涙橋

城戸火夏

第1話 知らせ

 六月の末、雨上がりの夜道はじっとりと濡れて、水たまりに突っ込んだスニーカーがぐしゅぐしゅと音を立てていた。大いに水分を含んだ空気は私を取り囲み、着ている作業着を通り抜けて体のあちこちを水浸しにしていく。シャツもトランクスも汗ばんだ肌に張り付き、私はその不快な感触を振り払いたくてわざと大股に歩いて行く。

 その日、私は仕事を終えてからいつものようにスーパーに寄り、夕飯を買い込んでアパートへ帰った。集合ポストから郵便物の束を掴み出して脇に挟み、一階奥の自室へ入った。

 古く狭い1Kは暗くても歩くのにはそう困らない。私は玄関で水浸しになったスニーカーと靴下を脱ぎ捨ててフローリングを歩き、中央の電灯の紐を引っ張る。丸い電灯はかちかちと激しく明滅しながら、やがて眩しい光で室内を照らし出した。

 若い男の一人暮らし。ものはそう多くない。一人用のちゃぶ卓と、就職祝いに贈られたテレビ。パイプベッド。背の低いタンスの上には写真立てが一つ置かれている。今年のゴールデンウィークに、旅行先で彼女と撮った一枚だ。風呂もトイレも古くてあちこちガタがきているが、男一人ならどうとでもなる程度だ。玄関から電灯まで、私の濡れた足跡が続いていた。

 正面の窓ガラスには我が部屋の全景と、作業着姿で立ち尽くすのっぽな男が映っていた。少し痩せたかな。私は窓に寄ってカーテンを閉めた。

 ちゃぶ卓にスーパーの袋と郵便物を無造作に置く。作業着を脱ごうとして、ふと気づく。ピザや商店のチラシが散らばる中に、茶色い封筒が一通混じっていた。

 宛名は『尾田孝弘様』――それは間違いなく、私宛だった。 

 私は送り主を確かめて驚いた。それは隣県の、聞いたこともない市の役所からだった。

 一体、どういうことだろう。私は首を傾げた。仕事で関わりのある土地でもない。ましてや行ったこともない。ともかく封を切ってみると、中には書類が二枚入っていた。一枚目の紙には、上方に太字で『あなたの親族に対する扶養援助のお願い』と記されている。

 申請者は、『遠藤美恵子』。私との続柄は、『母親』となっていた。

 私はまさに呆気にとられてしまった。二十四年前に姿を消した母親の消息を、まさかこんな形で知ることになるとは思わなかった。

 一枚目は『援助のお願い』の旨が表記され、二枚目はそれに対する回答欄が並んでいる。送金や物品などの援助は可能か。それとも当人を引き取るか。『援助はしない』という選択肢には、その理由を書き込むための空欄が添えてあった。

 更に回答欄は続く。家事を手伝うことは出来るか。話し相手になるなどの精神的な援助は可能か。現在の家族構成や私の収入額まで書き込む欄があり、私はそのあけすけさに開いた口が塞がらなかった。

『生活保護法により、申請者は保護を受ける前に扶養義務者、すなわち、夫婦、親子、兄弟姉妹へ優先して援助を頼まなければならず……』

 書面にはそう書かれている。下方に参考として民法が記載されている。

『民法第877条 第一項

 直系血族及び兄弟姉妹は互いに扶養する義務がある』

 その一文は絶大な威圧感があった。これではまるで、援助をしない者は民法違反の悪人のようじゃないか。

 回答期限は、七月末までとなっていた。

 


 このことを叔母に相談しようと思いついたのは、翌日の昼休憩の時だった。

 私は町の小さな繊維工場で働いている。その敷地の一角に設えられた長テーブルとパイプ椅子だけの休憩所。そこで食後の缶コーヒー片手に、昨日の手紙について考えていた。

 母親は私が二歳の時に離婚し、出て行ったらしい。幼すぎた私には、母親の記憶は全くと言っていい程ない。物心ついた時には父の実家で叔母達と同居していた。その為か、私は母親がいない状況をあまり疑問に思わなかった。私は私の家族のありかたについて、幼いながら『そういうもの』なのだと納得していたのだろう。友達や知り合いの母親を見て、私にも母親がいるのだということが、いまいちピンとこなかったことを覚えている。

