5 限界点

幸い、ガラスを使う必要はなかった。


海神は、いきなり身を翻し、猛烈な勢いで林に飛びこみ、姿を消した。


賢司は、呆然として、海神の消えた辺りを見つめた。膝ががくがくしていた。


うめき声が聞こえ始めてそっちを見ると、紀雄が太腿の辺りを押さえて声を絞り出していた。


横向きになって背を丸めているその姿を見て、賢司はバカげたことに、カップヌードルに入っている海老を連想した。そのナンセンスな連想に、いきなり弾けたように笑い始めた。


「アハハハハハ!」


おかしかった。笑いが止まらなかった。

涙が出てきた。

紀雄と同じように背を曲げてひぃひぃと息をつきながら笑った。


紀雄がたぶん怪我をしたのだということはわかっていた。

笑っている場合ではない。それなのに、笑いが止まらない。

自分は狂ってしまったに違いないと賢司は思った。


由里がやってきた。

なにをするのかと賢司が思う間もなく、その平手が彼の頬を勢いよくとらえた。

「あなたがそんなでどうするの?」

由里はそう言い捨てると振り向き、地面でうめいている紀雄の傍らにしゃがみこんだ。


賢司は頬をさすった。

ひりひりしてきた。

強烈なビンタで、すっきりした。笑いの発作は急速にしぼんで消滅した。


状況がわかるようになってきた。

「ひどい出血。早く止血しないと…」

由里が紀雄の介抱をしようとしていた。


だが紀雄は彼女を遮った。

「いい。俺は自分でやるから、タエちゃんを…。気絶してる。俺が襲われたとき、悲鳴上げて倒れただけなんだ」


紀雄はいきなり手を伸ばして、うんうんと苦痛にうめきながら自分のシャツを引き裂いた。

切り取られた布を、見るからにきつく大腿部に巻き付け、締めた。紀雄の負傷は、太股のようだ。


「しっかりして。教えて、なにがあったの? どうしたの? あなたを襲ったあれはいったいなに?」


「知るかよ…。タエちゃんがトイレっていうから、外に連れてきたら、いきなり襲われたんだよ! っぐぅああ! ぁあああっ!」

紀雄はひとしきり激しく叫び声をあげると、倒れた。失神したようだ。


「賢司君。豊田さんの様子は?」


由里に呼びかけられて、賢司は慌てて妙子に駆け寄った。

妙子は地面に倒れていたが、賢司が軽く頬を叩くとかすかな声を漏らした。

「平気だ。気絶してるだけみたいだ」


「若林君も気絶したから…中に運ばないと」

賢司も同感だった。

ここにいつまでもいる気にはならない。あの生き物がまたやってきたらと思うと、青ざめた。


「辰也に手伝ってもらおう。辰也! 辰也!」

賢司は頭を上げて、バルコニーに呼びかけた。


辰也の返事はない。


「辰也! 来てくれよ! 降りて来いよ! 手伝ってほしいんだ!」

辰也の返事はない。


ふと恐ろしい想像をした。まさか辰也も海神に―。


バルコニーの明かりが揺れた。


家の中から足音がして、玄関から辰也が明かりを持って現れた。


「辰也!」


辰也はぼんやりとした表情をしていた。

「どうしたの? そんな顔して?」


「どうしたの…って。お前、呼んでも返事しないから、そっちこそどうしたかと思った」

「どうもしないよ。ただ、ぼんやりしてただけだよ。…それよりさ、なにがあったの?」


「さあな。俺にもさっぱりわからないね。なんかヘンなのが出てきて、紀雄と妙子が襲われた、以上終わり。二人を部屋に運ぶの、手伝ってくれ」


「ヘンなの? ヘンなのって…? なに?」

「ヘンなのはヘンなのだよ。お前が怪談で話したのとそっくりな、半魚人みたいの!」


辰也は絶句した。顔色も失われたように見える。


賢司は同情した。自分が語ったとおりのことが起きたのだ、嫌な気分だろう。


「海神…? 海神が…?」

辰也は、口をぱくぱくと動かした。

その先には言葉が続かないようだった。


「驚くのは、あとにしてもらえないかしら」

