案を思いついたと言わんばかりな表情だった。

「食べたいの? 切ろうか?」

莉奈の手から梨を受け取ろうとしたが、莉奈は首を振った。

「ダメだよ、病人なんだから。私がやるから、孝弘は寝てて」

 莉奈は台所に立ち、スーツの袖を捲り上げて包丁を手に持つ。さくさくと梨を剥き、一口分に切り分けて、ベッドで寝ている私へ持ってきてくれた。

「ありがとう」

 礼を言って受け取った途端、私は激しく咳き込んでしまった。すかさず莉奈が背中を摩ってくれる。

「ごめん。でも、あんまり近くにいると風邪うつるよ」

 私は莉奈に謝りながらも離れるように言った。しかし莉奈はそれを笑い飛ばして、ベッドの脇へ座り込む。

「平気平気。部屋に入った時点で同じでしょ。それにしても、孝弘が風邪引くなんて珍しいわね」

お医者さんは何て? と莉奈が訊く。私は医者に言われた事を思い返した。

「季節の変わり目だから、とか言われた。あと、ストレスだろうって」

「そっか」

 莉奈が急に黙り込み、俯く。どうしたのかと私が訊くと、何でもないよと、力なく首を振った。

 莉奈は平気と言うが、私はやはり心配だったので、彼女を早々に帰らせた。

 莉奈を見送る玄関口で、あらためて礼を言う。

「来てくれてありがとう。風邪、気をつけて」

 莉奈は私に顔を向けず、視線はあてどなく宙を彷徨っていた。そして、まるで独り言のように呟く。

「週末、無理に来なくてもいいよ。病み上がりになっちゃうし、ね」

「大丈夫だって。行くよ」

 そう答えると、莉奈は横目で私を見て、すぐに視線を外した。そのまま、うん、うんと小さく頷きながら、目線を下へ落としていく。

 なにか、気懸かりでもあるのだろうか。訊いてみようかと思ったが、途端、莉奈はぱっと顔を上げて、おやすみ、と笑った。その笑顔は、間違いなくいつもの莉奈だった。

「ちゃんと寝てるんだよー」

 アパートの門前で、莉奈が手を振る。私も振り返すと、莉奈は少しだけ、寂しげに微笑んだ。ヒールの靴音がかつんかつんと遠ざかって聞こえなくなるまで、私はじっと莉奈を見送った。

 部屋へ入る前に、ふと思い立って集合ポストを覗く。相変わらず多様なチラシで一杯になった中に、目を引く白の封筒があった。

 私はそれだけをポストから引っ張り出す。癖のある丸文字で書かれた宛名は、尾田孝弘。確かに私宛だ。私は封筒を裏返して、瞬間、忘れていた熱が全身を駆け抜けた。

 送り主は、遠藤美恵子。

 まるで何者かに操られるように、私は封を切り、中身を取り出す。それは一枚の便せんで、孝弘へ、という書き出しから始まっていた。


 元気にしていますか。日曜に会ったばかりだというのに、こんなことを言うのはおかしいかも知れませんね。

 私は今、保証人が要らないくらい、古いアパートに住んでいます。石沢さんが見つけてくれたところです。一人暮らしにはちょうど良い広さだと聞いていたけれど、たとえ一畳の部屋でも、今の私には広すぎるようです。

 一人は、寂しいですね。孝弘も、そうじゃないかと思います。

 すぐに分かり合えなくてもいいんじゃないでしょうか。私達が失った二十四年という月日は、そうそう取り戻せるものではありません。

 一緒に、少しずつ親子に戻っていきませんか。お願いです――。

                                母より


 胃液が逆流して、腔内に酸味が籠もる。私は部屋へ飛び返り、美恵子の手紙を封じた引き出しを開けた。持っていた手紙もそこへ放り込み、勢いよく閉める。

 トイレへ駆け込んで、毒を吐き出すように必死で嘔吐いた。

 段ボールの伝票はいつのまにか剥がされて、汚い糊の跡だけが残っていた。

 