 今日に至るまで、母親は私の中で、酷く曖昧な、霞のような存在だった。

 昨年亡くなった父は、最期まで離婚の真相を話そうとはしなかった。いや、ただ聞きそびれただけかもしれない。父も私も、母親の話題を出すことはなかった。それは叔母家族も、五年前に亡くなった祖父母も同じ。

 そんな幻のようだった母親が、今こうして私に窮状を訴えている。

 私は叔母に話してみようと携帯の電話帳をタップする。とにかく、手紙が来たことだけでも伝えたかった。幸いなことに、テーブルには私一人しかついていない。

 数回のコールの後、あくびを押し殺す叔母の声が聞こえた。

『はい。佐伯です』

「もしもし、孝弘です」

『あら、ヒロなの。元気?』

 叔母は私を愛称で呼び、声を弾ませる。

「まあ、元気だよ。そっちは? 叔父さんも和樹も元気?」

『元気も元気。和樹なんか、この前免許とりに行ったんだけど、教習所に行くまでに自転車で転んでね。それでもケガ一つしなかったわよ』

「すごいね」

『息子ながら、あの子の暢気さには呆れるわよ』

「和樹らしいじゃないか」

『まあね。それで、どうしたの?』

「うん、実は」 

 その時、目の前に一人の男が立った。見上げると同僚の岡崎が事務所を指差しながら、電話の受話器を耳に当てる仕草をしている。どうやら私に掛かってきているらしい。

「ごめん。事務所に呼ばれてるから切るね」

「あらそう。じゃあ、お仕事頑張ってね」

「また夜に電話するよ」

 電話を切り、岡崎に礼を言ってから事務所へ向かった。事務員から保留中の電話を受け取り、出る。

「もしもし。尾田ですが」

『尾田孝弘さんでいらっしゃいますか』

 知らない女性の声だった。声の感じからして中年女性だろう。

 女性はハキハキとした口調で、自分は母親が住んでいる市の生活課で、窓口相談員をしている者だと言った。

『私、石沢と申します』そう名乗り、女性は続けた。『先日、美恵子さんへの扶養援助のお願いを書面でお届けしたと思うのですが、もうお読みになりましたか』

「ええ、読みました」

『その件で、少々お話がございます。お時間、宜しいでしょうか』 

 私は壁の時計を見上げた。針は十二時四五分を差していた。

「あの、一時から仕事があるので、今はちょっと。それに、これは仕事場の電話ですから」 

『まあ、そうですか』

 相手は分かったような、分かっていないような返事をした。

『では、後程あらためてご連絡致します。ご自宅の電話番号か、携帯番号を教えて頂けませんか』

「分かりました」

 私が番号を順番に読み上げると、石沢はそれを復唱した。 最後にもう一度番号を確認してから、石沢が訊いた。

『ご帰宅は何時でしょう。いつ頃電話を差し上げましょうか』

「夜の八時以降なら、大丈夫です」

『分かりました。では、今夜八時に』

「はあ」

 電話を終えて事務所を出ると、なんだかやるせない気持ちで一杯になった。

 わざわざ仕事場に電話をしてくるなんて。さながら家に土足で上がられた気分だった。

 一体、話とはなんだろう。母親を引き取れと説得する気だろうか。なんたって、実子には扶養義務があるのだから。

 憂鬱な気分になりながら席へ戻ると、岡崎がにやにやと笑いながら近寄ってきた。

「どうした。仕事場に私用の電話なんて、お前借金でもしたのか」

「馬鹿、そんなわけないだろう」

 岡崎の肩を小突いて、私はどっかりと椅子に座り込んだ。岡崎は私の隣に座って、顔を寄せてくる。同い年のくせに、岡崎の顔つきは妙に子供っぽい。

「なら、何なんだよ?」

「別に、何でもないって」

 母親の生活保護について、なんて、たとえ友人でも話せる訳がない。

「ふーん。ま、いいけどさ」

