第2話 涙橋の袂で

 日曜日まで、私はあえて何も考えず、黙々と仕事をこなし続けた。

 土曜の夜、岡崎に連れられて飲みに出かけた。馴染みの居酒屋で、個人経営で小さいながら居心地の良い店だ。

「乾杯!」 

 ビール片手に岡崎は、先日の様子はどこへやら、とても晴れやかな顔をしていた。

「なんだよ、やけにご機嫌だな」

 私は肘をついて岡崎を見遣った。岡崎は三杯目のビールを飲み干すと、嬉しそうに笑った。

「いやあ、それがさ。昨日、初めてノゾミの両親に会ったんだけど」

「うん?」

 それは、婚前の挨拶というものか? そう思って岡崎に聞くと、彼はいやいや、と首を振った。

「夜のデートの帰りに家まで送っていってさ、ちょうど両親が揃っているから、挨拶していかないかって言われたんだよ」

「へえ」

「そこで、ノゾミが言ったんだよ。私の彼氏よって」

「うんうん」

「俺もさ、ノゾミさんとお付き合いさせて貰っています、なんて挨拶してさ。そしたら予想外に暖かく迎えてくれたんだ」

「良かったじゃないか」

 私はビールを一口飲む。私が莉奈と喧嘩して気まずくなっている間に、岡崎は彼女の両親に気に入られたらしい。そう思うと、ビールの苦さが何故か舌に残った。

「これで、結婚路線に乗ったな。おめでとう」

 私は大げさに拍手してやった。岡崎は気恥ずかしげに笑っている。

「おう、ありがとう! そっちも莉奈ちゃんと頑張れよ!」

 岡崎は私の肩をとんと叩いた。私は曖昧な返事をしてビールを飲む。

「そういえば、ノゾミちゃんの希望って両親と同居だったよな?」

 ふと思い出して聞いてみると、岡崎は、待ってました、というように手を叩いた。

「そう、重要なのはそこですよ、お兄さん!」

 ワイドショーの司会者みたいな台詞を吐いて、岡崎はニヤリと口の端をつり上げた。心なしか、顔つきまでそれっぽく見える。

「さっきの挨拶の流れでさ、ノゾミが言ったんだよ。私、彼と結婚するつもりなの、てな」

 それはまた、随分と開けっ広げな娘だなと、私は呆気にとられた。

「なんていうか、ストレートだな」

 思いをそのまま伝えたが、岡崎は特に気にしていないようだった。

「そう? 俺は嬉しかったけど。変に説明されるより、断然良いよ」

 そんなものか。私は自分の場合を想像してみた。

 莉奈の両親に紹介された時、はたして莉奈はノゾミちゃんのように伝えてくれるだろうか。その時自分はどのように思うだろう。

 岡崎の話は続く。

「それで、両親も喜んでくれてさ。でも寂しくなるなって親父さんが零したら、ノゾミが言ったんだ。お父さん達と離れるのは嫌だから、同居しようかなって」  

「へえ、先手を打ってきたわけだ?」

 ノゾミちゃんはなかなかやり手らしい。しかも彼女は一人っ子と聞く。そんなことを言われたら、嬉しくない親はいないだろうな、と私は苦笑した。

「それで、親父さんどうしたと思う?」

 岡崎がもったいぶった口調で言った。

「泣いて喜んだ?」

 私が答えると、チッチッチ、と岡崎は右手の人差し指を振った。

「親父さんはな、何言ってるんだ、いつまでも親の臑をかじるんじゃない、て怒ったのさ」

 岡崎は胸を張り、鼻を鳴らした。私はその様子に笑いながら、肴の焼き鳥に手を伸ばす。

「でも、その一言だって冗談交じりだったんだろう」

 どうせ寂しい父親の強がりに違いない。そう思って訊くと、岡崎はまたもや指を振った。

「いや、アレはマジのトーンだった。親父さん、真顔だったもん。あ、すいません。生中一つ」

 答えながら、通りすがりの店員に注文をする。私は焼き鳥をかじりながら、悩みをさっくりと解決してしまった友人に、少しばかり嫉妬していた。

「それで、どうしたって?」

「いや、それがねえ」

 続きを促すと、岡崎は同情的な眼差しを宙に向けて言った。

「ノゾミの奴、マジにへこんじゃって。自分でも予想外だったんだろうな、親父さんの反応が」

 どうやら彼女の方も、父親は泣いて喜んでくれるはずという思惑があったらしい。一人娘で両親の愛を一身に受け、可愛がられてきたであろうノゾミちゃんは、これからも両親の自分への扱いは変わらないと思い込んでいた。それは、彼女が信じていた『親子の絆』の形だろう。