 結局、私は二日休んで、職場に復帰した。岡崎や他の同僚に気遣われながら、遅れてしまった分を取り戻そうと必死に働いた。週末の残業をなくし、莉奈との約束を果たすためだ。しかし一番の目的は、美恵子のことを考えなくて済むように、頭の中を仕事で一杯にするためだった。

「今日さ、莉奈の家に行くんだけど」

 土曜日の昼食時、岡崎に告げると、彼は目を輝かせた。

「おお? そっちもついにゴールインか?」

「馬鹿、気が早いよ」

 私が笑い飛ばすと、岡崎は、またまたあ、といやらしく目を細めた。

「だって、家に呼ぶって事は、そういうことでしょ?」

「いや、ただ夕飯に呼んでくれただけで。そんな、たいしたことじゃないよ」

 私が反論すると、岡崎はちっちっち、と人差し指を振った。

「お兄さん、自分を誤魔化しちゃダメだよ。分かってるくせにさ」

言われて、確かに、と思う。分かってはいるんだ。

「そっかあ。だからあんなに頑張ってたんだな。残業なんか入っちまったら、たまらないもんなあ」

 一人でうんうん頷いて、岡崎は私の背中を強く叩いた。

「頑張って気に入られてこいよ。お前なら大丈夫だって」

 経験者の余裕か、岡崎が無責任に太鼓判を押す。私は背中の痛みを甘んじて受けながら、どうしようもなく不安になっている自分に気づいた。

 私が風邪を引いた日、着信に気づけなかった莉奈からのメール。

『週末のこと、仕事が忙しかったら、いいから』

『大丈夫だよね? 予定とか無いのよね?』

『ねえ、本当に、無理なら言ってね』

 莉奈はやきもきしているようだった。それはきっと彼女の中に、『両親との夕食会は特別な意図を含んでいる』という認識があるからだ。

 つまりは、『そういうこと』。全くもって、岡崎の主張は正しかった。

 私は、覚悟を決めかねているのだろう。付き合って早五年。今の関係から、もう一歩先を行く覚悟を。

 一寸先は闇。何故だか、その言葉が頭に浮かんで離れなかった。



 待ち合わせ場所は、莉奈の家から程近い駅だった。私の住んでいるところからは三駅離れている。時間は七時。ちょうど帰宅ラッシュだった。

「待った?」

 人混みの中から、莉奈が手を振って駆け寄ってくる。少し乱れた灰色のスーツに、大きな鞄と紙袋を携えて。

 莉奈は私の格好を見ると、意外そうな顔をした。

「そのスーツ、どうしたの?」

 そう言って、私が着ている新品のスーツを指差す。私は気恥ずかしくなって、誤魔化すように笑った。

「一応、ちゃんとしようと思ってさ」

 昨日の夜、私はスーツを買いに行った。このような場合は正装で、というのはよく聞く話だ。しかし、就活時のリクルートスーツはとっくの昔に実家へ送ってしまっていたし、第一ふさわしくないだろう。

 私は店であれこれ迷い、結局、店員が持ってきた黒地に薄い白の縦縞が入ったスーツを買った。『お客様はやせ形だからきっと似合いますよ』これを勧めてきた女性店員は、おだてながらスーツを私に重ねてきた。それからワイシャツとネクタイ、革靴も揃えた。その全てが店員の見立てだ。