 岡崎は腑に落ちない顔だったが、それは心配してくれているからこそだと私は分かっているので、少々申し訳なくなった。

「それはそうとさ、尾田は彼女とはどう? 最近は」

「何だよ、急に」

 岡崎は思い詰めたような顔で訊いてきた。

「結婚とか、そういう話はするの?」

 私は恋人である丸山莉奈の顔を思い浮かべる。緩やかなウェーブを掛けたセミロングに、大きく開いた瞳。卵形で可愛らしい輪郭。女性と言うより、『女の子』と言った方がしっくりくる、そんな顔だ。

 彼女と結婚――なんだか想像もつかない。決して嫌なわけではないけれど。

「いや、特には。そっちはどうなんだ?」

 深く考えてしまう前に、私は岡崎へ問い返した。すると岡崎は表情を曇らせて、それがさあと、盛大なため息をついた。

「ノゾミのやつ、結婚するなら同居が良い、なんて言い出して。気が滅入るよまったく」

 私は少し考えてから、岡崎に訊いた。

「それは、お前の両親と、ってことか?」

「まさか。あっちの親だよ」

 岡崎はがっくりと肩を落としていた。

「そもそもさ、親離れできてないんだよな。あいつは」

「あれ、でも前に『甘えん坊なところがたまらない』なんて言ってたよな」

 そう訊くと岡崎は、ああ、そんなこともあったっけ、などと宙を見上げて呟いた。

「でもさ、やっぱり限度ってものがあるじゃん。あんまり子供過ぎるのは嫌だよ」

「じゃあ、結婚はしないつもりなんだ?」

「いやあ」

 岡崎は頭を抱えて呻いた。

「それは、したいんだよ。ただ、もう少しノゾミが大人になってくれたら」

 その時、始業のチャイムが鳴った。私は岡崎の肩をぽんと叩く。

「ほら、仕事仕事」

岡崎を促しながら、私は今夜掛かってくるであろう石沢の電話に怯えていた。



 午後八時、私は夕食もすでに済ませ、ちゃぶ卓に携帯を置いて床で寝転がっていた。鳴り響く着信音に、私の体は思わず跳ね上がった。

 携帯には初めて見る電話番号が表示されている。私は一呼吸してから電話に出た。

「もしもし」

『こんばんは。こちら、尾田孝弘さんの携帯でお間違いないでしょうか? 昼間お電話致しました、石沢です』

 相手はやはり、石沢だった。昼間と変わらない角張った喋り方に、私の背筋も知らずまっすぐになってしまう。

「はい、そうです」

『ではあらためまして、遠藤美恵子さんについてなのですが……まあ、まずは美恵子さんの事情を詳しくお話しておきませんとね』

「事情ならもう読みましたけど」

 昨日の『お願い』の中には、母親の現状と申請理由もちゃんと記されていた。私は手紙を引っ張り出した。

「住居もなく、事故により身体が不自由な為、とありますが、違うんですか」

『それは簡潔な表現です。私はもっと詳しい事情を知って貰いたいんですよ』

「はあ」

 あまり聞きたいものではなかった。聞いたところで他人の不幸話以上の感想も出ないだろうとも思った。

石沢は気の毒さを声に滲ませながら話し出した。

『先月、美恵子さんのアパートが火事に遭いまして、全焼したのです。美恵子さんは避難の際に左足を骨折して、今はまだ入院中です』

「そうですか」

 私の素っ気ない答えも構わず、石沢は続けた。

『ええ。そして美恵子さんはビル清掃の派遣アルバイトをしていたのですが、怪我のために働けず、先日解雇されました』

 どうやら母親は、なかなかの苦境にあるようだった。だからどうしたと、思わずにはいられなかったが。私が何も言わなくても、石沢はどんどん話を進めていく。

『私ども生活課としましては、美恵子さんはまだ働ける年齢ですし、生活保護に全面的に頼るべきではないと思っています。しかしながら、美恵子さんは今住むところもなく、手持ちもごくわずかな状況です』

