26 肝試し
「なんだよあいつ! どうかしちまったのか? 明かり持ってっちまいやがった!」
賢司は立ち上がった。
参った。
辰也の悪いところが出た。
ときどき度を越すいたずらをする。神経質なところがあって、苛々しやすい。育枝の前で素直になれない。
辰也のことだから、最初は、育枝や賢司達をちょっと怖がらせてやろうというぐらいの考えだったのかもしれないのに、ムキになって引き返すことが出来なくなったのか。
「スナフキン、由里、タエちゃん、みんなここにいろよ? ちょっと俺、辰也のとこ行ってくる。あいつ、ムキになると、きかないから…!」
手探りで、暗闇をかきわけて、出口があったとおぼしき方に向かう。距離感がまるでつかめない。
「賢司君!」
いきなり由里の声が後ろから聞こえた。
名前で呼ばれた。由里はいつも賢司のことを名字で呼ぶのだが。
「なんだよ、由里?」
暗闇はしばらく沈黙していた。由里が暗闇に溶けてしまったみたいだ。
「…気を付けて」
しばらくして、それだけ聞こえた。
「おう」
ぶっきらぼうに返事をして、賢司は、また暗闇の中を歩き始めた。
暗闇を両手でかき分けてようやく壁を探り当てた。それまでに、ソファの角とおぼしき場所に脛をぶつけて痛い思いをしたが。
あとは壁伝いに、玄関のほうに、格好悪い及び腰で進んだ。暗闇でよかったなあ、と賢司は少しだけ暗闇に感謝した。暗闇のたまらない圧迫感に押されて及び腰になったので、なんとも逆説的だとは思ったが。
育枝と辰也はまだなにか言い争っているようだ。
「…るでしょ!」
「…」
育枝がだいぶ血が昇っているのに対して、辰也は例のごとく澄まして相手をしているのだろうか。
足がザラっとしたものを踏む嫌な触感があった。
外から入ってくるわずかな明かるさに、その辺りがきらきら光った。
ガラスだ。
それで賢司は、ようやく玄関まで来たのだとわかった。
ぼうっと浮かび上がるように、玄関の外が見えている。
賢司は、同じ暗闇にも濃さの違いがあるのだと初めて理解した。
闇にも色々な暗さがあるということぐらいは、頭でも身体でも知っていたことだったが、知っているということと理解ということは違うのだ。
「辰也…? 辰也?」
賢司は、玄関の向こうに呼びかけた。
暗い中にさらに濃い人影が現れた。
「賢司、どうしたの?」
辰也の声だ。
「どうしたのって…お前なあ…育枝は?」
「宮崎さんは、砂浜に行ってるよ」
「はあ?」
辰也の言った言葉がよくわからなかった。
彼の口調は平静そのもの、淡々としていて、それが少し寒気を感じさせた。
「宮崎さん、怖くないって言い張るから、それなら砂浜まで明かり無しで一人で行って帰ってこれるよねって訊いたら、当たり前だよって言って…」
賢司には、辰也と育枝が、お互いムキになって、ひくにひけないまま言い争っている様子が容易に想像出来た。
「お前、それで止めなかったのか? こんな真っ暗な中、砂浜に行かせたのか?」
「そうだよ」
辰也は平然としている。
賢司は、唐突に辰也が恐ろしくなった。その瞳の奥に、なんの光もないような気がして、ぞっとした。
「なに考えてんだ、お前! バカか!」
「バカってなにがさ? 宮崎さんは自分で言ったんだもの。砂浜まで行くって」
「そういう問題じゃないだろ? こういうときに余計な騒ぎ起こしてなんになるんだよ?」
「騒ぎじゃないよ。もうしばらくすれば宮崎さんも戻ってくるでしょ」
辰也は、にこりともせずに言うと、賢司の脇を通り抜けて家に入った。
「おい、辰也? どこ行くんだよ?」
「どこって、みんなのところに戻らないと」
「い、育枝は?」
「大丈夫だよ。そのうち戻ってくるって。少し頭を冷やせばいいんだ。いっつも鼻持ちならない感じだから、たまには怖がればいいんだ」
辰也とジッポの明かりが廊下に遠ざかっていく。
「辰也、待てっての! 頭冷やすのはお前だよ。落ち着けよ、なにムキになってんだ?」
辰也は振り返らずに廊下を戻った。
当然、辰也の移動につれて、唯一の光源であるジッポの炎も移動し、玄関付近の視界も急速に失われていく。
賢司のいる玄関の辺りは早くも暗闇に戻った。
辰也を止めなければ、止めて明かりを玄関に戻さなければ、育枝の道しるべがない。
育枝は自分の来た道をしっかり覚えているほど器用な奴とは思えないし、もし覚えていたとしても、こんな暗闇の中では、そのとおりに戻って来られるものかどうか怪しい。
砂浜への往復には、昼でも一苦労だったあの林をくぐり抜けなければならないのだ。
十中八九、育枝は道に迷うのではないかと賢司は思った。灯台代わりの明かりは必須だ。
「辰也! 待てよ、待て! 明かりがないと育枝が戻って来られないだろ!」
辰也は廊下からリビングに戻るところだった。
ジッポの明かりもゆっくりとリビングに入る。
「あ、あっ! くそっ!」
賢司は悪態をついてから、思いきって息を吸いこんで、そして振り向いて大声で叫んだ。
「育枝ーっ! 育枝ーっ! 聞こえるかーっ!?」
声は、ほとんど音のない空間に消えていった。
スポンジに水を染みこませるように、急速に暗闇に染みこみ、暗闇に呑まれた。
ざわざわと、あざ笑うように林が揺れた。
「育枝ーっ! いるなら返事しろ! 育枝!」
賢司はもう一度呼びかけてみたが、やはり声は闇に吸いこまれて消えていき、また林がざわざわと揺れただけだった。
耳を澄ませた。
人の声はかすかでも気き逃すまいとした。
しかし、海の音が聞こえることを思い出しただけで、育枝のいることを証明するような音はない。
ひょっとしたら、聞こえるところにいないだけかもしれないし、聞こえても、大声で返事するのが恥ずかしいという理由で返事をしないというのも、育枝なら有り得るかもしれない。
しかし、事実は、返事がないということだけだ。
賢司は、念のために振り返って眼を凝らし、育枝が戻ってきていないことを確かめてから、闇が許す限りの早足で辰也を追った。
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