そして今日の終業後、すぐさま家へ帰り、風呂に入って身なりを整えた。普段は無頓着な髪型まで妙に気になって、思ったより時間がかかってしまった。

「へえ……」

 莉奈は私の周りを歩きながら、まじまじと見つめている。私のスーツ姿なんて就活時に散々見ただろうに。もしかして、商社の人間から見たらおかしい格好なのだろうか。

「似合わないかな?」

 不安になって訊くと、莉奈は慌てて首を振った。

「ううん、すごく似合ってる。ただ、いつもの孝弘じゃないみたいで、ちょっと驚いてるのよ」

 そう言って、莉奈は私に腕を絡ませてきた。

「こうしてるとさ、一緒に退社してきたみたいだよね、私達」

 まるで子供のようにはしゃぎながら、莉奈は私の腕をとって歩き出す。

「あ、これお土産」

 私は手に持っていた紙袋を莉奈に見せた。先程近くの百貨店で買ってきた和菓子だ。ちょうど京都の和菓子屋が出店していたらしく、手頃なものを買ってきた。これも、『そういうこと』なら用意しておくべき品だろう。

「良かった」

 莉奈がほっと息を吐いた。

「孝弘、ちゃんと考えてくれてるんだ。私、嬉しい」

 そう言って、更に私へくっついてくる。スーツの衣擦れの音が、耳にこそばゆい。

「これで、いつものシャツとジーパンだったり、手土産もなしだったりしたら、正直どうしようかと思ってた」

 莉奈は本当に嬉しそうに笑っていた。私は一つの関門を突破できたらしい。思わず安堵のため息が漏れる。

 私達は騒がしい駅前を抜けて、閑静な住宅街へ入っていく。家々の窓から漏れる灯りと等間隔で立ち並ぶ街灯で、道は充分明るかった。

 程なくして、私達はある家の前で立ち止まる。黒い壁が特徴的な、洋式の一戸建てだ。表札には『丸山』と記されている。ここが、莉奈の家だ。

 実を言えば、莉奈の家に行くのはこれが初めてではなかった。付き合い始めた頃に挨拶に行ったし、デートで遅くなれば送っていき、逆に迎えに来たこともある。ただ、今回のようにあらたまって呼ばれたことは一度もなかった。

「ただいま」

 莉奈が扉を開ける。玄関は綺麗に片付いていて、靴箱の上にはドライフラワーが飾ってあった。莉奈は家の奥を覗いて、声を掛けた。

「お母さん、帰ったよ」

「はいはい、お帰りなさい」

 スリッパの、ぱたぱたと小気味よい足音が聞こえてきた。やがて手前左の扉から、莉奈によく似た中年の女性が顔を出した。この人が、莉奈の母親だ。送り迎えの時などに度々顔を合わせている。

