11-1 キャラメル、石焼き芋、ライスカレー
さて。
サンマを焼いた次の日、大学が終わって帰ってくるなりスバルさんに腕を出すよう言われた。
「ちゃんと消毒しないとばい菌入ってひどいことになるんですから」
そう言ってスバルさんは例のやたらとしみて痛い傷薬を用意している。いやだなあ。それでも、仕方がないので着物を片肌脱ぎ、シャツのボタンをはずして腕を出す。
傷は、まるで粘菌が木に根を張ったような、気味の悪いつながり方をしていた。スバルさんは顔をしかめて、
「なんですこれ。どうしてこんな変なことになってるんですか」
と、そう言って消毒液をぽふぽふつけた。もうしみない。
「畑中が一錠治癒力向上剤をくれたんだけど、外傷だとこういう治り方するのか。やっぱりろくでもない薬だな」
「……まるでやけどの痕みたい。きれいにつながるかしら……」
「たぶん大丈夫だと思うよ。きっとかさぶたになってぽろっととれるさ」
「それならいいんですけど……」
シャツを着なおして着物を改めて着る。
スバルさんはたもとから江波の栄養菓子を取り出して食べ始めた。のんきなことである。そう思っていると、スバルさんは一個、そのグリコーゲン入りのキャラメルをくれた。
口に放り込んでもぐもぐする。うむうまい。
「久しぶりにこんなの食べてるんだね」
「久しぶりでもないですよ? 最近家でだとあんまり食べてなかっただけです。学校でひと箱空けちゃうんですよね、のんちゃんがお嫁に行ったらおしゃべりの相手もいなくて」
「ひと箱空けるってそんな、煙草じゃないんだから。蓉子さんは?」
「最近夢中になって本を読んでいるので近寄りがたいんです。この間まで日本語の小説読んでたんですけど、ここのところ英文の小説読んでて、いっつも難しい顔してるから」
「……そっかあ。蓉子さんは文学少女なんだね」
「そうなんですよ。新しく友達をつくるにしても次の春には卒業ですしね」
そうか、あと半年ほどで、スバルさんは女学生でなくなるのか。
「卒業したらどうするの?」
僕がそう尋ねると、スバルさんは焦げた目玉焼きのばりばりしたところが舌にひっかかったみたいな顔をして、しばらく考え込んだ。
きっと、女学校を出たら、結婚するか、職業婦人になるか、それくらいのことしか考えていなかったのだろう。僕は博士に、スバルさんを女高師に入れたいと聞かされているが、おそらくスバルさんはそんなことを考えていないだろう。
「もうちょっと、女学生でいたいなあ。落第しちゃおうかな」
「落第するくらいなら女高師にいくのはどうだい。いまから勉強頑張れば間に合うんじゃないかな。のぶゑさんが退学して推薦の枠も空いたろうし」
「あ、そっかあ。のんちゃんが退学したから、あたしが女高師に行きたいっていえば推薦の枠あるのか。でもなぁそこまで勉強好きじゃないし」
「そう? 前は『勉強する意味が分からない』って言ってた数学の宿題、いまはすらすら解くじゃないか」
「それは、清さんに『ものの考え方を勉強する』って言われたからで。……正味のところ、まだよくわからなくて公式を覚えるくらいのことしかできなくて」
「それでもすらすら解いてるんだから進歩だよ。人間はサルだったころ、石ころを割れば刃物になることを覚えたんだ。そうやって人は前に進むんだよ」
「サル。そういえば動物園に行きたいって話どうなったんでしょうね。きょうお父さんが帰ってきたらまた聞いてみようかしら。あ。氷屋さん」
勝手口から氷屋さんの声がした。氷冷蔵庫の氷を補充しにきたのだ。スバルさんはお金を払い、氷冷蔵庫に氷を入れてもらった。
氷冷蔵庫。氷より冷たくすることはできない。だからアイスクリームを入れておいたり、氷をつくることはできない。こんな不完全な技術でも人は生きていける。
それなら、対策が未熟な、昭和の御代の戦争だって、きっと生きていけるに違いない。
スバルさんが戻ってきた。
「なんか口さみしい。キャラメルキャラメル……ありゃ。もう残ってない」
スバルさんはキャラメルの紙箱を屑かごに捨てた。台所に降りて、冷蔵庫のなかをひとしきり眺め、ため息をついて戻ってきた。
「なんにもおやつになりそうなものはなかったのかい」
「そうですね。芋すら入ってなかったです――ん?」