「でもさ、俺、あんな格好いい親父さんなら、同居でも良いけどな!」

 小難しく考えていたところに、岡崎の脳天気な声が割って入ってきた。大きな唐揚げを頬張る岡崎に、私は少し意地悪い質問をしてみる。

「暢気だな。実の娘にそれだけ厳しいんだから、お前も厳しくされるかも知れないぞ」

「いや、結婚したら、あの親父さんは俺らのことを一人の大人として扱うと思うな」 

 岡崎はけろっとした顏で答えた。

「一人の大人として?」

 私が聞き返すと、岡崎は深く頷いた。

「だから、ノゾミは親父さんの娘ってだけじゃなく、俺の妻ってことにもなるだろ。そこの線引きはしっかりしてくれそうなんだ。干渉もされないだろうし。あ、どうも」

 注文したビールが届き、岡崎は勢いよくジョッキを煽った。ごくごくと気持ち良く飲む様を見ながら、私は『うまいことやったな』と内心で羨んでいた。

 私もビールを口に運ぶ。苦みはいつまで経っても消えず、舌にまとわりついていた。

 その日は、ちっとも酔える気がしなかった。

 


 携帯の時計を見る。午前十時になろうとしていた。

 私は靴を履き、重たい鉄のドアを開ける。梅雨の湿気た空気が、もわっと体にまとわりついてきた。日曜の空は特別でも何でも無く、いつものように灰色に垂れ込めていた。

 会社が借り上げているアパートから駅までは、歩いて十五分だ。待ち合わせは十時半だが、なるべく早く着いておきたい。

 私は小走りで駅へ向かう。目の前の信号がタイミングよく青になり、足を止めることなく横断歩道を渡る。私は自分の中に小さな矛盾が芽生えつつあることに気づく。

 別に、母親と会わずとも回答欄を埋めて送りつけてやれば、それで済むものを。私は自分が納得したいが為に、危険な橋を渡ろうとしている。なにがどうなっても自己責任だと腹をくくる反面、そんな愚かな理由探しは止めろと自分へ叫んでもいた。

 実を言えば、家を出る直前まで母親との面会をやめようかと悩んでいた。それなのに、今は待ち合わせに遅れないよう、せかせかと足を動かしている。 自分が酷く滑稽に思えた。

 やがて駅に着いた。待ち合わせ場所は東改札口だ。

 私は柱の影から、そっと改札口を見た。まだそれらしい人物は見当たらなかった。

 日曜ということもあり、駅構内は多くの人で賑わっていた。家族で出かける人。休日出勤だろうか、スーツ姿で颯爽と歩いて行く人。私のように待ち合わせをしているだろう人。話し声と靴音と構内アナウンスが響いて混ざり合い、一つの音になって駅を包み込んでいる。

 その巨大な音の中にいると、私はいつも、荒涼とした野に立ち尽くすような感覚に陥る。目の前を横切っていく人々は霞んで過ぎ去って、風だけが吹き抜けていく。この肥大した音さえも、今はどこか遠く感じる。

 どうしようもなく寂しくなる。

 唐突に、私はこの場から立ち去りたくなった。今ここで石沢に電話を掛け、やっぱり会えませんと告げてしまいたい。

『まもなく、二番線に電車が参ります――』

 構内アナウンスが電車の到着を知らせ、人々の波が改札口へと押し寄せていく。私は携帯を握りしめ、突き上げてくる気持ち悪さに耐えていた。これは緊張から来るものなのか、それとも後悔の念なのかは分からない。とにかく、いても立ってもいられない衝動に襲われていた。動悸が、呼吸が乱れてくる。

 やっぱり、やめよう。そう思って、石沢に電話を掛けようとした時だった。

 東改札口から多くの人が溢れ出てくる。電車が到着したのだ。

 私はその人混みを横目に見ていた。正面から母親の姿を映す勇気はなかった。しかし、その人物は私の目の中にがっちりと入り込んできて、離さなかった。

 人混みの中で、二人の女性がこちらへ向かってくる。二人とも痩せ形の中年で、一人はきっちりまとめた髪に化粧もして、びしっとスーツを着こみ、鞄を二つ提げていた。もう一人は質素なワンピース姿で、艶のない長髪をゴム一本でくくっている。すっぴんだろう顔は疲れ切っていた。左足に痛々しいギプスを填めていて、両手で松葉杖をゆっくりと動かしながら、慎重に進んでいる。

 二人は改札口を出る。するとスーツの女性が私を見つけて、小走りに近寄ってきた。

「すみません。尾田孝弘さんでしょうか」

「そうですが」

 私が答えると、女性は頭を下げた。

「石沢です。本日はお休みであるにも関わらず、このようなお願いを聞いて下さり、ありがとうございます」

 私の気が引けるくらいに、石沢が丁寧な挨拶をした。それから、

「ちょっと待ってて下さい」

 と言って、松葉杖の女性の元へ。石沢に手を貸して貰いながら、その人は私の前へやってきた。

「尾田さん。こちらが遠藤美恵子さんです」

 石沢が紹介して、女性はぎこちなく頭を下げた。私はどうしようもなく、立ち尽くしてしまっていた。

 これが、私を産んだ人なのか。

 なんだか妙な気分だった。この、まるで他人にしか思えない女性が、私を産み、二歳まで一緒に過ごした母親だなんて、とても信じられない。女性は気恥ずかしいのか、それとも負い目からか、私と目を合わせようとしない。

