6 憔悴の朝
夜が明けた。
賢司は、断続的に眠りと覚醒の間をさまよっていた。
考えるべきことが次々と現れ、心が静まらない。
やっと落ち着いたかと思うと、紀雄が苦痛の叫び声を上げ、それにぎょっとして眠気が覚める。
叫び声は紀雄ではなく妙子の悲鳴のときもある。
彼女もなにかの悪夢にうなされているのだろうか。
そうして眠気が覚めて少しぼんやりとしていると、辰也がぶつぶつと言葉にもならないようなつぶやきを延々繰り返しているのが耳に入ってくる。
いったいなにを言っているのだろうかと聞きとろうとするが、さすがに小さすぎて聞こえない。
やがてその単調なリズムは眠気をもたらし、いつしかまたうとうとする―。
その繰り返しだった。
朝陽とおぼしきものが部屋に入ってからも、賢司は起きようとしなかった。身体が睡眠を要求していた。
明るさを感じるようになってからだいぶたって、由里に肩を揺すられ、起きなさいと叱咤されて、ようやく、賢司は起きることにした。
眼をこすりながら時計を見ると、すでに十時をだいぶまわっている。
砂浜で目覚めてから丸一日が経ったということか。
それにしてもなんと長い一日だったことだろう。あれからたった一日しか経っていないのか。
由里の顔を見た。
育枝や妙子と比べると化粧っ気もない女かと思っていたが、いま、いわゆるすっぴんという顔になっているのを見ると、しっかりと女らしい化粧ぐらいしていたのだと気付いた。彼女の顔には、疲れが貼りついている。
「由里…大丈夫か? 顔色が悪い」
「それは賢司君も。お互い様よ」
由里は力なく笑った。
妙子は、部屋の隅で、紀雄と並んで座っている。
妙子も、ぎょっとするほど疲れて見える。もともとほっそりとした感じの妙子は、この一晩で五キロも痩せたかのようだ。
紀雄は、賢司でもやや怯むほどの眼光で、どこか一点をじっと睨んでいる。
始め賢司は自分が睨まれているのかと思ってむっとしたが、紀雄の視線は、賢司が動き始めても変わらなかった。
紀雄は、賢司のさらに後ろ、バルコニーの部屋を睨んでいた。
そこには、辰也が外を見て座っている。
賢司は、また、言いようのない不安の嵐が胸の中で吹き荒れるのを感じた。
紀雄が辰也を睨みつけているのは、いったいなぜなのだろうか。
それに、ただ睨んでいるというようなものではなく、紀雄の目つきには怒り―むしろそれを通り越して憎悪さえうかがえる。
賢司は、辰也の様子も見にいってみた。
辰也は、ほとんど徹夜に近い状態でいたはずだ。
その疲労は肉体的にも精神的にも相当なものだろう。
「辰也…? 育枝はどうだったんだ?」
賢司は、なるたけ何気なく聞こえるように声をかけてみた。だがうまくいった自信はない。自分でも、芝居がかったひきつった言い方になったのがわかった。
辰也が緩慢に振り向いた。
賢司は思わず息を吸いこんだ。唾液を呑みこんで喉がごくりと鳴った。
辰也の変わりようは、誰よりもひどいと思った。
辰也は眼をぎょろつかせて賢司を見た。
口は挑戦的に少し開かれ、肌はやつれていた。髪は、幾度となく引っ掻いたか、むしったかしたのだろうか、偉大なる数学者や画家ならかくあらんというべき乱れようだ。
「まだ帰ってこないよ」
辰也は、そう言ってから静止していた。
ただ黙っていたのではなく、静止していたのだ。
呼吸すら止まったように見えた。顔は能面のようで硬直していた。
「まだ帰ってこないよ」
辰也はもう一度そう繰り返した。イントネーションのない乾いた声だった。
「海神に殺られたんだよ。昨日の紀雄みたいに殺られたんだよ」
「辰也…」
賢司はなんとか慰めの言葉をかけようと考えたが、なにも思いつかなかった。
辰也はバカではない。むしろ頭のきれるほうだと思う。
その仮説にたどり着くまでもたいした時間はかからなかっただろう。それでも辰也は夜通し育枝を待ち続けた。
「ぼくがいけないんだ。ぼくが宮崎さんをいかせたりしたから。ぼくがあんなこと言わなければ宮崎さんは死なずに済んだはずなのに」
辰也はつぶやいた。
賢司に言っているわけではなく、自分に言い聞かせているような口調だ。
「辰也。縁起でもないこと言うもんじゃないぜ。平気だよ、育枝はどこかにいるって。ただ寝てるかなんかしてるんだって」
作り笑いをしながら賢司は言った。
こんな見え透いたウソを言う自分がなんとなく嫌だった。自分だって、育枝がまだ無事だなんてまるで信じてもいないというのに。
辰也は疲れた笑いを浮かべた。
