10-2 君たちの味方になりたい
「襟を抜いたら怒られるし半襟派手にしたら怒られるし、袴もかっこわるいし、ぜったいセーラー服の制服のほうがおしゃれですよ。いいなあ。あ、近所の女学校がセーラー服ってことは、のんちゃんの赤ちゃんがもし女の子で、女学校に入ったらセーラー服着るってことかあ」
「それって何年先の話。そのころもうわたしたちおばさんよ。セーラー服可愛いっていうより、洋装は仕立て賃が高いって嘆くだけだわ。だいたいこの子が女の子とは限らないし、お舅さんたちは男の子がいいってずっと言ってる」
のぶゑさんはそういって笑った。スバルさんも笑った。
「でも男の子だったら泥だらけのきったない野球のユニホームとか運動靴とか靴下とか洗わなきゃないんだヨ。究極の選択。どっちがいい?」
「うーんと。男の子でももし上の学校にいけば学生服つくるわけだし……やっぱり女の子がいいなあ。うちの旦那様は無事に生まれてくれたらどっちでもいい、って言ってくれるの」
「優しい人ね」
「うん。すごく優しい人」
そういうのぶゑさんの顔は、すっかり主婦の顔だった。家庭のひとの顔だった。女学生のスバルさんとはどこか違う。
「ねえのんちゃん……お嫁に行くって、楽しいの?」
「どうなのかしら……花嫁衣裳だって自分で着ちゃったらわからないし、結婚したら家の仕事がいっぱいあるし、そんな、女学校で習うほどいいものじゃないわね」
「そっかー。じゃあデパートのエレベーターガールでも目指そうかしら」
「だめだよスウちゃん。あれ立ちっぱなしなんだよ。スウちゃんぜったい貧血で倒れる」
「そうだった。うーむ、職業婦人……」
そうやって話していると、勝手口から見える道を、中年の、紬の着物を着た女性が歩いてきた。もののよさそうな帯をお太鼓にして、その上から前掛けをつけている。
「のぶゑ!」
どうやらのぶゑさんのお母さんらしい。
「あ……見つかっちゃった」
「見つかっちゃったじゃありません。中島さんのお家から電話がかかってきて、突然いなくなったから探してほしいって言われて……やっぱり星野さんのお家にいたのね」
「……ごめんなさい」
「星野さんごめんなさいね、いきなりお邪魔して。のぶゑ、早く帰る支度をしなさい」
「あのっ」
スバルさんが口を開いた。
「これ。持っていってほしいんです」
スバルさんは梅シロップの瓶をでんと置いた。
それを見て、のぶゑさんのお母さんはしばらく考えた後、
「――のぶゑ。もしかして酸っぱいものが欲しい体で家出してきたの?」
と、厳しい口調で言った。のぶゑさんは小さく頷いた。
のぶゑさんのお母さんは、意外にも穏やかな声で、おめでとう、と言ってのぶゑさんの頭を撫でた。それから諭すように、
「めでたいことを台無しにしないように、無理して横浜からここまで一人でくるなんてやめなさいね。お腹の赤ちゃんがびっくりするわ。もしあなたと赤ちゃんになにかあったら、嫁ぎ先のお家のみんなが悲しむのよ」
と、そう言った。のぶゑさんは頷いた。
「お家でなにか嫌なことでもあったの? お姑さんとはうまくいってる?」
「はい、お姑さんやお舅さんは、すごくよくしてくれますし、旦那様もとてもやさしい方ですし、……でも、小姑……さよさんが、すごく意地悪なんです」
「あの人のよさそうなさよさんが? どうして?」
のぶゑさんは母親に、これこれこういう人なんです、と説明した。のぶゑさんの母親は、困った顔をして、ちゃんと旦那様に相談しなさいね、とそう言った。
「さ、もうじき汽車の時間よ。お母さんがついていってあげます。なにか具合が悪くなったらすぐ言いなさいね。……星野さん、ご迷惑おかけしました。それにこんなすてきなものまで」
「いえそんな。のんちゃんと久しぶりに話せて嬉しかったです」
「お気をつけて」
のぶゑさんは帰っていった。スバルさんの漬けた梅シロップの瓶は、のぶゑさんの母親が大事に持っていった。
「あの梅シロップってどうやって漬けるの?」