「よかったわね、美恵子さん。息子さんと会えて」 

 石沢は元気づけるように、視線を逸らし続けるその人――美恵子の肩を持った。

「さあ、こんなところで立ち話も何ですから、どこか落ち着ける場所へ」

 そう言われたので、私は駅前の喫茶店に二人を連れて行った。私もよく行く店で、店内は広く明るく、雰囲気が良い。

 ウエイトレスに案内された席は、ゆったりとしたソファ席だった。おそらく、ギプス姿の客を慮ってのことだろう。美恵子は石沢とウエイトレスに手伝われながら、そろそろとソファに座り、恐縮した様子で頭を下げた。随分、物腰の低い人だなと私は思った。酷く自信のない、気弱な人。

 莉奈とは正反対だなと、ふと思う。

 三人で、アイスコーヒーを注文する。何か食べるかと聞いたが、二人とも結構だと断ってきた。

 石沢が、今日はあいにくの天気で、と窓ガラスの向こうの曇り空を見て言い、私ははあ、と気のない返事を返す。石沢はそんなことも気にせずに、今度は美恵子の方へ怪我はどうですか、痛みませんかと訊く。美恵子は小さく頷いただけだったが、石沢はそれはよかった、と満足そうに微笑んだ。

 ぎこちない母と息子の間で、第三者の石沢だけが饒舌だった。

「尾田さん、今の会社には、いつから勤務されているんですか」

 石沢が思いついたように聞いてくる。その問いは、世間話程度のものなのか、母親を引き取らせる為の判断材料にするつもりなのか、私には分からなかった。

「三年になりますね」

 私は就活がうまくいかなかった。父の古いつてを頼って、なんとか今の会社に就職できた。当時、大手の商社に就職できた莉奈は、私が工場員になってしまったのを面白くなく思っていたようだけれど。

 その時、ウェイトレスがやってきた。氷とコーヒーがたっぷり入ったグラスを各々の前に置く。早く飲みたくて、いつもなら欠かさないガムシロップも入れずにすぐ口に運んだ。居心地の悪い場に、効き過ぎる冷房で、私の喉はからからだった。

 どうぞ、ごゆっくり。そう言ってウェイトレスは奥へ下がり、私達のテーブルは再び沈黙に包まれる。私はもはや苦いだけのコーヒーを喉へ流し込み続けた。

「ねえ、美恵子さん」

 沈黙を破ったのは、石沢だった。石沢はうなだれている美恵子の膝へ、優しく手を置いた。

「せっかく、息子さんが機会を与えてくれたのだから、何か、言いたいことはない?」

 石沢が促すと、美恵子は何度も口を開きかけたが、なかなか言葉に出来ない様子だった。私は無言で待った。やがて美恵子は、何とか言葉をぽつりぽつり、形にして吐き出し始めた。

「まさか、会ってくれるなんて、思わなかった」

 ところどころが震えて、今にも泣き出しそうな声だった。膝に置いた手をぎゅっと握り、ワンピースの布地を強く掴んでいる。顔は俯き、使い古した箒のような髪がばさりと肩からぶら下がった。

「だって、あんなにちっちゃい時に別れて、もう私なんて覚えていないと思っていたから」

 私は内心で首を傾げる。私が会おうと決めたのは、覚えていたからではなく、あなたを捨てる理由を探す為に過ぎないのに。

 美恵子は誤解したまま、言葉を続けた。

「だから、今日、孝弘に会えてとても嬉しいです。……会ってくれて、ありがとう」

 私はなんだか複雑だった。もちろんこの人は私を「孝弘」と呼ぶ権利がある。息子なのだから。しかし、私にとっては突然知らない人から名を呼び掛けられたのと同じで、それはどことなく不快な気持ちになるものだった。

「ごめんなさい、孝弘。ごめんなさい」

 私は一瞬、この人は何を謝っているんだろうと戸惑った。母親が捨てた子供に負い目を感じてしまうのは分かる。だが、当の子供にとってはちんぷんかんぷんもいいところ、この人が何を悔いているのか、まるでピンとこない。