「そうだよね。まだ平気だよね。うん…。ぼく、ここで見張り続けるよ。きっともうすぐ帰ってくる気がするんだ」
「辰也…」
「よお」
疲れた感じの声がした。
紀雄が、壁に手をついて身体を支えながら部屋に入ってきた。
妙子も心配そうに彼の身体を支えている。
「俺以外は元気そうじゃねえか。へっ」
紀雄は自虐的に言うと、苦笑いを浮かべた。
賢司は紀雄の脚を見た。
シャツが肉に食いこんできつく縛られている。シャツは海老茶色に染まっていて、その下、脛の辺りまで、絵具をこぼしたように赤褐色の流跡が残っている。
紀雄の両腕は指先から肘まで血に濡れている。それで賢司は、自分の手や腕にも血がついていることに気付いた。昨日、紀雄を運んだときに付いたのだろう。
それにしても随分な出血だったようだ。
人間の身体はこんなに血が出ても大丈夫なものだろうか。
傷もそれなりに深かったはずだが、紀雄は、よほど力ずくで無理矢理に出血を止めたのだろう。きつく縛られた脚が痛々しい。
いや、紀雄が無事でいることがむしろ奇跡的なのかもしれない。
誰もがめいめいの考えごとをしていて、心ここにあらずという様子だが、とにかく全員が―もちろん育枝はいないのだが―集まった。
賢司は、顎に手を当てて、少し伸びてきた髭をちりちりいじりながら、考え始めた。
「賢司君。今日はどうするのかしら?」
と由里。
「今日はスナフキンが泳いでいく予定だった」
賢司は言った。
助けが来るというのならば、そこから先のことなど考える気もない。
だが、残念ながら助けは望み薄だと、賢司は夜の間に確信していた。
ワッカ島の人間達の企みでここに連れてこられたのだということがほぼ確定的になった以上、島の人間達が賢司達を助けに来るとは思えないということが一つ。
それに、もう一つは、紀雄の脚だ。
「スナフキン。あれにやられた脚の怪我は?」
「泳げないと思うぜ、この脚じゃあ」
紀雄は首を横に振って否定した。
「まだうまく動かせねえし、塩水に入ったらすんげえ染みそうだからな。血が染みてサメが来るのもヤだしよ」
賢司は失望のため息をついた。
「しょうがないな。じゃあ、もう他に助けを呼ぶ方法はないのか? 今日、明日、当分この島にいないとダメってことか?」
妙子がひっと悲鳴をあげた。
「こんなところにいつまでもいるのはイヤ! なにかがいるところにいるのはイヤ!」
賢司も、大声で叫びたい気分だった。
それでも、自分が叫べばみんなも倣ってしまうという気がしたので、衝動を抑えた。
抑える必要もなく悲鳴を上げる妙子を少し疎ましく思いかけたが、慌ててその思いを振り払った。
「自分を見失わないで」
そう、由里は毅然としている。
もっとも、顔色だけはあまりよくない。疲労しているのか。
「いつまでもということは、ないはずよ。なにがこの島にいるのだとしても、これからなにかが起きるのだとしても、それでも、今夜中ですべて終わるはずよ。だから、明日からのことは、きっとなんとかなると思う。今夜さえ乗りきれれば」
「今夜? なんで今夜なんだ?」
紀雄が訊ねた。
「星よ」
由里は天井を指差した。
「流星が降るのが今夜だからよ。正確に言えば、明日の未明、午前三時半ごろ。それを過ぎれば、きっと、恐ろしいことはなにも起きない気がするの。いまは十一時ぐらいだから、あと十六時間というところね」
「根拠は?」
「そんなもの、あるわけない。根拠は、女の直感よ」
由里が、あまりにも平然とした顔でそう言ってのけたので、賢司はぽかんと口を開けて思わず笑いをこぼしてしまった。
「由里、お前なあ…」
「冗談よ」
由里は賢司の顔の前に手を出して口を遮った。
「海神は流星を見るためにこの島に滞在して、流星とともに去っていくのよ。海神はきっと、星を見るのに邪魔者がいては嫌なんでしょうね」
「星だなんて…どうして海の化け物が星なんて見たがるの?」
妙子が疑問を出した。
「さあな。いや、ひょっとしたら―」
紀雄がなにかを言いかけた。
「ひょっとしたら?」
「いや、なんでもない」
紀雄は口をつぐんだ。
「フン、そんなことがあるわけがない。あんなもんは架空の話だ。あーあ、ゲームのやりすぎだな俺も。そうだ、そんなことは現実にあるはずがない。これは全部、佐々木のいたずらなんだから」
紀雄はぶつぶつとそんなことを言い始めた。
辰也はなにも言い返さなかったが、露骨に嫌悪を現した表情で紀雄を見つめていた。
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