 そして、石沢が畳み掛けるように決断を迫ってきた。

『どうでしょう。引き取る、とまではいかなくても、幾らかの金銭的な援助をしてもらえませんか』

 正直、私は今まで全く会っていなかった母親に援助するべきなのか、甚だ疑問だった。これが叔母一家や友人ならこちらから援助を申し出るだろう。たとえ金銭だけの繋がりとはいえ、自分と父を捨てた人物と再び縁を持つのは、どうしても決心がつきかねる。

『どうでしょうか』

 石沢が再び問い掛けてくる。私は悩みながら、どうにかこれだけ答えた。

「お金の援助は、厳しいかもしれません」

『そうですか』

 石沢はあっさりと返してきた。身構えていた私は少し拍子抜けだったが、もうこの話は終わったんだと胸を撫で下ろした。しかしそんな私を追い立てるように、石沢はこんな譲歩案を講じてきた。

『では、美恵子さんが新しく住むアパートの保証人になって頂けませんか』

「いや、あのですね」

 私ははっきり言うことにした。

「二歳で両親が離婚して以来、母親とは一回も会っていないんですよ。今回だって急な話で、そんな、援助しろ、保証人になれと言われても困ります」

『あら、でもお母様じゃありませんか』

 石沢の言い方は、親子の絆は永遠のものだ、と言わんばかりの傲慢さがあった。私は少し苛つきながら、石沢に言い返した。

「母親って言ったって、二十年以上も会っていないんですから、他人も同然じゃないですか?」 

『お気持ち、分かります』

 石沢の言い方は、電話越しにうんうんと頷いているのが見えるようだった。

『ですが書面にも記載したように、美恵子さんの実子である孝弘さんには、親である美恵子さんを扶養する義務があるんです』

石沢の言葉に、腹の底から何かがぐわりと沸き起こる。私は知らず声を荒げていた。

「大体、母親の両親や兄弟はどうなんです? 連絡しているんですか?」

『美恵子さんは一人っ子ですし、ご両親とも死別なされています。ですから、息子さんである尾田さんに連絡を』

「じゃあ、こっちには初めから拒否権はないんですね。他に養う人がいないんですから。義務だから従えって言うんでしょう、そちらは」

『そうとは言ってません。私どもから強制は出来ないことになっています』

 だったら――言いかけた私を遮って、石沢が続けた。

『ですから、こうしてお願い申し上げているんです』 

 これは一筋縄ではいかなそうだ。私は思い切りため息をついてやりたかった。その辟易した音を石沢に聞かせ、黙らせてやりたかった。

『美恵子さんを引き取って介護しろとまでは申しません。お母様が自立するためにも、援助をして頂けませんか』

 石沢は粘り強く食い下がってくる。私は振り切れない会話に疲れきっていた。この会話の最中何度『そんなの、知りませんよ』と言い捨てて電話を切り、石沢からの着信を拒否設定にしようと思ったことか。

「――少し、考えさせて下さい」

 とにかく電話を切りたくて、私はそれだけ言った。

『そうですか。それが良いですね。こんなお話、すぐに結論を出せといわれても無理でしょうから』

 意外や意外、石沢はすんなりと引き下がった。私がはっきり断らなかったことで、まだ希望はあると感じたのだろうか。逃げる者を追いかけても更に遠くへ行ってしまうだけ。ならば猶予を与えてじっくり考えさせるべきと判断したようだ。

『回答は、書面通り七月末までとなっております。まだ時間はございますので、ご検討の程、よろしくお願い致します』

「はあ」

『本日は突然のお電話、失礼致しました。またご連絡差し上げることもあるかと思います。その時は夜の八時にお掛けすれば宜しいでしょうか?』

「はあ、そうですね」 

 希望を見いだした石沢の声はどこか嬉しげに聞こえ、私はもうどうでもよくなって、淡々と答えていくことしか出来なかった。

『ありがとうございます。では、失礼致します』

「はい」

 相手が通話を切る前に、素早く通話終了のボタンをタップする。これがせめてもの反抗だった。携帯を床に置いて、私自身も倒れ込んだ。

 しばらく、天井を見上げていた。電灯に目が眩みながら、それでも体を動かせないでいた。

 母親の事情と石沢の強引さが重くのし掛かって、私の思考を鈍らせる。自分の気持ちも、民法の前では霞んでしまいそうになる。私は電灯の光から逃げるように体を横向けにして、放り出していた携帯を手に取った。

