10-1 梅のシロップ

「このボタンが、画面に表示されている時間の位置を過去にさかのぼるボタン。こっちが未来に進むボタン。で、特異点が見つかるとこっちでぽっぴーんて音がすっから、そしたらこっちのボタンでその特異点をぶっ壊す。この装置で壊せる特異点は、あくまで人間以外の特異点だ。どんなに盛大にぶっ壊してもお前は死なない。わかったか?」


 畑中は早口でそう言い、僕はとりあえず頷いた。


 時空検証基地の、ざっくりとした使い方の説明を聞いた。ならお前がやってくれよと思ったが、特異点破壊はかなり時間のかかる作業らしい。数時間遊びに来たくらいでやるのは無理だ、と言われてしまった。


 地震を停める。そして東京を守る。


 すっかり秋の風が吹くようになった九月末。スバルさんも女学校から帰って来ていて、僕は畑中をスバルさんに会わせてやろうかと思ったのだが、畑中は変に恥ずかしがり屋で、スバルさんに会わずさっさと帰ってしまった。次会ったら女性恐怖症かとからかってやろう。


「なぁんだ。お友達帰っちゃったんですか。せっかくカステラあるのに」


 教授がもらってきたカステラを、スバルさんともさもさ食べる。


僕は気づいた。何か――何かがいる。時空検証基地の周りを、なにかがうろついている。なにかはまるで陽炎のように実体が見えず、――光学迷彩だ。二十三世紀から来て、歴史改変を停めさせようという連中だ。時空検証基地を壊すつもりなのだ!


 僕は勝手口から飛び出した。スバルさんが「ちょ、き、清さん?」とびっくりするくらいの勢いで飛び出し、光学迷彩をまとっているその人物に体当たりを食らわせた。そいつはぐらっとよろめいて、そのはずみで光学迷彩が解除された。二十三世紀の、どこまでも真っ白い人間。


「歴史改変は罪だ」


 その人物はとても小さな声でそう言った。


「だとしても僕はやるぞ」


 その人物は殴ってきた。みぞおちに拳がずしりと入る。げほ、と噎せてから、僕はそいつを蹴り飛ばした。ぐ、とうめいて、そいつは刃物を構えた。真っ白いセラミックの刃が、僕をにらんでいる。


「どうしたっ」


 畑中がダッシュで戻ってきた。この騒ぎを聞きつけるとはえらく耳がいいなあ。そんなことを考えると、刃が閃いて僕に襲い掛かってきた。ざざっ、と着物の裂ける音がして、びっ、と右肩の近くを切り裂いた。一瞬遅れて痛みが襲ってくる。そして、裂けた着物に血がにじむ。


