15 紀雄ⅠⅠⅠ
ドアに、辰也が現れた。
目玉を剥き出してとんでもない顔をしている。
無言だったが、その顔を見れば仲直りしに来たのではないことぐらい明白だった。
辰也が、両手をしっかりと結んで構えた。
なにかを握っていて、それがキラキラ光っている。
ガラスだ。
紀雄は口の端をつり上げて笑った。そしてドアに突進した。
「本性現しやがったなコラァ!」
妙子が、全身を使って必死に這って、ドア口から逃げた。
妙子のいたところには、赤い血の点と、薄い水たまりが出来ていた。
紀雄がその水たまりのところまで突っこむと、おぼえのある臭いがした。
妙子が小便を漏らしたのだ。
紀雄は、妙子の小便を踏みつけた。足の裏が生暖かくなった。
辰也の手に意識を集中した。
「なめんなよォ、この野郎ッ! 殺られてたまるかァッ!」
辰也が、青白い顔のまま、両手に握ったガラスを突き出してきた。
この男にしては信じられないほど素早く、躊躇のない一撃で、紀雄は、避けられないと思った。
このままこんな奴に俺は殺られるのか―。
皮肉なことに、太腿の傷が紀雄を救った。
大腿に激しい痛みを感じ、がくりと膝が折れて、そのままふらついて前傾した。
姿勢を崩したその肩を、辰也のガラスが引き裂いた。
肩がかっと熱くなった。
紀雄は、床に両手をついて倒れるのを防ぐと、すぐに立ちあがり、辰也の背後に回った。
その髪を鷲づかみにして、力任せに引っ張りあげた。
辰也が苦痛の悲鳴を上げた。
その手が後ろに伸び、握られていたガラスが、紀雄の腹を切った。
紀雄は、またしても走った激しい痛みに激昂した。
辰也の首に手を回すと、そのまま後ろ向きに投げ飛ばした。辰也は顔面から廊下の壁に突っこみ、その手からガラスが落ちた。
紀雄は、ガラスを蹴飛ばして妙子のいるほうに転がした。
辰也は顔を押さえてうめきながら身体を起こした。
紀雄は猫のように身を屈めて彼の身体の下に潜りこんで、その腹に強烈な拳を叩きこんだ。
「ぐえッ」
辰也がおかしな声を出した。
紀雄は攻撃の手を緩めなかった。
ふらついた辰也の顔面に、正面からパンチを叩きつけた。
ぐしゃっという音がして、確かな手応えがあった。
辰也は鼻血を噴き出していた。口からも血がこぼれた。
紀雄は、さらに右と左から辰也の顔面を殴った。
歯が飛んでいったのが見えた。
辰也を壁に押しつけると、彼の胸板に、ワンツーを連発した。
辰也は拳を受けるたびにうめき声をあげ、口から血と唾液を吐き出した。
突然、辰也の顎ががくりと落ちた。
紀雄は、ほくそ笑みながら腕を大きく後ろに振って、アッパーカットでその顎を跳ね上げた。
衝撃で辰也の顔が今度は激しくのけぞった。舌を噛んだらしく、辰也の口から、いままでとは比較にならない量の、おびただしい血が溢れた。
辰也は、顔面を押さえて床に崩れた。
紀雄は、辰也の返り血を浴びながら、げらげらと笑い始めた。
「痛いか、痛いだろ? 血は痛いだろッ! こいつは俺の血だよ! てめえにやられた血の分、お返しだッ、痛いか、痛いだろ? あはははははッ!」
脚に激痛が走って、紀雄はまたバランスを崩した。
すると、辰也が口を押さえながら、さっと紀雄の前から逃げ出した。
「逃がすかよッ!」
紀雄は、辰也が閉めようとしたドアに、肩から当たり、辰也ごとドアを叩き開けた。
辰也は床を転がって、這ってさらに奥へと逃げた。
紀雄が追うと、部屋の端、バルコニーの手前で立ちあがり、振り向いた。
その手に、再び尖ったガラスが握られていた。
紀雄は、床にコップの破片が落ちているのに気付いた。