 何をするでもなく画面を弄くっていると、叔母から着信が入っていたことに気づいた。そういえば、今夜また電話すると伝えていたのだった。私は体を起こして、叔母に電話を掛けた。

「もしもし、孝弘です」

『よう! ヒロ兄!』 

 底抜けに明るい男の声がした。

「あれ、和樹?」

『正解!』

 従兄弟の和樹は、ぱちぱちと拍手までして叫んだ。相変わらず陽気な奴だな。私の口元がふっと緩んだ。

 五つ下の従兄弟は、幼い頃から私を『ヒロ兄』と呼んで、実の兄のように慕ってくれる。人なつっこくて、少しお調子者な部分もあるが、基本的には良い奴だ。

「和樹、叔母さんは?」

『母さん、今風呂に入ってるんだよ。さっき、ヒロ兄に電話したのに話し中だった、て言ってたよ』

「そうか、悪い事したなあ」

『ねえ、ヒロ兄。誰と電話してたのか、当ててやろうか』

「うん?」

『ずばり! 巷で噂の可愛い彼女! そうでしょ?』

 自信たっぷりな和樹の声。それがなんとも可笑しくて、私は思わず笑ってしまう。

『ほら、また笑って誤魔化すんだから、ヒロ兄は』

「いや、そんな気はないって」

『だったらいい加減教えてよ。母さんだって知りたがってるのに』

「まあ、そのうちな」

 私は苦笑で話を濁した。

 莉奈のことは、家族に詳しく話していない。故郷の級友達には莉奈の存在を吐かされていたが、どうしてだか父や叔母へは言えないでいた。

 私と父は、決して仲良し親子ではなかった。叔母一家や祖父母を介せば会話はするが、二人きりになると、双方がたちまち口を閉ざしてしまう。学校のことや進路のことも叔母や祖父母に混じって話す程度で、私と一対一で向き合おうとはしない人だった。いつも遠くから切ない表情で見つめて、微笑んでいるだけ。そんな調子だから、私は恋人のことはもちろん、友人や学校のことも父に話すことが出来なかった。

 莉奈のことも、いずれちゃんと紹介できる日が来ると暢気に思っていたのに、一年前に父は急死した。父は最後まで私のことをよく知らないまま逝ってしまった。

 祖父母も亡く、私に残された身内は叔母一家だけとなった。しかしだからといって、莉奈を叔母に紹介したところで両者が戸惑うことになりはしないか。もしそうなった時、私はいたたまれない気持ちになるだろう。そのことだけは予想できた。

