12-1 記憶

「よくわかんないんですよねえ」


 スバルさんは鍋に切った豆腐を投入しながらそう言った。


「なにがよくわかんないんだい?」


「学校の図書室に『囲碁入門』って本があって、開いてみたんですけど、石が要するに杭で、杭で囲ったぶんが自分の土地になる、ってことしかわかんなかったんです」


「あー……僕もそれくらいしか知らないや。将棋なら相手の王様を捕まえればいいってわかるんだけどなあ。囲碁は高尚すぎてどうにも」


「なんていうか、囲碁ってそれこそ蓉子さん……よっちゃんみたいなやんごとない人がやってる印象ありますよね。将棋はもっとこう、普通の家の縁側とか大工さんの三時休みみたいな、庶民派な感じ。なんでかしら」


「やっぱりよっちゃんはちょっと畏れ多くないかい」


「本人がいいっていってるからいいんじゃないですか? それより清さん手が停まってます」


 いけないいけない。味噌汁に大根を刻んで入れる。


 夕飯が出来上がったのだが博士と蓉子さんの勝負は白熱しているらしく、二人とも恐ろしく真剣な顔で碁石を置いている。よくわからないが、ここまでの真剣勝負を楽しいと思える感性がよく分からない。真剣勝負が楽しいというのは、二十三世紀にはなかったことだ。


 二十三世紀の娯楽は、真面目に取り組むという要素がまったくなかった。いっとき楽しいと思えればそれでいい。楽しむのに鍛錬は必要ない。勝ち負けもない。そういうものだった。


 肉豆腐をもぐもぐ食べながら、蓉子さんと博士を見る。博士が劣勢らしく苦しい顔だ。蓉子さんはなにかすごい手でもあるのか、ニカニカしながら打っている。


 肉豆腐とご飯と味噌汁を食べ終えるころ、緊迫の一戦が終了したようだった。蓉子さんの勝ちらしい。博士はものすごく悔しい顔をしている。


「蓉子さん……よっちゃんさん。ずいぶん強くなられましたね」


「女の子が囲碁なんか強くなってもなんにも得することなんてありませんのにね」


 蓉子さんはそう言い、小さく笑った。


「次の土曜日、午後からまた打てます?」


「ええ、次の土曜は特に長い会議もないですし、なるべく早く帰りますよ。いやあ、こんな歯ごたえのある相手はひさしぶりだ。いおより強いかもしれない」


「いおさんって、スバルさん……スウちゃんのお母様」


 博士は、ちいさく頷いた。


 その少しあと、蓉子さんのおもりをしているらしい「じいや」が自動車でやってきて、蓉子さんはニコニコして帰っていった。


 博士は悔しそうな顔で肉豆腐を食べた後、仕事も放りだして棋書をめくっている。よほど悔しかったらしい。まあ、大学教授が女学生に囲碁で負けたら悔しかろう。


「お父さん。お風呂に入ってください。いい加減汗臭いです」


「お、そ、そうかね? 分かった風呂に入ってくる。ちゃんと宿題をやりなさい。清君に見てもらえばいい」


 博士は小走りで内湯に向かった。スバルさんはしかめっ面で宿題を取り出し、かりぽり解き始めた。数学の宿題や理科の計算が必要な宿題も、ちょっと難しい顔ながらさらさら解いていく。スバルさんは間違いなく、賢い。