「こんばんは」

 私が頭を下げて挨拶をすると、母親はにこやかに笑って出迎えてくれた。

「いらっしゃい、尾田さん。さ、入って入って」

 客用のスリッパを私に出して、母親はさあさあと手招きする。莉奈が促すように私の背中にそっと触れた。

「お邪魔します」

 私は靴を脱ぎ、丸山家に足を踏み入れた。

「私、着替えてくるから」

 家にあがるや否や、莉奈は小走りに二階へ行ってしまった。残された私を、母親がリビングへと案内してくれる。心細く思いながら、私はあとについていった。

 リビングに入ると、テレビの前のソファから、大きな影が立ち上がった。

「やあ、どうも」

 大きな影は壮年の男性で、莉奈の父親だった。莉奈と同じく商社勤めで、外回りで焼けたであろう肌は浅黒かった。仕事が忙しいらしく、私はほとんど会ったことがない。

 父親は私の手を取ると、力強く握手してきた。

「莉奈がいつもお世話になってます」

 そう言う父親の頬は、ほんのり赤らんでいた。私はリビングテーブルの上に、泡だけが残ったコップが置かれていることに気づいた。

「あの、これどうぞ」

 私は痛む手を背中に隠しながら、土産袋を差し出した。途端に父親が破顔して、大げさに両手で受け取る。

「悪いね、気を遣わせちゃって」

 その時、台所の方から母親が声を掛けながら現れた。

「尾田さん、ビールで良いかしら?」

「いえ、あの、お構いなく」

 恐縮する私の肩を、父親がぽんと叩いた。

「まあまあ、こんな暑い日は、遠慮無く飲んどくもんだよ。お母さん、とりあえずビールね」

 言いながら、父親は置きっ放しだったコップを母親へと渡す。母親は分かりましたと返事をして、台所へ戻っていった。

 父親は私をソファに座らせておいて、どこからかハンガーを持ってきた。

「暑い中、スーツで大変だったろう。さ、脱いで楽になりなさい」

「すみません、ありがとうございます」

 私は中腰になりながら、慌てて上着を脱いだ。すると父親は手慣れた仕草でスーツをハンガーにかけ、それを壁際のフックに吊した。

 やがて台所から、瓶ビールとコップをお盆にのせて母親がやってきた。父親がそれを受け取り、テーブルへ置く。

「さ、まずは一杯」

 父親は私へコップを握らせ、栓の開いた瓶ビールを傾けてくる。父親は意外にも繊細にビールを注いでくれた。

「乾杯」

 自分の分のビールを注いで、父親がコップを掲げた。私も掲げて、二つのコップがかちんと音を立てた。

 よく冷えたビールが、暑さと緊張でからからだった喉に沁みる。思わず一気に飲んでしまって、私は空になったコップを持ったまま固まってしまった。

「いい飲みっぷりだね」

 こちらもコップを空にした父親が、私へビールを注ぎながら言った。私は、いやいやそんなと答えながら、早く莉奈が戻ってこないものかと思っていた。

「尾田君は、よく飲む方かい?」

「そこそこ……ですかね」

「僕はね、よく仕事帰りに同僚と飲みに行くんだけど、若い人と飲む機会は少なくてねえ」

 だから嬉しいんだよと笑って、父親は再びコップを空にした。

「あ、もうやっちゃってる」

 Tシャツとジーンズに着替えた莉奈がリビングに入ってきた。

「お父さん、あまりがばがば飲ませちゃ駄目だよ」

「何言ってるんだ。まだこの一本だけだろう」

「莉奈、ちょっと手伝って」

 母親に呼ばれ、莉奈は台所へ。やがて刺身の皿を持って戻ってきた。

「さあさあ、ご飯食べましょう」

 唐揚げや天ぷらを盛り合わせた大皿を持って、母親が言った。

 全員がテーブルにつき、夕食会が始まった。莉奈は小皿を人数分持ってきたり、ビール瓶の栓を開けたり、母親を甲斐甲斐しく手伝っていた。

「はい、どうぞ」

 莉奈がビールを注いでくれる。その様子を見て、父親がからかった。

「お、なんだ。もう女房みたいなことして」

「何言ってるのよ、お父さん。会社の飲み会でもこれくらいはしてるわよ」

 莉奈は呆れ顔で言い、父親が差し出したコップへもビールを注ぐ。

「あ、もう無いわね」

 新しいビール瓶を取りに、母親が台所へ。と、莉奈が何気なく私へ訊いた。

「美味しい?」

 私は唐揚げを一つ取ったまま、頷いた。

「うん、美味しい」

 すると莉奈は照れくさそうに笑った。父親がビールを飲み干して、大きな声で笑った。

「いや、すまんねぇ。ろくなものがなくて」

「やだもう、お父さん。私も料理手伝ったのに、そんなこと言わないでよ」

 父親の足を軽く叩きながら、莉奈は子供みたいに怒っていた。私は唐揚げをそっと口へ運ぶ。少しだけ醤油の風味が効いた、丸山家の唐揚げ。それを食べると無性にビールが飲みたくなった。私はグラスを傾け、ビールを飲み干す。それを見た父親は上機嫌だった。

