25 辰也の話
誰も笑わなかった。
ライターの炎に照らされた、一種独特の空間が存在していた。
化け物だなんて有り得ないことが有り得てもおかしくないような、怪談話にはもってこいの雰囲気だ。
賢司は、かすかに寒気を感じたような気がして、思わず四方を見回した。
もちろん、仲間達の他には誰もいない。誰もいないが、視界の続かない暗闇は、一度疑い始めてしまうと、どうしてもその奥になにかがいたように思えて、それが頭から剥がれない。
「橋本ぉ。怪談なんてやめさせてよ。こんな暗いところでそんな話聞かされたら、私、眠れなくなる」
「やめるわけにはいかないんだ」
辰也の声が震えている。
感情を感じさせない、抑揚のない声だ。その喋り方が、気味の悪い雰囲気を一層盛り上げていく。
辰也にこういうことをやらせると天才的だと賢司は思った。賢司もだいぶ寒気を感じてきた。
「だってこれは、本当の話だから」
ごくりと誰かが唾を呑んだ音が聞こえた。
実際は耳には聞こえなかったのかもしれないが、賢司は、確かに聞こえたように思った。
「この旅行に出る前に、ワッカ島のことを調べたんだ。事前調査は何事にも必要だと思ったから。そうしたら、ワッカ島と流星に面白い伝説があったんだよ」
辰也の口調はあくまで淡々としていて、それが、いかにも真実を語っているかのように聞こえさせる。
「ワッカ島には、海神っていう妖怪が棲んでるんだって」
「妖怪? 妖怪の怪人って、狼男みたいなのか?」
「違うよ、海の神って書く海神。記録に残ってる目撃談だと、見た目はね、半魚人みたいらしいよ。それでね、いつもは海の奥で眠っているんだけど、十一年に一度、井出流星群がワッカ島の真上を通過するのを見に、ワッカ島の近くにある小さな島に出てくるんだ。それで、その島は海神島って呼ばれてるんだって」
辰也がそれからしばらく黙ったので、部屋は静かだった。お互いの呼吸の音だって聞こえそうだ。
静かで暗くて、ジッポの炎もぼんやりと揺れた。
部屋の空気が重い。
重くて、部屋がどんどん小さくなっていくようにさえ感じる。
とてつもない圧迫感が迫ってくる。
その沈黙に耐えきれなくなったか、紀雄が苛々した声を上げた。
「は! それで、この島がその島だってのか。それがどうした? 佐々木よお、もちっと怖い怪談考えろよ。全然怖くねえぞ? んな生き物がいるわけねえだろ?」
辰也は紀雄を無視した。
口調を変えることもなく、そのまま話を続ける。
「ワッカ島の人達は、海神島を恐れ、おいそれとは近づかないようにしていたんだけど、あるとき、島の人達の中にも、海神は伝説だと言い始める人が現れた。そんな一部の人達が、海神島の土地を買い上げて、そこに別荘を建てた。本土から観光客を呼ぼうと思ったんだろうね。そして実際、それから海神島にときどき観光客が泊りに来るようになった」
妙子が、細い、悲鳴じみた声を漏らした。
「もうやめようよ。だって、その話の終わりかたってきっと…」
「いいから、喋らせてやろうぜ。タエちゃんは、俺が守ってやるから、怖がんなくていいんだ」
紀雄は挑戦的に辰也を見ている。
妙子が、暗がりの中で手を伸ばして、紀雄の手を握ったのが賢司に見えた。
そういえば、由里はどうしているだろう、と賢司は気になった。
彼女は、こういう話にも平然としているのだろうか。
賢司が見ると、彼女は真剣な顔をしている。
ややむっとしているようにも見えるが、それは明かりが揺れるためだろうか。
少なくとも怖がっているという様子はない。やれやれ。相変わらずだ。
「あるとき、別荘に東京の一家がやってきた。井出流星群を見るためだった。夫婦、お婆ちゃん、長男、次男、長女の六人だったんだよ。そして流星群がやってきて、空を通り過ぎていった。でも彼らは、流星群が行き去ってもワッカ島に戻ってこない。おかしいと思った島の人間達が行ってみると…」