「美恵子さん。さ、顔を上げて」

 石沢が美恵子の肩を持ち、丸くなっていた背中を引いて伸ばす。顔は未だに俯きがちだったが、彼女は、どこかほっとしたような表情になっていた。

 と、石沢が今度は私へ顔を向けて言った。

「尾田さん。美恵子さんへの援助の件ですが」

 私はグッと拳に力を入れる。あっという間に喉が干からびて、ざらざらとした不快感がこみ上げてくる。

「どうでしょう。何か、ご自身の中で答えは出ましたか」

 私は美恵子の様子をちらりと窺ってから、口を開いた。

「正直言って、本当に援助しなければいけないのか、疑問なんです」

 美恵子はぎゅっと手を組んで、目を閉じている。その表情は固く暗く、私は気の毒に思いながら、それでも話を続けた。

「今こうして会ってみても、やっぱり母親だって実感がないんですよ。そんな人に援助されたって、母……遠藤さんだって、嫌じゃないですか?」

 言うにつれ、私の顔はおもりが付いたようにどんどん下を向いてしまう。実の母親に対して他人以上の感情が沸かないことを認めた私は、己の非情さに狼狽えていた。

 自分が、とてつもなく薄情な男に思えた。

「だから、援助は――」 

 そう言って顔を上げると、石沢は美恵子の方を見ていた。私もそちらへ目を向けると、頭を殴られたような衝撃に襲われた。

 美恵子が静かに、本当に静かに、涙を流していた。無表情なままで、ただ両の目尻から涙がポタポタと落ちていく。

「お願いです」

 次の瞬間、私に向かって頭を下げた。ほとんど聞き取れないような、小さく、か細い声だった。

「お願いです……お母さんを、見捨てないで下さい」

 何を言っているんだろうと、本気で思った。先に見捨てたのは、そっちじゃないか、『お母さん』。

 私は初めて、人が涙を流しながら縋る光景を見た。それはドラマや映画で見るような、感情的に泣き叫ぶものではなく、体が萎んだように小さくなり、そこからなんとか思いを伝えようとか細い呼吸を繰り返す、珍妙な生物がいる光景だった。

「美恵子さん、大丈夫?」

 石沢が、哀れな犬猫に接するように、傾いていた美恵子の体を受け止めた。石沢は情たっぷりの眼差しで、美恵子の左足のギプスを見下ろしている。私はいつ石沢の目が、鬼畜生を見るような目に変わって、私に向けられるかと思った。しかし、石沢も、ましてや美恵子も、私に軽蔑の視線を投げてはこなかった。ただ、店中の好奇の目だけが、私達三人に降り注いでいた。

 そういえば、と思う。つい最近も、こんな状況になったかなと。あの時は、莉奈はさっさと店を出て行ってしまったけれど。

「ここはお店の中だから、抑えて。ね?」

 石沢が宥めるが、美恵子の勢いは止まらない。今彼女が感じている絶望は、店中の人から不躾に観察されることより、自分を世話してくれる石沢へ迷惑をかけている事実より、遥かに重大で苦しいものなのだろう。

「勝手な……お願いだと、思って、います……」

 言葉を詰まらせながら、美恵子は頭を下げ続けている。私は店員を振り返った。気の毒に、若いウェイトレスは水の入ったポットを持ったまま、おろおろと立ち尽くしていた。それを見て、私は決断した。

「石沢さん」

 私は石沢に声をかけた。

「ここでは他の人の迷惑になります。僕のアパートへ行きましょう」

「よろしいんですか?」

 石沢は驚いていた。私はこの人達を自分のテリトリーに入れたくはなかったが、いつまでもこんな状態を他人の目に晒している方がよっぽど嫌だった。

「ここから少し歩きますが、大丈夫ですか」

「はい、大丈夫です。聞いた? 美恵子さん」

 石沢が話しかけると、美恵子は泣いて赤くなった顔で、恐る恐る私を見上げてきた。

 私はきっと、自分を過信していたのだ。

「そこで、あなたの言い分を全部聞きます。お互い全部出し切って、すっきりしましょう」

 その時の私は、それが最善の方法だと信じていた。

 私は母親を知らない。母親は幼い頃の私しか記憶にない。双方とも、なんらかの食い違いがあるのだ。それを全部出し切って、消化してしまえば、踏ん切りもつくだろう。

 私は、この先永遠に母親と縁を切るために、そしてそうした自分を納得させるだけの証拠欲しさに、そう言ってしまったのだ。

 

 

 外に出てみると、雨が降っていた。私は鞄から用意しておいた折りたたみ傘を取り出して広げる。石沢達はどうだろうかと見てみると、石沢も自分の鞄から折りたたみ傘を取り出していた。美恵子は両腕が松葉杖で塞がっているので、傘は差せない。

 石沢が傘を広げ、美恵子へ差し掛けた。だが一人用の小さな折りたたみ傘では、二人同時は無理がある。私は駅前のタクシー乗り場を見遣った。ちょうど良く、一台が乗り場へ戻ってきたところだった。