外から、焼き芋屋さんの声が聞こえて、スバルさんは目をきらきらさせて財布を握りしめ、家を飛び出した。焼き芋。女の子が大好きな奴だ。
数分後スバルさんはほくほくの焼き芋を抱えて入ってきた。香ばしい匂いがする。僕にも、新聞紙でくるまれた石焼き芋を手渡して、
「食べましょう。正真正銘の石焼き芋です、絶対おいしいです」
と言って、自分のぶんの芋に躊躇なく噛みついた。僕も食べてみる。とろとろに甘い。
二人で石焼き芋をしばしもぐもぐ食べる。スバルさんはニコニコしている。僕も芋をかじる、喉にひっかかって噎せる。
スバルさんはむせている僕の背中をばんばんたたいた。ひとしきりゲホゲホして、どうにか喉につかえた芋がとれた。
そしてそのとき、スバルさんの顔は僕の顔の真横だった。
ちらと目を動かすと、スバルさんの大きな目と目が合った。
びっくりして黙ってしまう。スバルさんも同じ顔だ。スバルさんは照れ隠しみたいに焼き芋を咀嚼して、それから、
「ごめんなさい」
とつぶやいた。謝ることなんてなにもないのに。僕がそう言うとスバルさんは妙にしょんぼりした顔になった。どうしたんだろう。
「どうしたの。なんで謝るんだい?」
「だって。清さんビックリしましたよね」
「そんなの謝ることじゃないよ。うん、石焼き芋おいしい。ありがとう」
「これはただおやつが欲しかっただけで、その……あの、」
「?」
僕がスバルさんのほうを見ると、スバルさんはすっと視線を外した。なにか悩んでいる。それを察せるようになっただけでも僕は進歩したのだ。無感情な二十三世紀の人間でなく、大正時代の人間になれたのだ――スバルさんは、さんざん迷った様子で、でもなにかを決意した。
「あのっ」
スバルさんはでっかい声でそう言った。顔が真っ赤だ。
「こんなこと、女のほうから言うなんてはしたないにも程があるのはわかってます」
スバルさんは、ちょっと震えがちな口調で、言葉をつづけた。
「なんていうか。清さんが、一緒に料理作ってくれたり、家の中のことをしてくれたりして、すごく嬉しいです。お手伝いさんがいたときよりずっと楽しいです」
感謝されている。なんでいまさら。かれこれ半年経つのに。そう思っていると、スバルさんは赤い顔をさらに赤くして、
「清さんと一緒に家事をしているとすごく楽しくて、うちに来たのが清さんでよかった、ってしみじみ思います。それで、その……あの。こんなこと、はしたないですけど、その……」
何を言われるのかさっぱり分からない。スバルさんは半分涙目である。
「あたし、清さんが、好きです」
「好き……?」
好き。この言葉の意味はわかる。一緒に家事労働をしてくれるから好き。そういうことか。しかしそれならここまで赤面する必要はないはずだ。考えられる可能性としては、男女の間のこととして、僕が好き、と言ったのではないだろうか。
そう思った瞬間僕まで赤面した。顔がかあーっと真っ赤になる。
そして、僕も思ったことを伝えようと口を開く。
「僕も、スバルさんが」
「ただいま。きょうの夕飯はなにかね?」
博士がえらくタイミングよく帰ってきた。腰砕けになって、小さくため息をつく。
「お父さん、ずいぶん早かったですね」
「どうしたのかねスバル。顔が真っ赤だよ。清君まで。まさかお酒でも飲んでたんじゃないだろうね」
「ちちちち違いますよ。あ、ああ、お夕飯。ちょっと買い物に行ってきます」
スバルさんは買い物かごを抱えて家を飛び出した。まるで逃げるみたいに。
「……ふむ」
博士は無言で仏壇に近寄り、ろうそくをともして線香を焚き、手を合わせた。しばらく手をあわせて、僕に向き直った。
「婿に来ないか」
「え? ど、どういうことですか」
「そのままだよ。婿に来ないか。スバルの婿に。スバルはなんとかして女高師に入れたい。スバルが女高師を出るころには君も大学を終わっておそらく研究の職についているだろう。どうかね。清君はリンゴ豪農の長男だそうだから、ご実家の都合を聞いてからになるだろうが」
「……それができれば、うれしい、ですけど……」
「スバルが上の学校にいくなら、スバルも『いい奥さんいいお母さん』になりたいというのに余裕ができて、その間にいくらか健康になることもできるだろう。仮に清君が研究の職について経済力が薄くても、スバルが学校の先生になれればそれで補うことだってできる」