「どっかわかんないとこある?」


「えーと。……とりあえず、習ったことは覚えてるんですけど、合ってるか自信はないです」


 ノートを覗き込む。なんの問題もなく解けている。


「できてるじゃないか。勉強すっかり得意になったね」


「えへへ。勉強しなきゃ、って最近よく思うんです」


 すばらしい進歩である。スバルさんは古文の宿題を終えた後、博士が風呂から上がってきたので二番目に風呂に入った。


 博士はまた棋書とにらめっこを始めた。僕は天井を見て考える。この時代にこられたことは、幸いだったと。僕は生きていく場所を見つけたのだ、と。


 スバルさんが浴衣の上から綿入れ半纏を羽織って風呂から上がってきた。僕も風呂に入ろう。浴衣を取りに部屋に向かうと、天袋から微かに「ぽーん」と音がした。


 天袋を開ける。時空通話機を取り出すと、「未来よりの着信一件」と表示されていた。開いてみると、


「世界線の未来探知完了。関東大震災を消滅させても『破滅の二十三世紀』が訪れることを確認。実験は失敗」


 ……。


 二十三世紀、やっぱり滅びてしまうのか。


「清さん? お風呂ぬるくなっちゃいますよ?」


「ああごめん。今行くよ」


 浴衣と下着をかかえ、僕は内湯に向かった。狭いタイル張りの浴室で、たらいに浴槽からお湯を組んでざばーっと流す。気持ちいい。お湯に浸かり、しばらくぼーっとする。


 二十三世紀が仮に滅びるとしても、いまこうして二十世紀を生きているということは、たとえ長生きしてもせいぜい二十一世紀で、二十三世紀をこの目でみることはないだろう。


 二十三世紀に愛着がないわけじゃない。だけれど僕は、数字とアルファベットの、もとの名前を忘れてしまった。僕は古川清だ。津軽から星野家にやってきた書生だ。


 正直なところ、津軽がどんなところかはよく分からない。


 寒くてリンゴがたくさん採れるところ、くらいのことしか知らない。


 だから「津軽からやってきた書生」というのはまぎれもなく嘘っぱちだし、津軽でリンゴ豪農をしている家族なんてものもいない。それでも、僕は二十二年前この世界に生まれたことは確かで、帝大生をやっていることも確かだ。


 僕は、この人生を生きたい。


 そう思っているうちにすっかり浴槽のお湯が冷めてしまった。上がる。ウッ、寒い。


 浴衣に着替え、自分の部屋に戻って布団を敷く。天袋をそっと覗くと、時空通話機がちかちか点滅していた。とってみる。また未来から着信である。


「最終通達事項。実験失敗のため第二十五条を適用する。現在の時代に残るか、二十三世紀に帰るか、選択し返信せよ。期限は現地時間あす午後三時まで」


 第二十五条。実験失敗の場合、その時代から帰るか残るか選べる。


そんなの即答する。当然この時代に残るの一択だ。


 ――だけれど、それでいいのかと思わないでもない。


 僕は二十三世紀の人間だ。この時代の人間よりずっと弱いはずだ。繁殖力も、病気への耐性も、ずっとこの時代の人間より弱い。スバルさんより先に死んでしまうかもしれない。そもそも、僕は二十二歳でスバルさんは十七歳。五つも歳が違う。


 スバルさんは、自分より長生きする人が好きだと言った。


 それが僕にできるだろうか。僕は未来に帰って、彼女の記憶から完全に消えてしまうべきではなかろうか。


 それは、……いやだ。


 僕はずっとスバルさんの記憶にいたい。ずっとスバルさんと生きていきたい。スバルさんの笑顔をもっと見たい。しばらくそんなふうに考えてから、時空通話機をぽちぽち操作した。


「一九二二年に残ります」


 これでいいのだ。心臓がどきどきする。感情ってこういうことか。喜びや怒りだけでなく、これでよかったのだろうかと悩むことも感情なのか。


 躊躇してから、そのメッセージを送信する。遠い遠い未来へ。


 部屋の障子をあけ、縁側から外を見る。ひさしの向こうに見える空は、街が明るくないから、星がびっしりと輝いている。ちょっと寒い。


 こうやって星の綺麗な時代に、新しく生を受けたことが、不安だけれど嬉しい。しばらく星空を眺めてから、僕は寝ることにした。


 さて朝。いつも通りに朝ごはんを作って食べ、スバルさんは自転車で女学校に向かった。博士は難しい顔をしつつも、いつまでも囲碁のことを考えているわけにもいかないので、この間大量に届いた英文の論文を列車の中で読んでいる。


 博士は上の空気味に、


「清君は囲碁に興味はないかね」


 と尋ねてきた。僕はそういう競技はあまり得意でない、と答えた。


「初歩の初歩から教えるよ」


「そう言われましても、僕が囲碁を覚えて先生と同等に戦えるのはずっと先ですよ? 僕を練習相手にするよりなら、それこそ碁会所にでも行けばいいじゃないですか」


「……ウム。それもその通りだ」


 博士は首をこきりと鳴らし、そろそろ駅に着くので論文をカバンにしまった。大学の最寄り駅で降りて、博士は、


「きょうは碁会所に行ってくるから、スバルと先に夕飯を食べていなさい」


 と言い残して大学の建物に消えた。僕も大学の建物に入る。


 きょうも実に退屈に講義を聞いた。真面目にやらねば博士に叱られてしまうので、極力真面目に授業をうけた。退屈だった。


 帰りの列車はそれなりに混んでいて、中学生らしい少年たちが網棚の上によじ登って遊んでいるのを(自由だなあ)と思いながら眺めた。僕にもこういう時代があった設定なのだろうな。