「簡単ですヨ。青梅をきれいに洗って、消毒した瓶に入れて、氷砂糖をざらざらーって入れるだけ。小さいころ母とよく一緒に作ったんです。母は梅干しを漬けるのも上手かったんですけど、わたしはそこまではできなくて。だから梅干しはお店から買ってきたものです」
そう言ってスバルさんは台所の棚からもう一瓶梅シロップを取り出した。
「まだあるので、喉が渇いたら飲みましょうか。来年の夏まで持つかな」
「そうだね」
しばらく、台所から屋内に続く小上がりに腰かけて、二人でぼーっとした。ぼーっとしていると、スバルさんは唐突に跳ね上がって、
「そうだお夕飯。サンマ食べたい。タケちゃんとこいかなきゃ」
と、買い物かごをぱっと取って家を出ていった。元気なことだ。
最近、少しスバルさんが元気になった気がする。
あのとき飲ませた治癒力向上剤がまだ効いていて、かるく咳をしていても次の日にはけろりと治っている。飲ませてよかった。そういや最近心持ち肉もついた気がする。
スバルさんはまもなく、買い物かごから大根とサンマ三匹をはみ出させて帰ってきた。すごく立派なサンマだ。これを一人一匹食べるのはきついかもしれない。
「今年のサンマはとても脂が乗ってておいしいってタケちゃん言ってました」
「へえ――うん、見るからに立派だ」
「焼きたてじゃないとおいしくないので、お父さんが帰ってくるのを待ちましょうか。そうだ、大根もおろしにするだけじゃなくなにか料理しよう。うーんと。なにがいいかな」
僕はふと、(いつまで治癒力向上剤のことを黙っているんだろう)ということを思い出した。包帯を取り換えるときに気付くだろうし、……。言わねばなるまい。
「あのさスバルさん」
スバルさんは割烹の授業のノートをぺらぺらめくって、ちょうどいい大根料理を探している。
「んー? なんですか?」
「夏風邪ひいたときに、僕がお粥作ったろ?」
「あー、そういうこともありましたねえ」
「あれね、未来から持ってきた薬を入れたんだ」
「……?」
僕は、あの胃薬の瓶の中身が治癒力向上剤であること、治癒力向上剤はどんな病気もたちどころに直してしまうこと、その最後の一錠をお粥に混ぜたことを説明した。
スバルさんは割烹のノートから顔を上げて、
「なんでそんなことしたんですか」
と、責めるでもなく叱るでもなくそう聞いてきた。
「……スバルさんに、元気になってほしかったんだ」
「あたしに?」
僕は頷いた。スバルさんは困った顔で笑って、それから大根を切って皮をむき始めた。どうやら煮物にするらしい。器用な手つきで、大根の皮をするする向いていく。冷蔵庫から油揚げを取り出して、きざんだそれと一緒に醤油味で煮る。
スバルさんは僕におろし金と器、それから大根のしっぽを渡して、
「大根おろしすってください。くれぐれも指をすらないように」
と言った。僕はしゃかしゃか大根をすりおろした。
スバルさんはいたって機嫌よく、大根の煮つけを味見した。おいしかったらしく、ぴょんぴょんしている。僕もなんだか嬉しくなる。味見させてもらう。おいしい。
「これも割烹の授業で習ったの? 女学校っていろんなこと教えてるんだね」
「これはあたしが勝手に考えた料理ですヨ。こんな貧相な料理、割烹の授業じゃ作りません」
「へえ。別に貧相だとおもわないけどなあ」
「学校で作ったふろふき大根は、だしで煮て肉みそがかかってました。肉みそを作る余裕がないので、たんぱく質ならいいかなーと思って油揚げを入れて、それだけじゃ味がないのでお醤油を投入しただけです」
スバルさんはちょっと自慢気にいうのだけれど、それって貧乏自慢というやつではなかろうか。
そんなことをしていると、玄関のほうから郵便屋さんの声がした。台所をスバルさんに任せて、僕が玄関に出ると、小包が届いているのでハンコをくれ、ということだった。茶だんすをあけて、「星野」というハンコを取り出し、朱肉に圧しつけてからぽすりと捺す。
博士宛だ。えらく重たい。どっこいしょ、と運んで茶の間に置く。
あとはサンマを焼くだけになったスバルさんがきて、その差出人をみるなり、
「うわあお父さんまぁた本いっぱい買った!」
と悲鳴を上げた。差出人を確認すると、どうやら海外から届いたようで、中身はおそらく洋書か論文だ。