「いいねえ、ほら、もう一杯」

「ありがとうございます」

 父親がビールを注いでくれる。私はヘコヘコしながら礼を言った。

「そういえば、尾田さんご出身は?」

 母親が、取り分けた刺身の小皿を差し出しながら訊いてきた。

 そこから、話題は暫く私の略歴に移っていく。

「あそこは海が綺麗よね」

 私が出身を答えると、母親はうっとりとした顔で宙を見た。

「いつか、お父さんと行ったかしらねえ。覚えてる?」

「どうだったかな。いつの話?」

「もう、これなんだから」

 母親はそっぽを向いた。父親は頭を掻きながら、コップを傾けていた。

「今の時分は、海水浴客で一杯なんでしょうね」

 母親の言葉に、私は思わず口を挟んだ。

「あ、いや。私の住んでいるところはそれ程人混みもないですよ。大きい海水浴場なんかは凄いですけど」

「あら、いいじゃない。莉奈、今度あちらのおうちに遊びにいらっしゃいな」

「ちょっと、お母さん。考えてものを言ってよね」 

 莉奈が窘めるように言い、父親もそれに続いて苦言を呈した。

「そうだぞ。そういうことは、もっと慎重にだな」

「あら、今日尾田さんをお招きしたのはお父さんじゃありませんか。言われる筋合いはありませんよ」

 父親がビールにむせている隙に、母親は莉奈と私を交互に見ながら言った。

「私は構いませんからね。お父さんが心配するのと同じように、あちら様も息子さんの交際相手は気になるでしょう」

「お母さん!」

 莉奈が大きな声を出した。その剣幕に、私も莉奈の両親もぽかんと口を開けて、沈黙してしまう。しかし、母親だけははっとして、気まずげに顔を伏せた。遅れて父親が顔をしかめ、そこでようやく私も気づいた。