ジッポを入れてあったコップだ。これが辰也の凶器だったのだ。
辰也は、顔からぼたぼたと血を流しながら紀雄に叫んだ。
「ぼふほほろすふもりははッ? ぼふはひばばいろ! ひゃはへはいぞ!」
舌が切れて歯が欠けたせいで、なにを言っているのか紀雄にはさっぱりわからなかった。
もっとも、わかったところで、どうでもよかったが。
紀雄は辰也に再度飛びかかった。
辰也はガラスを握った手を振り上げたが、紀雄はその手首を掴まえて、吊り上げた。
そして辰也の脇腹にさらにパンチを送りこんだ。ガラスが、また床に落ちた。
紀雄は、辰也の胸を突いて突き飛ばした。辰也はふらふらと後退して、バルコニーに出る。
紀雄はぐっと身を低くして、勢いをつけてタックルした。紀雄の肩が辰也の腹をとらえて、ぐっと埋まった。
辰也は押されて飛ばされ、バルコニーの手すりに背中をしたたかに打ちつけた。
そこに、紀雄がもう一度突進した。
「うげぇッ!」
辰也が黄色っぽい液体を吐きだして、それが紀雄の背中を濡らした。
バキッと脆い音がした。続いてメキッという音がした。辰也の背を支えていた手すりがへし折れた。
辰也の、瞼の潰れた眼が、いまでも可能な限り見開かれた。その上半身がぐらっと傾いたかと思うと、滑稽な悲鳴がその口から出た。
「あ、ああ、ああぁぁぁ、落ちる、落ちるぅぅぅぅぅッ!」
辰也の身体が、折れた手すりもろとも、バルコニーを離れた。
「あぁ、あああああぁぁぁぁぁーっ!」
悲鳴は、辰也が地面に落ちるまで糸をひくように残った。
悲鳴が終わると同時に、どさっという音がした。
紀雄は、なくなった手すりに気を付けながら、地面を見下ろした。
辰也が地面に横たわっていた。
首が背中のほうを向いている。
紀雄は歪んだ笑いを浮かべた。
ざまあみろ。
死にやがった。
「紀雄! お前、なにを…!」
鋭い声が聞こえた。林の中から賢司が姿を現した。
「見りゃわかるだろ!」
紀雄は怒鳴り返した。
「やっぱりこいつが犯人だったんだ! いきなり襲ってきやがった!」
「な…!」
「さあ、これですべて終わりだぜ? なに悩んでんだ? 佐々木が死んだ。だから、海神なんてのも、もう出てきやしないんだよ!」
「紀雄、海神は本当にいるんだって言ってるだろ! いいから、そこにいろよ! 辰也を中に入れたらすぐ行くから、そこから一歩も出るなよ!」
賢司は、紀雄のことを無視して、辰也の傍らにしゃがみこんだ。そして、辰也の首を見て、がくりと肩を落とした。
紀雄は、むっとした。
なんだ、橋本のこの態度は。
元凶を始末してやったというのに、この扱いはなんだ?
まるで、俺が悪いみたいじゃないか。まるで佐々木が被害者みたいじゃないか―。
いきなり、電撃に打たれたような気がした。
そうか、あいつらも―。
橋本も。
それに、橋本にくっついてる様子からすると、香川も。
あいつらも、みんなグルだったのだ。みんな、佐々木も知ってたんだ。
それで、俺のことをみんなで笑っていたに違いない。
そうすると。
ははあ。そうか。
あいつもグルか。
おかしいと思っていた。
この旅行が始まってから、妙に俺に付きまといやがって。
俺の監視役でもしていたのか。
そうだ。そもそもあいつがトイレなんて言い出さなきゃ、怪我することもなかったんだ。
全部、仕組まれていたんだな。
紀雄は、突然笑い出した。
教えてやる。
俺をおちょくるような奴がどういう目にあうか、教えてやる。
紀雄は、振り向いた。
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