「スバルさん、博士は学者なんだからさ、本読まないわけにいかないんだよ」
「学者ったってあんなどーしよーもないこと研究してるんですよ。星の成り立ちなんか調べてなんの得があるんですか。実際に月にいくわけでもなし」
「人類はね、まだちょっと先だけど本当に月に行くんだよ」
スバルさんは、大きな瞳を僕に向けて、小首をかしげた。
「月。それって、あたしがおばあさんになるころの話ですか? それとも、もっともっと先ですか?」
「どうなんだっけな。次の御代だからそんな遠いことでもないな。アメリカが宇宙船をつくって、人類は月に足跡を残すんだ。先生の研究されていることはそういうことにつながる」
「月。うさぎさんがお餅ついてるんですか?」
「まさか。月には空気がないから、生き物はいないよ。それに伝説に従うなら、ウサギがついてるのは餅じゃなくて、不老不死の薬だ」
「え、初めて知りました……そういえばそろそろお月見の季節ですね」
「そうだね。……知ってた? 外国だと、月の模様を「女の人の横顔」って言ったり、「カニ」って言ったりするんだって」
「女の人の横顔、っていうのは令嬢世界に書いてあるのを読み飛ばした記憶があります。でもあたしは日本人なので、月はウサギが餅をついているのだと認識します」
スバルさんは意外としゃきしゃきそう言い、時計をみて、そろそろサンマ焼きましょうか、と言った。勝手口から七輪とさんまとうちわをもって外に出る。
サンマを焼いた。とてもいい匂いがした。
僕もすっかりこの時代に慣れたものだな。空は曇って月は見えない。うちわでぱたぱたしながら、サンマの脂がやけて滴るのを見る。
「おいしそうですね」
「うん、いい匂いだ」
焼けたサンマを皿にとり、茶の間に運んでいると、博士が帰ってきた。重たそうな体をゆさゆささせて、サンマをみて嬉しそうな顔をする。日本人は、サンマが大好きだ。
「きょうはサンマか。うまそうだな」
「タケちゃんが今年のサンマはおいしいっていってましたヨ。あ、お父さん、本ですか? 小包が届いてます。なんなんです、毎度毎度なんの本を」
「海外の研究をきちんと知っておかねばならんと思って、友達のつてで送ってもらったんだ。日本じゃ簡単に手に入らない貴重な本なんだよ」
博士は自分の部屋に小包をもっていこうとして、スバルさんに、「それよりご飯が先です」と叱られている。スバルさんがいつも通り燗をつけて、博士は酒をすすりつつサンマを食べた。
僕もご相伴にあずかることにした。うん、日本酒とサンマの内臓のぴりっと苦いところ、最高においしい。
夕飯のあと博士はさっさと寝てしまった。せっかく内湯があるのにこの人たちめったに風呂に入らないな。博士が寝てしまってから、スバルさんは女学校の宿題を、僕はレポートを書き始めた。
しばし無言、鉛筆のかりかりいう音だけが聞こえる。その静けさから、スバルさんが言葉を発した。
「清さんは、未来を変えられるんですよね。あのお友達の畑中さんに、未来を変える方法、教わったから」
「うん。それがどうかした?」
「のんちゃんの赤ちゃんのために、世界を変えてください。それから、蓉子さんが女流作家になって、みんなに認められる日がくるように、世界を変えてください」
「スバルさんには、なにか望みはないの?」
「あたしなんて平凡な女学生です。望みなんて大それたものはないです。……そうですね、強いて言うなら、女学校を出たら好きな人と自由恋愛で結婚したいです」
「わかった。僕にできることはやる。だから少し待ってて。僕は、君たちの味方になりたい」
僕はそう言い、レポートを片付けた。スバルさんは数学の課題を調子よくすらすらといている。やればできるじゃないの、とちょっと感心する。
「はい! 宿題おーわり! ねるっ」
スバルさんは宿題をカバンに押し込んで、軽い足取りで自分の部屋に向かった。僕も寝よう。明日が来るというのが、とてつもなくうれしいことだから。
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