「ちょっと待ってて下さい」

 石沢達にそう言い残し、タクシー乗り場へ走った。駆け寄ってくる私の姿を認めて、タクシーがドアを開けて待っている。私はタクシーに乗り込んで、運転手に言った。

「すみません、そこの喫茶店の前で二人乗せていって欲しいんですけど」

「ええ、いいですよ」

 少し歳のいった運転手は快く引き受けてくれ、喫茶店まで車を回した。

 松葉杖姿の美恵子を見て、運転手が、ははあ、と納得したように頷いた。

「お母さんですか」

 私は一瞬、言葉に詰まった。他人から見ても分かる程、私達親子は似ているのだろうか。

「すみません、手間をかけて」

 私は当たり障りない返事をした。運転手は、いやいや、と笑いながら首を振った。

 喫茶店の前に停まり、タクシーの扉が開く。私は石沢へ声を掛けた。

「これで行きましょう。乗って下さい」

「まあ、わざわざすみません」

 石沢が恐縮したように頭を下げた。私は美恵子をちらりと見る。少し落ち着いた様子だったが、顔はまだ少し赤く、頬には涙の跡が残っていた。

 美恵子は何とか身をかがめて乗り込もうとするが、足が不自由なので少し手間取っているようだった。そのもどかしさに、私はたまらず手を出した。

「え」 

 美恵子が小さく、戸惑いを漏らしたのを、私は確かに聞いた。彼女の顔は固まって、まるで訳が分からないというような目をしている。

「掴まって」

 私は焦れて声を出した。早く乗って貰わないと、運転手にも通行人にも迷惑だ。

「ホラ、美恵子さん」

 石沢が、なんだか嬉しそうに美恵子を促している。何か誤解をしているようだった。私は、ただ体が不自由な人へ手を差し伸べているだけなのに。

 たとえばだ。足の悪いおばあさんが悪路に困っていたとしたら、手助けをするだろう。私の手は、それと何の変わりもない。ただの親切心から来る行動なだけだ。

 美恵子はまさに恐る恐るといった様子で、私の手をそっと掴んできた。私は足に響かないよう気をつけて、座席へと誘導する。次いで松葉杖と二人分の鞄を抱えた石沢が助手席へ乗り込んで、ようやくタクシーの扉が閉まった。

「じゃあ、運転手さん。近くで悪いんですけど、今から言う住所までお願いします」

「いえいえ、お気になさらず」

 アパートまでは歩いて十五分だから、車で行けば本当にあっという間だ。タクシーにとって至近距離の乗客は遠慮したいところだろうに、運転手は孝行息子の姿を私に見たのか、妙に上機嫌だった。

 運転手に見えているのは、偽の親子だ。私は強くそう思った。

 住所を告げると、タクシーは雨の中を静かに走り出していった。

「助かりました」

 石沢が深いため息と共に呟いた。私は窓の外を見ていた。雨粒が窓を打ち、濡らし、流れていくのを、ただ見守っていた。

「ありがとうございます」

 唐突に、美恵子が言った。私は驚いて彼女を振り返る。美恵子は深く頭を下げていた。

「いえ……」

 私はそれしか言えなかった。視線が気になり、前を見ると、バックミラーに映り込んだ運転手と目が合った。運転手はすぐ目を逸らしたが、私は少しいたたまれない気分になった。

 彼は、私達の間にある溝を垣間見ただろうか。

 私は、先程の喫茶店のウエイトレス同様に、見知らぬ人に戸惑いを与えてしまったことを申し訳なく思った。

 それからの車内は、酷く静かなものだった。アパートに着くまでの数分が、とても長く感じられた。運転手は先程の私達の様子を見て、掛ける言葉を見失ったらしく、ただただ律儀にハンドルを回し、無線に答えているだけだった。美恵子は大人しく縮こまり、石沢は大きな松葉杖を窮屈そうに抱えて、頻繁に額を拭っていた。

 アパート前で降ろして貰い、私は石沢達を部屋へと招き入れた。

「どうぞ」

 散らかった靴を片付けながら、部屋へ入る。1kの間取りは大人が三人も入ると更に狭苦しく感じられた。玄関脇に配達伝票が付いたままの段ボールが転がっている。先日叔母が梨を送ってくれた際のもので、中身はとうに冷蔵庫にしまっていたが、後はそのまま放置していた。私は邪魔にならないように、それを台所の隅へ押しやった。

「そこへ座って下さい」

 私は二人に真ん中のちゃぶ卓につくよう勧めたが、美恵子を見てから気づいた。彼女は困ったようにギプスを見下ろしている。

「じゃあ、こっちに」

 私はパイプベッドを指差して、美恵子に勧めた。そうしておいて、台所へ行き、冷蔵庫から麦茶のポットを取り出す。お客用のカップなどないから、比較的新しく、汚れのないコップを二つ選び、麦茶を注ぐ。

「こんなものしかなくて、すみません」

 そう言いながら二人に差し出す。石沢はお気を遣っていただいて、と恐縮し、美恵子は無言で受け取った。私もちゃぶ台について座る。

 しばらく、誰も、何も言い出さなかった。このような場を作っておいて、私は今更ながら後悔した。

 自分の気持ちを整理するために、母親の本心を聞きたかった。なのに、先程のタクシー内での空気と、石沢の誤解した目を思い出してしまって、私は一刻も早く二人に帰って欲しくなっていた。

「さっきは、ごめんなさい」

 コップを握りしめたまま、美恵子がか細い声で言った。

「あんなこと、言うつもりじゃなかったんです。ただ、あなたに謝りたかった。それだけのつもりだったのに」

 彼女の肩が震えだし、目尻から再び涙が溢れ始めた。

「なのに、また孝弘と会えなくなっちゃうって考えたら、私、もう寂しくて、悲しくて」

 美恵子の涙は滝のように流れている。石沢がいたたまれないように立ち上がって、彼女に寄り添った。震える美恵子の手からコップを受け取り、ちゃぶ台へ置く。それがきっかけだったのか、美恵子は自由になった両手のひらで顔を覆い、漏れる嗚咽を抑えようとした。ぐう、ぐう、と、息が詰まる音が聞こえた。