「じゃあ、叔母さんが出る頃にまた掛けるから」

『あ、待ってヒロ兄。母さん出たみたい。ホント、相変わらずカラスの行水だよな』

 かあかあとカラスの鳴き真似までして、和樹がおどける。私が噴き出すと、叔母がうるさいよと叱る声が聞こえてきた。

「ヒロ? さっきは話し中だったみたいだけど』

 電話口の叔母の脇から、和樹が彼女だよ彼女、と囁いているのが聞こえた。

「ごめん、伯母さん。少し相談があるんだけど」

『うん、いいわよ。どうしたの?』

「実は……」

 私は扶養援助の手紙について、叔母に判断して貰おうと思っていた。しかしよく考えれば、それはあまりに身勝手で無責任ではないだろうか。あの手紙は私に届いているのに。

 叔母にはなるべく、心配を掛けたくない。そう思ってしまったら、私はついついこんなことを口に出してしまっていた。

「母親のこと、知りたいんだ。話してくれる?」

 叔母は押し黙ってしまった。叔母は私より、当時の母親を知っている。何があって、どうなったかを。

 私は黙して、叔母の反応を待った。和樹だけが、何々、母さん怖い顔してどうしたのと、脳天気に笑っている。

『もしかして、あの人が何か連絡してきたの? 会いたいとか』

 叔母は頭の回転が早い。しかし今はその聡明さが、私の逃げ場をなくしてしまうようで恐ろしかった。

「ううん。そういうんじゃなくて。ただ純粋に、どんな人だったのかなって」

『……ねえ、ヒロ』

 叔母が、言いづらそうに切り出した。

『興味本位で訊いているんなら、私は話せないよ』

 私は息を呑んだ。頭が凍りついたようになって、すう、と熱が引いていく。

 叔母の言葉に、私は言い知れぬ不安を感じた。もしかして私は、知らなくてもいいことに触れようとしているのではないか。

 父も叔母も叔父も、祖父母でさえ話さなかった、母親のこと。

 それを、知ること。

『聞いても、ろくなことにならないだろうから。兄さん……ヒロのお父さんも、そう願っていると思う』 

 それは、警告だった。私より母親を知っている彼女が言うのだ。間違いないのだろう。

 しかし、私は逆に気になった。これ程までに言われる『私の母親』とは、一体どんな人物なのか。

『ヒロ? 聞いてる?』

 叔母の心配そうな声。

「聞いてるよ。うん、よく分かった」

 私は慌てて返事をする。叔母はまだ心配そうだったが、それならいいの、と言った。

『そうそう。ちょっと時期早いんだけど、ご近所さんから梨を頂いたの。ヒロ、食べる?』

「あ、良いね」

『じゃあ送るわね』

「ありがとう」

 それじゃあと私が電話を切ろうとした時、叔母が言った。

『何か困っていることがあるなら、相談してね。……一人で悩んでちゃダメよ』

 叔母は私のことを心の底から案じてくれている。それを嬉しく思う反面、私はとても申し訳なく思ってしまう。

 もっと、自分がしっかりしていたら、こんな思いをせずに済むのに。

「分かった。ありがとう」

 叔母に礼を言い、私は電話をそっと切った。訪れた静寂が、身に沁みた。



「ねえ、聞いてる?」

 少し怒った声を出しながら、莉奈が私の体を揺さぶった。

 仕事終わりに待ち合わせて入ったカフェ。窓ガラスの向こうの夜景をぼうっと見ていた私は、慌てて莉奈へ向き直った。見れば、彼女はグラスのフレッシュジュースをストローでくるくるとかき回しながら、こっちを見ている。その顔はとてもとてもつまらなそうだった。

「ごめん、何?」

 私が姿勢を正して聞くと、莉奈ははあっと大きなため息を吐いて、頬杖をついた。緩められたスーツの襟元が少しだけ開く。

「お盆の予定、孝弘は空いてるのって聞いてるんだけど」

 不機嫌そうな顏。

 莉奈は私と同い年だが、商社で営業をしているせいか、気も強くて、こういう時は姉さん肌になるようだった。嫌いではないが、こうやって詰め寄られるとやはり萎縮してしまう。