「――ごめんなさい」

 母親が謝罪の言葉を述べた。父のことなら気にしないで下さいと、私は言おうとしたが、何故か声が出なかった。重い雰囲気を払いのけるように、父親が咳払いをする。

「お母さん、水割り持ってきてくれないか」

 その言葉に、母親はバネのように立ち上がり、台所へと消えていった。その後ろ姿を苦い顔で見送りながら、父親が私へ謝った。

「すまないね、気分を害して。まったくあれは忘れっぽくていかん」

「いえ、いいんです」

「そう言ってくれると有り難いよ。――さ、飲もう。今日は楽しくいこうじゃないか」

 私は父親に勧められるままビールを注がれ、飲み、食べた。味はよく覚えていない。ただ、あの強い醤油の風味だけが鼻の奥に留まっていた。

「孝弘?」

 莉奈の心配そうな声。私ははっとして顔を上げた。

 どうやら少しうとうとしていたようだ。テーブルには莉奈と私だけがついていて、あらかた食べてしまった料理の皿と、空のビール瓶が幾本も残されていた。

「はい、お水」

 そう言って、莉奈は水が入ったコップを差し出してくれた。それを受け取りながら、私は訊いた。

「お父さん達は?」

「うん、ちょっとお酒買いに行ってるの」

 聞けば、飲み足りない父親がコンビニへ酒を買いに行くと言いだし、母親は渋々それについて行ったらしい。

「まったく、お父さんたら飲ませすぎなのよ」

 そう言ってから、莉奈はだらしなくテーブルへもたれて、少し蕩けた目で私を見た。酒のせいかほんのり赤らんだ頬が、彼女をより幼く見せていた。

「うちの親、どうだった?」

「気さくな人達だな、って思ったよ」

「うちの親戚もあんな感じが大半だから」

 そこまで言ってから、莉奈は私の目をじっと見つめた。その視線は蕩けたまま。

「やってけそう?」

 莉奈はどこか満足げな顔をしていた。私はそれに戸惑いを覚えた。

 もう彼女の中では、私との結婚生活のビジョンが出来上がっているのだと。万事うまくいくことを疑わない、余裕のある瞳。

 私は声が出なかった。ここでの沈黙は莉奈を不安にさせ、私への不満をもたらすものだと分かっていても、私は莉奈が求めている解答を、言い出せなかった。

 ここまできて、何故私は躊躇しているのだろう。

 私の中にも、彼女が思い描いていた未来は存在しているはずで、だからこそ今日はこのような形で招かれているのに。 

 自分を誤魔化しちゃダメだよ。分かってるくせにさ。

 岡崎の言葉が、脳裏にちらつく。   

 電球の白い光が眩しすぎる。莉奈の背後、照明を落とした台所はそこだけが真っ暗で、.まるで異界だ。このぽつんと光が閉じ込められた空間に、莉奈と私だけが存在している。しかし目の前の闇には、莉奈の父や母、ひいてはまだ見たこともない莉奈の親戚達がまるで空気のように漂っている。

 その闇は、たまらなく恐ろしく見えた。

「……どうしたの?」

 私の異変を感じてか、莉奈の声が固くなった。私はこの言いようがない疎外感を、莉奈へ正しく伝えることが出来ないでいた。

 一体、これは何なのだろう。どうしてこんなに不安になるのだろう。

 私はまた、荒野に立っているのだろうか。

「ただいま」

 玄関から、母親の声が聞こえた。莉奈が慌てて立ち上がり、玄関へと出て行く。私はゆっくりと顔を上げて、ふらふらする頭を振った。

「さあさあ尾田君! もう一本行こうじゃないか!」

 酒瓶が入ったビニール袋を掲げて、父親がリビングに入ってきた。すると莉奈はすかさずそれを取りあげて、父親を諫めた。

「ダメだよ、お父さん。もう孝弘も辛そうだし、私も疲れちゃった」

 娘に続き、呆れ顔の母親も援護射撃に出る。

「そうですよ、お父さんはいっつも飲み過ぎるんです。もういい年なんだから、無茶はやめてくださいな」

「なんだ、人を年寄り扱いして。まだまだいけるぞ!」

 父親が怒って言うが、母親はつんと顔を逸らした。

「いーえ、ダメです。ごめんなさいね、尾田さん。客間にお布団敷きますから、どうぞ休んで下さいな」

「いえ、そんな……悪いですから」 

 言いながら、私の頭は再びふらつき始めた。莉奈が私の肩を優しく支えてくれる。

「お母さん、私、孝弘を客間に案内してくるから」

「ええ。お布団、どれか分かってる?」

「押し入れの一番手前の奴でしょ、大丈夫」

 莉奈はゆっくり立ち上がって、私の体を支えた。

「ほら、行こう」

「……うん。お父さんお母さん。すみませんけどお先に休みます」

「いえいえ。ゆっくりしていってね」

 母親はにこやかに手を振った。

 莉奈に連れられ、私はリビングを後にする。父親がくだを巻く声が、廊下にまで聞こえていた。

 客間は一階の奥にあった。六畳の部屋の真ん中に、座敷などによく置いてあるような、足の低い木のテーブルがあった。ベージュ色の砂壁に、白く綺麗なふすまと小さなエアコン。あるのはそれだけだ。

「お布団出すから、ちょっと待っててね」

 莉奈は重そうなテーブルを慎重に持ち上げ、そろそろと壁に立て掛けた。それから押し入れのふすまを開けて、中から布団や枕を取り出し、シーツを掛けていく。てきぱきと寝具を整えていく莉奈は、普段とはまるで違って見えた。

「あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 枕にカバーを掛けてから、莉奈は部屋を出ていった。やがて手に男物のパジャマを持って戻ってきて、私へ差し出した。

