27 焦燥

「辰也!」

賢司は、ようやく辰也に追いついて、その肩を叩いた。


辰也が振り向いた。

ゆらめく光の加減のせいもあったのだろうが、その顔が、随分やつれているように見えて、賢司はぎょっとした。


「なんだよ、橋本。ほっといてよ!」

辰也は賢司の手を振り払った。


「ほっとけるかよ。明かり貸せ、辰也。育枝が戻って来らんないだろ!」

「平気だよ。怖くない、戻って来るって、宮崎さん自分から言ったんだから」

「アホか! そんなん真に受けんな!」


賢司と辰也は睨みあった。

辰也の表情が少し歪んだような気がした。

「真に受けて悪かったね」


賢司は、ぎょっとした。

辰也の声に、まるで感情がこもっていない。


そのとき、リビングから紀雄の退屈そうな声がして、二人の間に生まれていた緊張を緩めた。

「お~い、喧嘩なんかしてねえでよ、さっさと明かり返せ」


もっともだと賢司は思った。

辰也はぼんやり突っ立ったままなので、その手からジッポ入りコップをもぎ取った。

辰也は、そうしてもいまいち反応しない。


「育ちゃんは…?」

妙子が訊ねた。


「いや。まだ戻ってきてない」

賢司は、顛末を簡単に説明した。


「遅いよね。どうして戻ってこないんだろう」

そう言う辰也の声が上ずっている。焦燥が、賢司にも伝わってきた。

「ぼくのせいだ。ぼくがヘンなこと言ったから…宮崎さんは昔からそうなんだ。すぐムキになるんだ」


紀雄が、わざとらしくドスをきかせた低い声で言った。

「海神に食~べられたんじゃないのかぁ?」


「いやっ! 変なこと言わないで!」

妙子が悲鳴を上げた。


賢司は、背筋に氷の塊でも入れらたような気がした。

そんなこと、あるわけない。

紀雄にそう笑って言い返したかったが、声は出てこなかった。


「ウソだよ。海神なんて、いるわけない。そんな生き物が、いるはずがないんだ」

辰也はそう言っているが、声は虚ろで、頼りない。

「宮崎さんは、ただ道に迷っただけなんだ。宮崎さん、昔から道覚えるの苦手だったから…」


「それは一理あるかもしれないわね。この暗さで、それに林の中を歩くなんて、来た道がわからなくなっても全然不思議じゃない。だから、ひょっとしたら迷ってるだけなのかもしれない。あまりそうは思えないけど…」


「じゃあ簡単だ。玄関から大声を出して育ちゃんを呼びゃいいんだ。こんな小さい島だったら、大声出せば端から端まで聞こえるだろ? 聞こえりゃ返事するさ。返事があれば居場所もわかる」