「……あー、ごめん。盆は実家に帰ろうと思ってて」

「そう。今年もなの」

 莉奈が再び大きく息を吐く。それから、ずいっと顔を近づけてきた。

「あのさ、どうして毎年、実家に帰るの? 孝弘はまだ結婚もしてないし、学生でもないのに変だよ」

「そうかなあ」

そう言うと、莉奈は整えた眉毛を顰めた。

「そりゃあ、去年は別だけど。お父さんが亡くなって、初盆だったし。それは言わないけどさ」

 莉奈が口を尖らせる。が、途端に表情を切り替えて、笑いながら私の手を取った。

「ねえ、今年はどこか旅行に行こうよ! 高級ホテルとか、そういうのじゃなくて良いから、ね?」

「……うーん」

 私はどうにも乗り気になれなかった。莉奈は健気に笑いながら、様々な夏休みプランを提案してくる。

「夏だし、やっぱり海が良いなあ。温泉なんかも良いよね。私、孝弘と一緒に露天風呂に入りたいなって、ずっと思ってたの」

「ああ、そうなんだ」

 私の気のない返答に、莉奈はすっと表情を硬くした。私はまずいと思い、首を大きく横に振った。

「いやあ、その……うん、温泉かあ。いいよな」

 必死に取り繕ったが、莉奈の固くなった表情は戻らず、私の手を離すと、顔を俯かせてしまった。莉奈からくぐもった声が聞こえる。泣いているのだ。

「ちょっと、莉奈」

 平日の夜だったが、大通りにあるこのカフェはなかなかに客が入っている。窓際ということもあり、目立ってしまっては彼女の為にも良くない。

「分かったよ。温泉、行こう」

 しかし莉奈は泣き止まない。莉奈はハンカチで目元を抑えると、震える声で言った。

「やめてよ。そんな、嫌々言われても嬉しくないから」

 私は面食らう。別に、嫌々言っているつもりはないのに、彼女にはそう聞こえてしまっていることがショックだった。

「そんなつもりで言ってないよ」

「嘘よ。本当は私と旅行に行くより、実家に帰りたいんでしょ?」

 莉奈は更にしゃくり上げ始めた。気が強い反面、彼女は思い込むと止まらない悪癖がある。こうなってしまってはどうにもならない。付き合ってもう五年。私はそのことをよく知っていた。

「違うよ。とにかく店出よう。迷惑になるから」

 私が促すと莉奈は首を振って、財布から千円札を取り出し、伝票の上に置いた。

「私、先に帰るね」

 それだけ言って、彼女は店から出て行ってしまった。私もすぐさま立ち上がって、莉奈の後を追う。慌てて会計をする間中、周りからの好奇の目に晒されて、いたたまれない思いだった。

 飛び出すように店から出て、通りを見渡す。去って行く莉奈の背中を小走りで追いかけた。

「莉奈、ちょっと待って」

 ようやく追いついて莉奈の肩に手を置くと、彼女はこちらを振り返り、キッと睨みつけた。 

「孝弘。私、そんなにワガママなこと言ってるかな」

莉奈の目には、まだ涙が溜まっていた。

「私、何も毎日いっしょにいて、なんて言ってないじゃん。ただ、孝弘と旅行して、楽しい思い出を作りたいってだけなのに。どうしてそれくらいもしてくれないの?」

 もはや彼女の中では、私が旅行に行きたくない前提で話が進んでいるらしい。それは全くの誤解なのに、今の私にはそれを彼女にどう伝えたらいいか、分からない。

「私のこと、好きじゃないの?」

 こんな酷い言葉さえ、莉奈は思いのままに口走ってしまう。その度に私は、好きだよと本心を伝えているのに、彼女に十分に伝わっていないのかと途方に暮れてしまう。

「そんなことはないよ」

「じゃあ、なんで、なんで私のこと考えてくれないのよ」

 莉奈は私の手を振り払って、ぐしゃぐしゃになった顔で睨みつける。

「付き合って五年。毎年我慢してきたけど、もう限界。いつも実家実家って」

「でも旅行なら、ゴールデンウィークに行ったじゃないか」

「だから何? 一年の内でたった一回しか旅行出来ないなんて、誰が決めたのよ」

 感情を爆発させて、莉奈は荒い息を吐いた。私は一体どうすれば彼女の機嫌が直るか、そればかり考えていた。

「もう、帰るから」

 結局、しびれを切らしたように言い捨てて、莉奈は人混みの中へと去って行ってしまった。私はただその背中を見送ることしか出来なかった。



 一体何が、あそこまで彼女の機嫌を損ねたのだろう。

 家に帰り、ベッドに横になって、私はずっと考えていた。

 昨日の石沢との電話、母親のこと、叔母の警告。それらがずっと頭の片隅にあった。仕事もどことなく身が入らず、久し振りの莉奈とのデートも上の空だったかもしれない。

 でも、まさか旅行に行けないくらいで、あそこまで怒るだろうか?