 そんなことを考えながら、星野家の最寄り駅で降りた。空はすっかり秋の夕暮れ。カラスはもう群れを成しており、空を覆いつくすように飛んでいく。


「ただいま帰りました」


「あ、清さんお帰りなさい。晩御飯、なに食べたいですか?」


「うーんと。ああ、先生が今日は碁会所に行ってから帰るって言ってたから、僕はなにか簡単なものでいいよ」


「よほどよっちゃんに負けたの悔しかったんですね。大人げないなあ」


「学校どうだった?」


「いつも通りです。そのうちよっちゃんと一緒にのんちゃんのところに遊びに行こうか、って話をしてました。でもきっとお家の事情もあるでしょうし、まずは手紙を書いて先方の様子をうかがうことにしました」


 スバルさんは可愛いレターセットを広げて、なにやら手紙を書いている。


「女高師の話はどうなったんだい?」


「ファッ? ああ、推薦枠は学年で二人だそうです。でも前も言った気もしますがうちの女学校『立派な八百屋さんの娘』が入れるような女学校で、嫁入り前の時間稼ぎみたいなものなので、そんな志の高い生徒はほぼいないです」


「それじゃあ推薦してもらって行けるんじゃないの? 勉強なら僕が見るよ?」


「……最近、無理じゃないかもって思うようになったんですよね」


「無理じゃない、とは」


 スバルさんの言い回しをきちんと理解したくて、そう尋ね返した。


「だから、もうちょっと勉強を頑張れば、女高師行ける気がするんですよね。行った後どうするかは考えてないですけど」


「小学校の先生にでもなったらどうだい?」


「うへえ。よしてください。先生なんて柄じゃないですよ」


 スバルさんはそう言うと買い物かごをもって立ち上がった。


「じゃあ、焼き飯でも作りますか。おネギとか買ってきます」


「気を付けて」


 スバルさんは素足にゲタをひっかけてからんころんと家を出ていった。


 ――家の中に一人。僕はぼーっと、そういえば動物園、あれだけ行こう行こうって言ったのに行っていないな、と思い出す。スバルさんと動物園に行ったら楽しいだろうなあ。


 あっという間にスバルさんは帰ってきた。ネギとひき肉を買ってきたようだ。ネギを刻み、ひき肉とご飯と一緒にざっくりと炒めて焼き飯の出来上がり。余ったひき肉は冷蔵庫にいれた。


 二人で焼き飯を食べる。僕はスバルさんの頬にご飯粒がついているのに気づいた。


「スバルさん、頬っぺたにご飯粒ついてる」


「ついてるんじゃないです。つけてるんです」


 憎まれ口をたたきながらご飯粒をつまんで口に放り込むスバルさんを見て、やっぱりこの時代に残ってよかった、と僕は思った。


「……あのさ。時空通話機ってあったろ?」


「ああ、強化ぷらすてっくと強化すらみっくの」


「強化プラスチックと強化セラミックね。あれでさ、未来と連絡がとれたんだけど、地震をなくしただけじゃ、二十三世紀が滅びるのは変わらないんだって」


「え」


 スバルさんは焼き飯をもっもっと食べつつ、ちょっと不思議そうな顔をした。


「じゃあ清さんがこの時代に来た意味、ないじゃないですか」


「そうだね。でも、だから、僕はここに残ることにした。いちおう最後通牒はずっと前に受け取ってたんだけど、実験失敗の場合だけは元の時代に戻れることになってる。だけどね、断ることにした。いや、断った」


「な、なんでですか?」


「なんていうかね――僕は、スバルさんの記憶から、消えたくないと思ったんだ」


「記憶、ですか。消えるって、清さんが元の時代に戻ったら、そもそも存在してなかったことにされる、ってやつですよね」


「そう。僕はスバルさんの記憶に残りたい。僕だけ一方的に、スバルさんのことを覚えて未来に帰るなんて、悲しすぎてできない。もちろんいろいろ考えはしたけど」


 僕の言葉を、スバルさんは静かに聞いてくれた。

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