博士のプランを聞かされて、僕は少し、考えた。博士がそう言ってくださるなら、津軽の実家なんて捏造したものだからいかようにもできるわけだし、スバルさんと一緒になるなんて、考えただけでもうれしい。だけれど、スバルさんはそれを望むだろうか。そう考えていると、
「スバルと清君が真っ赤になっていたのは、自由恋愛的なそれだろう?」
と、ずばりと突いてきた。仕方なく頷く。博士ははっはっはと笑った。
「でもいいんですか、女高師に入れるって確定事項みたいな言い方をして。スバルさんがそれを望むとは限りませんし、入れるとも限りませんし」
博士はふむ、と一言いうと、煙草をもくもく吸い始めた。クリスタルの灰皿をひきよせて、そのへこみに煙草を一旦おいて、
「あの子の人生を心配してくれるのだね。スバルだって分かっていると思うよ。だからここのところ熱心に勉強しているわけだしね。あの子に新しい夢があれば、それだけで生きる力になる。親のかけた呪いだとしても、スバルが元気に生きていく方法たり得るだろう」
博士はそう言い、灰を軽く落として、また煙草をすうーっと吸った。
「なんというかね、いまこれから、女学校の卒業に合わせて見合い話を探してくることだってできるんだが、それではあの子も不本意なのではと思ったりしてね」
「なんでです? あれだけお嫁さんになりたい子なのに」
「何度も言うようだが、あの子は母親が病気で死んでいく様子を見ている。そして自分もそうなるのではないかと心配している節がある。だから、もうちょっと余裕をあげたいんだ。健康体になる余裕だ。そもそも十七とか十八とかで親の決めた相手と結婚するなんて前時代的だ。そんなのは封建制度と一緒に滅びてしまうべきだったんだ」
博士はそう言って、頭をぽりぽりしたあと、しばらく考えた。そして意外なことを言いだした。言ってしまえば、さっきとは矛盾したことだ。
「――もし仮に、スバルが女高師に進んで、だれか素敵な人から文をもらって、その人に心を奪われるならその人と結婚してもいい。清君だって、これから大学生をやっているうちにスバルでなくカフェーの女給さんとかに惚れたとしたら、その人と付き合ったってかまわないんだよ。無理には圧しつけないけれど、いまは君とスバルが想いあっているように見えたから」
博士はそう言った後、煙草をしばらくもくもくと吸い、僕にも勧めてきた。僕は断り、博士は残念そうな顔になった。
「ただいま戻りましたー。きょうはお肉が安かったので、ライスカレーです」
「ライスカレー? そんなものがそんなに気軽に作れるのかね」
「簡単ですヨ。カレー粉を小麦粉と炒めて、それを鍋で煮るのに野菜とお肉を放り込むだけです。割烹の授業で習いました。清さん、野菜切るの手伝ってください」
「うん。今行く」
そう言ってゲタを履いて台所におりる。スバルさんは優しい笑顔で、ジャガイモの皮をむいている。僕も手伝う。あっという間に裸になったジャガイモを、適度な大きさに切り、玉ねぎを刻み、ニンジンも切る。それらを炒めてから、スバルさんはフライパンに小麦粉とカレー粉を入れて炒めて、それを野菜と肉が煮える鍋にちょっとずつ溶かしていく。
いい匂いがする。スバルさんのライスカレーは、きっとおいしいのだろうなあ。
「カレーってもともとインドの料理なんですよね、たしか」
「そうだね、インドで使われていたスパイスが英国に持ち込まれて、スープに混ぜたのがいわゆるカレーの始まりらしいね」
「インドかあ。お釈迦様のとれたところ……インドのひとってみんなあんな感じの頭なんでしょうかね。仏像の頭ってイボイボですけど」
「あれって要するに巻き毛ってことらしいよ」
他愛もない話をしながら、カレーを煮た。朝に炊いたご飯を蒸かして、皿に盛り付けカレーをかける。ちゃぶ台にならべ、みんなでそれを食べる。
おいしい。
スバルさんの顔をちらりと見る。にこにこしている。僕も心がふわふわと嬉しい。博士も、おいしそうにライスカレーを食べている。
この幸せがずっと続くように、僕は歴史を変えねばならないのだと思い出した。
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