由里は冷淡とも感じられる口調で言った。

「繰り返すようだけど、二人を急いで家に入れたいの。驚くならそれからにして」


ぴしゃりと言われてしまったので、辰也は沈黙するしかなかった。


賢司は、由里に明かりを持たせ、辰也と二人で、紀雄の身体を家に運び入れた。

そして、妙子の身体も同じように運んだ。


誰も口を開かなかった。

幸い、海神が再び現れることはなく、二人を運び入れることは無事に終わった。終わった頃には、三人ともへとへとになっていた。


時計は二時過ぎを指していた。


作業が終わると、辰也は、明かりを持って、バルコニーの部屋に戻った。

そしてまたあぐらをかいてそこに座った。


何事もなかったように。さっきからずっとそうしていたかのように。

育枝が戻ってくるのを待っているのだ。


由里は、そんな辰也の様子を一瞥してから、賢司に向き直った。

「これからどうするの、賢司君?」

「どうするって…どう?」


「あれがどんな生き物なのかはよくわからないけど、海神なのかどうかもわからないけど、私達を襲う何者かがこの島にいるということは確かでしょう?」

由里は、視線を落とした。

足元では、紀雄がまたうめき声をあげ始めていた。

「若林君は大丈夫そうよ。痛がってるけど、血は止まったみたい」


「…海神か」

賢司はつぶやいた。


あの顔。魚類としか思えないあの顔。

左右に異様に離れた瞳。

ぬめぬめ光っていた肌。

ウロコとしか思えない手触り。

ああ、ああ。


「でも、どうすりゃいいっていうんだ? あんなのがいるって言われたって、だからどうすりゃいいっていうんだ? 俺になにが出来るんだ?」

「とにかく朝を待ちましょう? 朝までは見張りをしながら、この家にいるしかない。それがいちばん安全でしょうね」


賢司は、やれやれという感じでうなずいた。

他に考えがあるわけでもない。朝を待つという考えには賛成だ。


夜は、ただ夜というそれだけで、とてつもなく気を滅入らせる。疑心暗鬼を増進させる。

早く夜が明けてほしい。

流星群は明日の夜だが、もうそんなことはどうでもいい。

明日の夜もこうしてまんじりともせずに過ごすことになっては、とうてい耐えられるものではない。


朝を待つ。

朝を待つという言葉が、これほど素晴らしい響きをもつ言葉だとは。


「朝になって、みんなが少しでも落ち着いたら、そのときにきちんとした話し合いをしましょう。いろいろなことを…」

そこで由里は声を潜めて、ほとんどささやくようにして続けた。

「…たとえば宮崎さんのことも」


賢司は、渋る頭を無理に動かしてうなずいた。

育枝はまだ戻ってこない。


なぜ戻ってこないのだろう。

道に迷った、それだけだろうか。


紀雄の怪我が、賢司にさらに不吉な連想をさせた。

不吉だが、可能性が高いのではないかと思った。


紀雄と海神が取っ組みあっているときに、賢司達が現れなかったら、紀雄は負傷で済んだのだろうか。

あるいは、紀雄より妙子のほうが先に襲われていたら?


それと同じことが育枝にも起きたとしたら? 育枝が海神に襲われたのだとしたら?


賢司は、ん~っと唸りながら髪をぼりぼり掻いた。そして大きくため息をついた。


「賢司君…。眠ったほうがいい。疲れてるのよ、賢司君。…たぶん今晩は、止めたところで佐々木君が見張りをし続けるでしょうから、休んだほうがいいわ」


「いや、でも…」

渋る賢司だったが、由里に二言であえなく一蹴された。

「ダメ。寝て」


「…わかったよ。その代わり、条件が一つ」

「なに?」


「由里も寝るんだぞ。お前もちゃんと寝るんだ。それなら、俺も寝る」


図星だったか、由里が少し困惑した顔になった。


「いいだろ?」


由里は、少し唇を尖らせてうなずいた。

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