「いやっ」
妙子が悲鳴を上げた。紀雄がその手を握ってそれ以上の悲鳴を止める。
「…どうなったんだ?」
賢司は促した。
「みんな消えた。誰一人いなくなっていた。島から出る小舟が使われた形跡もない。別荘の外に残されていたのは、子ども達の着ていた服の切れ端と、地面に残された激しい足跡―乱闘したみたいな。しかもそのなかには、水掻きのある足跡もあった。そしてついに、林の中で、一家の遺体が見つかった。それで、これは海神の祟りだ、平穏を乱された海神が怒って六人を連れ去ったんだ、ということになったんだって」
またしても沈黙。
その沈黙はやはりまた紀雄が破った。
「…それで終わりか? まあまあだけどよ…」
「続きがあるんだ」
辰也の、今までより少しボリュームの大きい声に、紀雄の声が消された。
「その事件のすぐ後で、ワッカ島の巫女が、海神に伺いを立てて許しを求めたんだ。そうしたら海神は、自分の怒りを鎮めるためには、これから十一年ごとに、つまり井出流星群の年のたびに、海神島に六人の生贄を…」
「やめて!」
育枝が叫んだ。
「やめて! もうやめなよ、そんな話! 信じらんない、なに考えてそんな話出来るの? どういう神経してんの? 怖がらせてどうすんのよ? 見てよ、妙子こんなに怖がってんじゃん!」
育枝が指した妙子は確かに怯えた様子している。
だが賢司の眼には、育枝のほうがむしろ怯えているように見えた。
その怯えを表に出したくないというプライドの現れが、育枝の言動を大げさにするのだろうか。
「な、なんだよ…。なにムキになってるのさ、宮崎さん。ただの冗談じゃないか。退屈しのぎの怪談話であって…」
育枝は立ち上がった。そして辰也に掴みかからんばかりの勢いでさらに叫ぶ。
「バッカじゃないのっ? なんで退屈しのぎに怪談する必要が、あ、あるわけ? あんたアホ? みんな怖がるだけじゃない! 佐々木のバカ、変態、バカったらバカ!」
育枝の叫びはヒステリックで、賢司には悲鳴に聞こえた。
そう感じたのは賢司だけではないようだった。
「そ、そっか、豊田さんのことばっかり言ってるけど、わかった、怖いんでしょ宮崎さんも? 宮崎さんが怖いから話すのやめてほしいんだよね?」
辰也の口調は妙に挑戦的だ。
おそらく、いつもは育枝にへこまされることが多いだけに、数少ないチャンスだとでも思ったのだろう。
賢司は、不安の塊が頭の中でぐんぐんと膨れ上がっていくのを感じた。
ろくな食事もしていない、これからのこともわからない、辺りは真っ暗闇、そんな状態にあって、ただでさえ緊張している状態で、いたずらに興奮が高まるのは絶対によくない。
賢司の頭で膨らむ不安の塊は、次第に視覚的なイメージをともなってきて、ああ、そうだ、よくテレビのコントで使ってる奴、白い風船がぐんぐん、ぐんぐん、人より大きく膨らんでいって、そこに誰かが針を刺して―。
「わ、私は怖くなんかないっ!」
育枝が叫んだ。
辰也が床のジッポ入りコップを持って不意に立ち上がり、育枝に笑いかけた。
「じゃあ、証明してよ」
「するわよ! すればいいんでしょ!」
育枝はかっかとしている。
「どうすればいいのよ?」
「ようし、こっちおいでよ!」
辰也が、育枝の手を掴んだ。そして引っ張って部屋の外に連れていこうとする。明かりも一緒だ。
「ちょっ…待てよ、明かり持ってくな!」
紀雄が呼んだが遅かった。
辰也は廊下に出て、それにつれてリビングから光が失われた。
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