「これ、よかったら」

 パジャマは大柄で、袋から出したばかりのように綺麗な形に畳まれていた。

「もしかして、お父さんの?」

「うん。買い置きのパジャマ、貰ってきちゃった。新品ですよ」

 莉奈が笑いながら言った。

「ありがとう。なんか、ごめんな」

「気にしないで。私こそ、ごめんね」

 どういうことかと莉奈を見つめると、彼女は目を逸らす。

「私、せっかちだったよね。そんな、簡単に答えられることでもないよね」

 そんなことを泣きそうな声で言う莉奈は、とてもいじらしかった。私は彼女の肩をそっと抱いた。

「ううん、悪いのはこっちだから。――不安にさせて、ごめん」

 私の言葉を聞いた莉奈は、ぎこちなく体を預けて息を吐いた。それは張り詰めていた糸がゆっくり弛んでいくような、長い長いため息だった。

 暫くそうしていたが、莉奈はふっと顔を上げて、私から離れた。

「今日は、ありがとう。――私、片付け手伝ってくるね」

 そのまま、背を向けて部屋を出て行こうとする。私は思わず彼女を呼び止めた。

「ねえ、莉奈」

莉奈が振り返り、私をじっと見つめてくる。私はその憂鬱な表情を取り去ってやりたいと思った。

「莉奈のお父さんとお母さんのこと、好きだよ。良い人達だ」

 そう言うと、莉奈は驚いたように口を開け、それから慌てて手で塞ぐ。目線を私へちらちら送りながら、やがて目尻を下げた。

「私は?」

 口から手を離して、莉奈が訊く。その声は笑みを含んでいて、私は彼女にからかわれているのだと理解しながら、それでも返事に詰まってしまった。

「いや、あの……」

 しどろもどろな私の様子に満足したのか、莉奈はぷっと吹き出した。それから私の元へ戻ってきて、背中に手を回してくる。

「おやすみ」

「――うん、おやすみ」

 私は彼女を抱き返す。莉奈は照れ笑いをしながら私から離れ、部屋を出て行った。襖が静かに閉じられ、足音が遠ざかっていく。

 私はパジャマを着て電気を消し、布団に潜り込んだ。洗い立てのシーツは心地よい手触りで包んでくれる。しかし、私はなかなか寝付けなかった。

 天井を見上げる。暗闇の中で、四角い電灯が朧気に浮かんでいた。

 私は先程感じたどうしようもない寂しさを思い返した。寂寥感とも言うのだろうか、あの心がそら寒くなる感覚は、いつか、もうずっと昔に味わったものによく似ていた。

 叔母に和樹が生まれてからだったと思う。私は積極的にお手伝いをしたり、一人で風呂へ入ったり、とにかく叔母の手を煩わせないように努めた。皆から褒めそやされても、叔母が叔父と共に和樹をあやしながら団欒している光景を見る度、私は泣きそうになった。気づいた叔母に手招きされるが、いつもそれを振り切って、物陰に飛び込んだ。大人達は私が恥ずかしがっていると思って、おおように笑っていた。

 私は叔母家族の中へ入ってはいけないと思っていた。

 家族の輪。それは不可侵の領域だった。幸せそうな叔母家族を見ているだけで、私の心は寄る辺なく宙を漂い、叔母一家はもちろん、実の父にも祖父母にも落ち着けなくて、結局は私の元へ帰ってくる。それは冷たく、小さな胸を圧迫した。

 莉奈の『家族』へ入ること。それを考えると、私の心は幼い頃のように怯え出す。輪の内側は未知の世界で、手を差し出されてもおいそれとは近づけない。

 知らないものは、怖い。それは至極真っ当なことのように思える。

 ――それでも、莉奈となら。

 一寸先の未知なる闇も、ぱっと明るくなってしまうかもしれない。何の根拠もないが、そう思えた。 


 明くる日曜日。莉奈の家で朝食をご馳走になってから、私達は軽いデートをした。莉奈は肩の荷が下りたような表情で、デートの間中、笑顔が絶えなかった。私を駅まで見送ってくれた際、莉奈はいつまでも名残惜しげに手を振っていた。私はなんだか嬉しく思いながら、大きく手を振り返した。

 満たされた気持ちでアパートへ帰り、いつもの習慣で集合ポストに手を掛ける。溜まったチラシが溢れ出して、その中から白い封筒が地面へ落ちていった。

 三通目の美恵子の手紙が、私の足下に倒れ伏していた。

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