「たか……ひろ……」

 途切れ途切れに、美恵子が呼び掛けてくる。手のひらで隠した表情は窺い知れない。ただ、紅潮した耳だけが見えていた。

「本当に、無理なのかな。私、もう一人は嫌だよ」

 今、彼女には、私が何歳に見えているのか。おそらく彼女の中で、私はいつまでも母親を恋しがっている二歳児なのだろう。それは、違うのに。

 私は困惑していた。色々誤解をしているこの人へ、どう言えば私の気持ちが伝わるだろうかと、頭を悩ませた。

「私は、お金がないから、孝弘と暮らしたいと言ってるんじゃないの」

 私が黙っていると、またもや何か勘違いしたらしい美恵子が必死の形相で訴え掛けてきた。

「孝弘が、家族だから一緒にいたいの」

「家族だから?」

 私の体中に、嫌な寒気がまとわりつく。不協和音を聞かされた時のような、頭が痺れる程の不快感がこみ上げてくる。

 石沢は美恵子の肩を抱き、うんうんと頷いていた。私は石沢の態度に腹を立てた。なにせ、『でもお母様じゃありませんか』とか言ってしまう人種なのだ。母と子の間には、切っても切れない絆があると信じている。

「尾田さん」

 石沢が、こちらへ話し掛けてきた。その目を少しだけ潤ませながら。

「近年、生活保護受給者への世間の目は厳しくなっています。私どもとしては、もし協力出来そうなお身内がいれば、なるべく助けになって頂いて、社会復帰を目指して頑張って欲しいと考えています」

 頭の中で、『お願い』の文面を思い起こす。

 申請者は、扶養義務者へ優先的に援助を頼まなければならない。そして民法が、それを後押ししている。

「尾田さんと美恵子さんは、幼少時の離婚で離ればなれになったそうですが、比較的良好な関係を保てると思っています。虐待などで親子関係を絶縁した場合よりは、弊害が少ないでしょうから」

 石沢が言う。本当に、そうなんだろうか。私達はまだ親子として機能していけるのだろうか。

 どれだけ時が流れようとも、感情が追いつかなくても。

 だって、『親子なのだから』――て?

「お願いです。お願いです」

 美恵子がベッドから転げ落ちるように床へ這いつくばった。そして四つん這いの姿勢で上体だけを低くして、土下座のように頭を垂れる。ギプスが重々しい左足を庇っているので、それはまるで出来損ないの、土下座とも言えないような有様だった。

「お願いです。私にもう一度、母親になれるチャンスを下さい」

 そんなことを言いながら、見るのも痛々しい姿で懇願してくる美恵子は、哀れを通り越して、おこがましくさえ見えた。

 きっと、この人も信じているんだ。

 自分の中にある、『親子の絆』という代物を。

 岡崎の恋人、ノゾミちゃんが信じていたそれのように。

「尾田さん、これは、ある意味良い機会だと思うんです」

 出し抜けに、石沢が言った。私は面食らって、思わず聞き返してしまった。

「どういうことですか」

 石沢は美恵子の肩を持ったまま、訴えるような眼差しで見つめてきた。

「尾田さんと美恵子さん、お二人の間にある溝を埋める良い機会です。今は混乱して、母親を受け入れられないと思うでしょうが、お二人は血の繋がった親子ではありませんか。きっと、分かり合える日が来ます」

 すっと、心が冷えていく音が聞こえた。地の底の底へ足下から落ちていくような、途方もない絶望感。

 石沢と美恵子の想いが、私の感情を否定して叩き潰してくる様を、私は確かに見た。打ち据えられた私に、石沢が追い討ちをかけてくる。

「美恵子さん、私にずっと尾田さんの話をしてくれました。まだ小さい時に別れてしまったから、ずっと心配だったと。どんな大人になっているんだろう、とか、頑張り屋だけど泣くのも我慢しちゃう子だったから、無理していないだろうか、とか」

 私は耳を塞いでしまいたかった。のたうち、悲痛な叫びを上げて石沢の声をかき消してしまいたかった。

 やめてくれ。おぞましい。聞きたくない。そんな私、私は知らない。

 誰だ。今、誰の話をしているんだ。

「お願いです。どうか、美恵子さんの気持ちも考えてあげて下さい」

 母親の、気持ち?

 では、突然捨てられた父親の、子供の気持ちはどうなるんですか。

 思わずそう叫びそうになった時だった。

 鞄に入れていた携帯が、低い唸り声をあげた。はっとして取り出すと、着信を示すランプが点滅している。

 着信は、莉奈からだった。

「どうぞ、電話にお出になって下さい」

 私が固まっていると、石沢が言った。私はふらつく足で立ち上がって、部屋を出た。ドアを閉め、電話に出る。

「もしもし?」

『……孝弘』

 莉奈の声は、元気がなく弱々しかった。それはそうだろう。莉奈とは先日別れて以来、一度も連絡を取っていなかった。

『あのさ』

「うん、何?」

 私はなるべく優しいトーンで話す。幾度となく繰り返してきた、仲直りの様式。

『この前は、ごめんね』

私の柔らかな対応に安心したのか、莉奈の声はどこかほっとしているようだった。

「いいんだよ、もう」

 そう優しく答えながら、私は出来ることならこの電話を切ってしまいたかった。今の私に、莉奈の反省の弁を聞き入れる余裕は存在しなかった。

『まだ、怒ってるよね』

「大丈夫、怒ってないよ。こっちこそごめんね」

 私は心からそう思っていたが、今は口調がそれに追いつかず、なんだか足早な謝罪になってしまった。これではまた莉奈を怒らせてしまうと焦ったが、莉奈は、いいの、私が悪かったの、とすすり泣いていた。