 子供じゃあるまいし。

 ふと、岡崎の話を思い出す。岡崎の彼女は子供っぽいらしいが、莉奈だって私の前では相当に幼いな、と思う。莉奈は仕事は出来る方だと聞くし、普段なら気を遣いすぎるくらい遣う。ただ、ふとしたことで感情のストッパーが外れてしまうだけなのだ。莉奈は可愛いし、それでいてしっかり者で無駄遣いもしない。よく出来た彼女だと思う。だから、こんなことが続いても別れようとは思わない。

 それに、私の前でだけ素になれるのなら、それはそれで嬉しいものだ。

『どうして毎年、実家に帰るの?』

 莉奈の言葉を思い出す。どうしてと言われても、盆に実家へ帰ることは日本で古くから続く習慣、あるいは様式美のように思っていたのに、何がおかしいんだろう。まあ帰ったところで、叔父と釣りに行ったり、和樹や友人と飲みに行ったりぐらいしかしていないが。

 しかし昨年の夏、父の初盆に帰った際には、なぜだか家にいるのが虚しくなった。実家はまるで知らない家のように思えて、どことなく居心地が悪かった。惰性で今年も帰る予定ではいるが、あの余所の家に居座っているような心許なさを顧みると、少しだけ憂鬱になる。

 枕元で、携帯がぶるぶると震えた。着信音が鳴り響く。莉奈からかと思って手に取ると、着信画面には見覚えのある電話番号が表示されていた。しかし、番号だけで発信相手の名前はない。

「もしもし」

 とりあえず出てみると、相手はその役所仕事が染みついたような喋り方で言った。

『こんばんは、石沢です』

 昨日の今日で早速電話してきたのか。私は気怠い体を起こして、ベッドに座る。

「何でしょうか」

『あの、今日はどうしてもお話ししたいことがありまして』

 話したいこと? どうせ、援助のお願いだろう。私は早々に嫌気が差してきた。

 しかし、石沢は思いも寄らないことを話し出した。

『実は美恵子さんは今週金曜日に退院予定なんですが、息子に会いたい、と仰っているんです』

「え?」

 私は戸惑いを隠せなかった。まさか今更になって接触を図ってこようとは、夢にも思わなかったからだ。私だって、母親と会おうなどと考えたこともなかった。

「今更会っても、どうしようもないと思いますけどね」

『それでもいいんです。美恵子さんは一目、尾田さんにお会いして、今までのことを謝りたいと仰っています』

「しかし……」

 私が渋っていると、石沢は縋るように言った。

『尾田さんにとっても悪い話ではないと思うんです』

「何故です?」

 とんだ詭弁だと呆れつつ、私は聞き返した。石沢は急に明るい声を出して、早口で捲し立てる。

『はい。今、尾田さんは援助するかしないか、決めかねていらっしゃいます。美恵子さんと面会することで、ご自身の方針を少しでも確かめられるかと思うのですが』

 それはまた、ご親切に。私はそう言ってやりたかった。

 確かに私は迷っている。援助するかしないかではなく、母親を捨てるという行為に躊躇していた。昨夜の叔母の様子から、母親はろくでもない人なのだと推測できる。しかし、私自身は直接その様を見ていない。いや、覚えていないと言った方が正しいのか。仮にもし私が母親に虐待されていて、憎悪や嫌悪感を持っていれば、直ちに決断を下しただろう。

 私はあまりに母親を知らなすぎた。

『お願いします。せめて、顔を見せてあげてください』

 石沢が食い下がってくる。私はある決意をした。

「分かりました。会いましょう」

 私が承諾すると、石沢はわざとらしく喜んだ。

『ああ、ありがとうございます。美恵子さんも喜ばれますわ』

「そうですか」

 別に、母親が喜ぼうがどうでもいいが。私は早く石沢との会話を打ち切りたくて、適当に返事をしていた。

『では、今度の日曜日にそちらへ伺います。ご都合よろしいでしょうか』

「はあ。いいですよ」

『ありがとうございます。では、そういうことで』

「はい。では」

 私はさっさと通話を切った。

 叔母の警告に反してまで、私は母親と会うことを選んだ。

 世間一般的に見て、親を捨てるという所業はとんだ悪行に見えるだろう。しかしそれも、当の親が非道であれば正当なものと成り得る。

 私は私の中に芽生えた残酷な感情を、確実に正当なものとしたかった。

『親を捨ててもいい理由』を。

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