「若林君、いい考え。それなら育ちゃん帰って来れる、うん」

妙子は弱々しく笑った。暗い中で、彼女はとても小さく見える。だいぶ疲れているようだ。


「賢司君は、なにか考えでもある?」


「いや。なにも」

賢司は由里に答えた。


あるわけがない。


自分がさっき試したからには、声を出して呼ぶことがそれほど名案だとも思えないが、成果があるにしてもないにしても、なにかをしていたほうがよさそうだ。


特に妙子に顕著に現れ始めているが、こんな、暗くなにもわからないような状況でじっとしていれば、精神的な疲れは急速にたまっていく。

とにかくなにかをするか、寝てしまってなにも考えないようにするかしないと、気が滅入ってしまう。


五人で連れ立って玄関に向かった。

結局みんな、明かりから離れたくはないようだった。


「宮崎さん…平気かな? ねえ、橋本? 平気だよね? 宮崎さん、見つかるよね、戻ってくるよね?」

辰也がしつこく訊ねてくる。


「平気だよ。どっかそのへんでもほっつき歩いてるよ。あいつも強情だから、お前に会ってまた喧嘩するのがヤなんだろ。お前、育枝が戻ってきたらちゃんと謝れよ?」

「べつにぼくは…謝るようなことは…」


「へ。やだね、素直じゃない男は」

紀雄が吐き捨てるように言った。


心底から気分の悪そうな声で、聞いている賢司まで不快感に襲われかけた。

紀雄も相当に苛立っている。

あまりいい兆候ではない。

「うじうじしてばっかりでよ。育ちゃんもこんな男のどこがいいのかね?」


「若林君。育ちゃんのこと悪く言うのはやめて」

妙子が、まるで自分が悪いことでもしたかのように小さく言う。


「はいはい。じゃあ佐々木のこと悪く言うか。いまどき小学生でも告白ぐらい出来るぜ? この年でまだ付き合ってないなんておかしいじゃん? 佐々木ってインポか?」


辰也が紀雄に掴みかかった。


紀雄は落ち着いていた。

突っかかってきた辰也の手首を握って食い止め、凄みの利いた声を発した。


「おい、なに考えてんだてめえ? 殴られてえのか? いいぜ、相手してやろっか? 俺すっげぇイライラしてんだよ!」


紀雄は、逆に辰也の胸をどんと突いた。

辰也はよろめいて、その手に持たれたままのコップの明かりが揺れた。


「この…!」

辰也は反撃に出ようとした。


賢司は、無我夢中で彼を後ろから抱き止めた。

「よせ、やめろって、辰也! スナフキンに悪気はないんだから!」

それから紀雄にも声をかけた。

「スナフキンも! お前も言い過ぎだ! みんなイライラしてるのは同じなんだから、喧嘩の種になるようなことするな!」


「ふん。佐々木が勝手にキレたんじゃねえか。俺じゃねえよ」

紀雄は不満そうに言ったが、ひとまず下がった。


「若林君…」

妙子は、紀雄と賢司を見比べておろおろとしたが、結局そのまま紀雄のそばにいた。


「さっさと育ちゃんのこと呼べよ、橋本。早く終わらせようぜ。俺、用が済んだらもう寝るからよ。起きててもロクなことがねえ」


賢司が言い返そうとすると、由里のほうが先に紀雄に言った。

「そうね。若林君は明日、泳いでもらうんだから、早く寝たほうがいいでしょ。喧嘩なんかに体力を使わないでね」

由里の口調はそっけなく、とりつくしまもないといった風情だ。


紀雄も気勢をそがれたらしい。

「大きなお世話だぜ…ったく。なあ、じゃあ俺、もういますぐ寝ていい? だいたいこれ、佐々木の責任なんだろ? だったら佐々木がなんとかしろよ」


紀雄はそう言って妙子の手を引いた。

「タエちゃんも疲れてるから、もうおやすみでいいだろ?」


「でも…」

妙子はためらい気味に賢司を見た。育枝のことが心配だが、身体は疲労しきっているのだろう。


「そうしなさい、豊田さん。暗いときに探しても成果はないし、疲れるだけだもの。下手すれば二次遭難だって有り得る。ここは、朝まで眠ったほうがいいでしょう。宮崎さんが戻ってきたとき、元気な顔を見せるためにも」


「うん…」

妙子は、渋った声だったが納得したようだった。


「ぼくは寝ない」

辰也が言った。

「ここで待ってる。明かりを持って待ってれば、宮崎さんの目印になると思う」


辰也はむっとした表情をしている。

言ったからには、本当に寝ないつもりのようだ。

だが、それで育枝が戻ってくるという保証があるわけでもないが…。


「寝ないのは勝手だけど、明かりを持たれたままなのは困るわね」

由里が言った。


「じゃあ、こうしたらどうだ? その明かりを二階のバルコニーのそばに置いておく。そうすれば灯台みたいになるだろ? 辰也が起きてたいなら、そこで起きてればいい。寝る奴は、そこの隣の部屋で寝る。部屋のドア両方開けとけば、明かりが部屋を貫通するから、それでなんとかならないか?」


「それがいちばんいいみたいね。佐々木君も、異議はないでしょう?」

「…うん」


「若林君と豊田さんは? 豊田さん、男と一緒でもいいかしら?」

「異議なし。俺は寝るぜ」

「私も…いい。っていうか、一緒のほうが…いい」


それで決まった。


賢司は、肩の辺りからどっと疲れがのしかかってくるのを感じた。安堵とともに、気力で抑えてきた疲労が一気に襲ってきたらしい。


ぐるぐると、嵐のように思考が頭のなかを吹き荒れている。


育枝はどこにいるのか、いまどうしているのか、意地を張る辰也のこと、紀雄と辰也の喧嘩、妙子が塞ぎこんでいること、まるで賢司の秘書でもしているように振舞う由里のこと、ワッカ島のこと、明日のこと、どうやって助けを求めるのか、それに、怪談話の海神のこと。


だが賢司は、つとめてなにも考えないようにした。

いまは、なにも考えたくないのだ。


夜は思考の方向性を下向きにする。

物事を悪いほう悪いほうに考えたがる。

しかもこのいまいましい暗闇。

なにをしていても、なにもしていなくても、気が滅入ってくる。


ただ、朝を待ちたい。朝になれば、きっとなにもかも解決する。


賢司は、そう切に願い、きつく眼をつぶった。

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