16 妙子ⅠⅠ

妙子は脅えていた。

脅えていたが同時に安心もしていた。紀雄がいるからだ。


辰也がドアの外に立っていたのを見たときは、思考が停止した。

あのままでは、殺されていたかもしれない。


紀雄がいてくれて助かった。

紀雄は、男らしいし、たくましい。頼りになる。

ちょっとした憧れの対象に過ぎなかった紀雄との距離が、これほど近づいたことは、うれしかった。

これで、こんなおかしな状況でなければ、もっとよかったのに。


それに、妙子がいま、小便を漏らしてしまったことには、紀雄も気付いているだろう。幻滅されただろう。

妙子は、泣きたくなった。

辰也に切られた腕は、血は止まったがまだ痛い。それも悔しかった。


隣の部屋から、紀雄と辰也の争いの音が聞こえていた。

両耳を塞いでも聞こえたので、塞ぐのはあきらめていた。


紀雄は無事だろうか。

そう思っていると、やがて物音が止んだ。


そして、再び、言い争っているような声が聞こえた。

紀雄が高笑いをした。なにがあったのだろうか。


また、静かになった。


ドアに、紀雄が立っていた。

「よう、タエちゃん」


紀雄は、血にまみれていたが、本人がそれほど傷ついたわけではないようだ。

それが証拠に、紀雄は、妙子ににっこりと笑いかけて部屋に入ってきた。


片方の手はだらりとして背中にまわしている。怪我をしたのだろうか。


「若林君。大丈夫? 怪我はない? 佐々木君はどうなったの?」

妙子が訊ねると、紀雄は手で静かにするようにジェスチュアして、そして、妙子のすぐ傍らに座った。

「俺は平気だ。佐々木は、殴って気絶させた」


「平気って、でも、血が…」

「いいんだ。俺のことより、タエちゃんこそ、大変だろ?」


「え…あ、あ…」

紀雄に股の辺りを指差されて、妙子は顔から火が出た気がした。

慌てて自分でも見てみると、恥ずかしいことに、ズボンに染みがくっきりと出来ている。こんなことなら、色の薄いズボンにするのではなかった。


「あの…こ、これは…」


しどろもどろになった妙子の頭を、紀雄が撫でた。

「しょうがないだろ。昨日からガマンしてたんだし、あんな怖い思いしたんだし。いまなら、知ってるの俺だけだからよ、いまのうちになんとかしちゃおうぜ」


「なんとかって…どうするの?」

「佐々木のズボン借りようぜ。タエちゃん、そのズボン脱いじゃってさ」


「う、うん…で、でも、若林君がいたら、脱げないよ」

「なんで?」

紀雄の顔がぐっと近づいた。


妙子は耳まで熱くなった。

「なんでって…だって…ズボン脱いだら…その…」

「いいじゃん、おもらしも見たんだぜ? 恥ずかしくないって。それとも、俺には見せられない?」


「う、ううん…そんなこと、ない」

妙子は、うなずいた。

「若林君、私のために大変な目にいっぱいあってるもん。だから、若林君になら、いいよ」


「じゃあ、脱いで?」


妙子は、そっとズボンのファスナーに手をかけた。

どきんと心臓が激しく鳴って、紀雄に聞かれたのではないかと思った。


ファスナーを下ろして、腰をもぞもぞ動かして、ズボンを膝まで脱いだところで、ふと手を止めた。

当然のことだが、濡れているのはズボンだけではなかったのだ。


「あ、あの…でも、よく考えたら、ズボン脱いでも、あの、下着が濡れてるから…」

「だったら、下着も脱げば?」

「え、えええ? そ、そんなの…」


いきなり景色が吹っ飛んだ。

真っ白い花火が目の前で飛び散って、記憶が少し途切れた。


口の中におかしな味が広がり始めた。鉄みたいな味。

血の味だ、そう思ったとき、やっと痛みがやってきた。頬が痛い。

眼の焦点が合わない。

なにが起きたの?


かと思うと、今度は、身体が持ちあがったのを感じた。

後頭部を床にしたたかに打ちつけた。


視力が戻ってきた。

紀雄が、妙子のズボンを胸の前に抱えていたが、それを無造作に放り投げた。


妙子は、自分のズボンがいつの間にかすべて脱がされてしまったということを始めて知った。


紀雄の手が伸びてきた。

妙子にはまだ、なにが起きているのかわからなかった。


紀雄の手が妙子の下着にかかった。

「あ、あの…やめ…」


また花火。

かっと熱い痛みが顔に広がった。そしてまた少し記憶が飛んだ。

頭がくらくらする。


今度は、さすがにわかった。

殴られたのだ。

でもなぜ? なぜ若林君が私を殴るの?


なにか柔らかくて湿っているものが口に入ってきた。

布だ。

しょっぱい。それに、この臭い―。


下着だ。

間違いない。


紀雄の声が、なんだか遠くから聞こえてきた。

「…ああ、そうだ。てめえのせいで俺は散々な目にあったからな。お詫びによ、俺にいい思いさせて欲しいんだよ!」

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