『今から会わない?』

「今から……」

 私は一瞬迷った。会う会わないの問題ではなく、会えない事を伝えるにはどう言えば良いのか。事実そのまま、『約二十年ぶりに再会した母親に、扶養援助を申し込まれているから駄目だ』なんて答えられるわけがない。

 私が押し黙っていると、莉奈が思い切ったように言い出した。

『実は、今孝弘の家の前まで来てるの』

「えっ」

 私は慌てて外を見回した。そして、アパートを囲む低いブロック塀の向こうに、見覚えのある傘の端が覗いているのを見つけた。

 その傘はすっと横に動いて、アパートの門前へと向かった。私も急いで向かうと、傘を差した莉奈が、片耳に携帯を押しつけてそこに立っていた。

『孝弘』

 電話から聞こえる莉奈の声と、門前から聞こえた声が混じる。莉奈は携帯を耳から離し、画面をタップする。私の電話が、ツー、ツーと不通音を鳴らした。

「ごめん、迷惑だったかな」

 莉奈が近付いてくる。私は首を振るのが精一杯だった。

「違うんだ。今、ちょっと客が来てて、それで」

「尾田さん?」

 背後で石沢の声がした。私ははっとして振り返る。

 玄関ドアを少し開けて、石沢が困惑したような顔でこちらを見ている。

「すみません、石沢さん。もう少し待っててもらえますか」

「いえ、違うんです」

 石沢は慌てて手を振った。

「実は、私に緊急の仕事が入ってしまったので、今日はこれで失礼致します」

石沢が申し訳なさそうに言い、ドアを大きく開けておいて、中へと戻っていった。

「ねえ。お客さんって、あの人?」

 莉奈がぴったりと私に張り付き、怪訝そうに訊いてきた。

「うん」

「何のお客さん? 保険屋さんか何か?」

 私はどう答えるべきか迷う。莉奈には、美恵子――母親の事は特に話していない。小さい頃に両親が離婚したと、話したのはこれだけだ。

「ねえ、誰なの?」 

 答えられずにいると、莉奈は不満そうに私を見上げてきた。それが言えたら苦労はない。私は莉奈の態度に少し苛つき、説明が全く思いつかないことにも焦っていた。

 と、石沢が片手に松葉杖を一本持って、そろそろと蟹歩きで廊下に出てきた。やがて、石沢に片腕を支えられながら、美恵子がゆっくりと部屋から出てくる。もう片方の腕で器用に松葉杖を使い、少しづつ進み出す。美恵子の登場に、莉奈は呆けたような顔になっていた。

「本日は、ありがとうございました」

 石沢が頭を下げる。美恵子はなんとも酷く気落ちしている様子だったが、それも無理はないだろうと思った。

「タクシー、呼びましょうか」

 私は未だ降り続ける雨を見上げた。

「いえ、結構ですよ」

 傘を持ちながら、石沢が言った。

「先程タクシーの窓から近くにバス停があるのが見えました。それで駅前まで出ようと思います」

「そうですか」

「では、これで。さ、帰りましょう」

 石沢は俯いている美恵子を促し、小さな傘を差して歩き始めた。美恵子も石沢も、みるみるうちに雨で濡れていく。

「二人じゃ無理ですよ」

 見ていられなくなり、私は思わず声を掛けてしまった。

「待って下さい。バス停まで送ります」

 私は二人を引き止めて、部屋から先程の折りたたみ傘ではなく、黒い男物の傘を取ってくる。と、莉奈がすっとこちらへ近寄ってきて、耳打ちをした。

「私、部屋で待っててもいいかな?」

「あ、うん。そうしてくれると助かる」

 傘を差しながら、私は反射的にそう言っていた。莉奈は頷き、靴を脱いで部屋へ上がり込んだ。

「すぐ帰ってくるから、じゃ」

 莉奈にそう言いながら、私はドアを閉め、二人の元へ向かう。

 私達はバス亭へと歩き出した。私は傘を美恵子へ差し掛けて歩いた。彼女は小柄だが、両腕に松葉杖を握っているので、一緒に歩いているとやはり狭苦しく感じてしまう。私の右肩は雨に打たれて冷たかった。それを見かねてか、石沢がこんな事を言い出した。

「尾田さん。美恵子さんの肩を支えて歩かれた方が、楽かもしれませんよ」

 私と美恵子は互いに顔を見合わせて、固まってしまった。そこに石沢が、さあさあ、と言って美恵子の松葉杖を片方だけ手に持つ。美恵子の片腕が垂れて、所在なさげに揺れた。

「じゃあ、私先にバス停に行って、時刻表を確認してきます」

 石沢は足早に行ってしまった。

 取り残された私達に、雨は容赦なく降り注いでいる。美恵子がこちらを見上げてきた。松葉杖を一本失ってしまった彼女は、一人では歩くことも困難だ。

「……行こう、か」 

 美恵子が腕を差し出してきた。石沢はとっくに道の向こうへ消えて、もう声も届かないだろう。

 どうしようもなく、私はそっとその腕に触れた。莉奈と比べて筋張って皮膚のハリもない腕は、妙に生暖かった。

 私がぎこちなく腕を組むと、美恵子は静かに息を吐いた。緊張しているのかもしれない。組み合った彼女の腕は、どこか強張っていて、固かった。もしかしてそれは、自分も同じだったかもしれないが。

 私達はゆっくりと歩き出した。私は片手で美恵子を支え、もう片手で傘を差しているので、歩きにくさはそう変わらない。右肩は冷たくはなくなったが。

 雨で煙る道は、細かな水の粒子に覆われて、まるで先が見えなかった。全てが白くぼやけて薄くなる中で、降りしきる雨音だけが鋭く冷たく耳につく。体の芯にまで染みこんでいくような冷たさと、腕に感じる人肌の生暖かさ。

「辛くない?」

 美恵子が私の顔を覗きこむ。私は黙って、ただ首を横に振った。首筋を、雨に混じって汗が滑り落ちていく。

 美恵子は最初こそ遠慮がちだったが、次第に慣れてしまったのか、はたまた歩くことに集中しすぎたのか、次第にべったりと体をくっつけてくるようになった。それでも振り払う訳にもいかず、私は荒くなってしまう息を隠しながら、バス停まで必死に歩き続けた。

 ようやくバス停に着いてみれば、そこそこの人がバスを待っていた。石沢は順番待ちの列に並んだまま、こっちこっちと手を振った。通常なら横入りはとても嫌われる行為だが、皆私が支えながら連れてきた美恵子の姿を見た途端、どこか妥協したような顔になって、彼女を受け入れた。

「すみません、すみません。ありがとうございます」

 美恵子はしきりに頭を下げて、周囲の人へ謝っている。こうされては文句も言えない。乗客達はいえいえ、と手を振りながら、何気なく周囲を見るように目を逸らしていた。

「もうすぐ来ますから」

 石沢が言った時だった。車道の向こうから水たまりを跳ね上げて、バスがやってきた。乗客でない私は一歩身を引く。やがて停まったバスに、次々と人が乗り込んでいく。

「お客様、大丈夫ですか」

 美恵子を見て、運転手が聞いた。石沢が手を貸してバスに乗せようとするが、なかなか手こずっているようだった。

 乗客の目が、私達をじっと見ている。それはふらつく美恵子から奮闘する石沢。そして何もせず突っ立っている私へと向けられていく。

「背中、押しますよ」 

 たまらず、私は再び美恵子に手を貸した。石沢が美恵子の手を持ち、私は後ろから背中をぐっと支えて、バスへ押し上げる。待っている乗客達は沈黙を持って私達を見守っている。やがてどうにか美恵子をバスへ乗り込ませ、私は素早く身を引いて乗客へ道を譲った。美恵子は車内からこちらを一度振り返ったが、次々と乗り込んでくる客の波には逆らえず、席へ座った。最後の乗客も乗り込んで、バスは駅へ向かって走り出していった。

 遠ざかっていくバスを見送りながら、私はとてつもない疲労感に襲われていた。

 はたして、母親と会う選択肢は、正しかったのか。

 アパートへ帰る道すがら、私はそればかり考えていた。

 こんな絶望を味わうくらいなら、会わなければよかった。

「ただいま」

 部屋のドアを開けると、莉奈が慌てて居住まいを正した。

「お、おかえり」

 莉奈は、どこかよそよそしかった。私はテーブルに置かれた紙を見つけて、顔から血の気が引いた。何も言わず、その紙を取りあげて読む。


  孝弘へ

 今日はありがとう。貴方に会えて、お母さんはとても嬉しかったです。会ってくれただけで、私には過ぎた幸せだと思わなければいけませんね。

 一人になってみて、寂しさが身に沁みました。小さい頃の孝弘も同じ思いをしたのかと思うと、私はなんて馬鹿な事をしたのだろうと悔やみました。

 お父さんも亡くなったと、石沢さんから聞きました。どんなに悲しい思いをさせてしまったか。今からでも、お線香を上げさせて下さい。

 家族が離ればなれになるのは、とても辛いことだと、今更ながら気づきました。お願いです。どうかもう一度だけ、考え直してくれませんか。

 愚かな母を許して下さい。愛しています。

                              母より 

 

「これが広げて置いてあったの。私、つい手にとってしまって――ごめんなさい」

 莉奈がすまなそうに言う。私は手紙の内容に固まってしまって、うまく返事も出来ないでいた。

 私の脳裏に、ある光景が浮かんだ。

 私が莉奈の電話に出るため、部屋を出た後。美恵子はこの手紙を書いて、テーブルに置いたのだ。先程の彼女の土下座もどきも、石沢の理不尽な言い分も、この手紙も、全てが計算ずくの奸計だった。

「……さっきの人、お母さんだったんだ」

 莉奈が小さく呟く。私は脳が麻痺したようになって、じっと手紙を見つめていた。唐突に、叔母の忠告が甦る。

『聞いても、ろくなことにならないだろうから』

 全くもって、その通りだった。

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