「ここは俺に任せろ!」


 畑中は時空通話機をすっと取り出しそいつに押し寄せた。びりびりと音がして、その人物は感電したように震えた。時空通話機ってスタンガンがついているのか。初めて知った。


 気絶したその人物を抱え上げて、畑中は、


「えらく軽いな――俺らが重いのか。こいつは二十三世紀に送り返そう。それからお前、着物の袖が真っ赤だぞ」


 と言って、時空通話機をぽちぽち操作した。空から箱のようなものが降って来て、畑中はそれにその人物を詰め込んだ。これがタイムマシンなのか。


 箱は消え、畑中は真面目な顔で近寄ってくる。


「だから袖が真っ赤だ。治癒力向上剤飲め、そいで先生のお嬢さんに手当てしてもらえ」


「治癒力向上剤、もう残ってないんだ」


 畑中は大きなため息をついて、僕を引っ張って勝手口から入った。


「すみませーん」


「はーい」


 スバルさんが出てきて、僕を見てびっくりした。


「清さん! 腕! 血まみれです!」


 スバルさんは慌てて救急箱をとりに茶の間に走った。畑中が懐から治癒力向上剤を取り出す。


「とりあえず飲め。腹を下したとか熱を出したとかそういうのみたいには効かないが」


「ありがとう」


 僕は治癒力向上剤を口に入れた。口の中ですうーっと溶ける。


 しかし傷口はじくじくと痛い。スバルさんが消毒液と脱脂綿をもってきて、袖をまくって、


「ひどい怪我」


 とつぶやき、脱脂綿をぽふぽふ当てた。ソフトな肌触りだが恐ろしくしみる。思わず「ひい」と小さく言ってしまった。


「なにが『ひい』ですか清さん。これくらい我慢してください。男の人なのにかっこわるい」


 スバルさんは僕の傷に包帯をぐるぐる巻いた。それから我に返って、


「清さんのお友達の、……ええと、そうだ畑中さん!」


 と言ってお茶を用意し始めた。畑中は突如挙動不審になって、


「いいいいいええ、そ、そんなお構いなく。俺は帰ります」


 と言いだした。スバルさんは問答無用でお茶とカステラを出した。畑中は小さく、


「俺、カステラ好きなんですよー」


 とつぶやき、カステラを大急ぎでもぐもぐ食べた。


「どうぞお茶も召し上がってください」


「い、いえ。俺、お茶ってあんまり好きじゃなくて」


「そうですか? ……うーんと」


「いいえお構いなく。俺本当に帰ります」


 カステラを飲み下して、畑中は小走りに帰っていった。


「清さん、とりあえず着替えてきたらどうですか。着物もシャツも、それだけ血がしみちゃったら捨てるほかないですね」


「そうだね……うん、着替えてくる」


 僕は部屋に戻り、血まみれの着物とシャツを脱いで、別のシャツと着物を着た。袴をぎゅっと締める。


 生まれて初めて怪我をした。くらくらする。治癒力向上剤の効果で傷口がみちみちつながるのを感じる。とてもきもちわるい。


 台所にいくと、スバルさんがちょっと難しい顔をして、梅を漬けたガラス瓶とにらめっこしていた。今年の夏に、氷砂糖に漬けた梅のシロップだ。


「そろそろ飲み頃かなあ……まだ若いかなあ……」


「どうしたの。酸っぱいものが飲みたいのかい?」


「なんですかぁ清さん。女学校の嫌な子みたいなこと言わないでくださいよー」


 そうやってスバルさんをからかっていると、勝手口がからから開いて、誰かが入ってきた。


「おじゃま、しまぁす……」


「の、のんちゃん?」


 荒く息をついているのぶゑさんに、スバルさんは目を真ん丸くした。


「のんちゃん、横浜からここまで来たの? ちょっと頑張りすぎじゃない? そうだお茶。お茶飲む? 冷たいお水がいい?」


「お水でいいわ。汽車で来たから、そんなには疲れてないの。えへへ……小姑にいじめられるのが嫌になって逃げてきちゃった」


「小姑……っていうと、旦那様の妹さん?」


「そう。わたしらの二個上で、女学校に行かせてもらえなかったみたいで、わたしがなにか言うと『さすが女学校に行ってたひとは違うわね』みたいにして言うの。少女雑誌とかも買ったことがないみたいで、レターセット開けると便箋とか封筒とか見て『あら女学生気分』とか、もう……もう……あーもう! なんていうかひがみ根性が爆発しててとにかく嫌いあのひと!」


「そっか、それでずっと茶封筒でお手紙くれてたのね」


「そう! あー腹立つ!」


 そう言いながらのぶゑさんは水をゴキュゴキュ飲んだ。


 髪型はおさげではなくいわゆる洋髪というやつだ。おしゃれにきれいにまとめてある。着ている着物も、女学生のころはきちきちに詰めていた襟をゆっくり抜いてあって、白いうなじが見える。着物自体も、紬からもうちょっと優雅な染のものに変わっている。いかにも、呉服屋の若奥様、といった感じだ。


「なんか三か月で別人みたいね」


「そうかしら。……そうかもしれない」


「そうだのんちゃん、カステラ食べる? うちの父がいっぱい貰ってきたの」


「えっと。……カステラよりそっちがいいわ」


 そう言ってのぶゑさんは梅シロップの瓶を見る。スバルさんは助けを求めるみたいに僕を見て、しょうがないので僕が言った。


「もしかして、酸っぱいものが欲しいのかい?」


「……えへへ」


「ええええーッ! のんちゃん、おめでとう! っていうかそんな体でここまで来たの? 横浜から? 駄目だよそんなの! 赤ちゃんに障るよ!」


「だって家にいると小姑に無理やり働かされるわけだから、家にいるのとあんまり変わらないかなって……掃除はするよ、きれいな赤ちゃんがほしいもの」


 この時代の人というのは、妊婦が掃除を頑張るときれいな赤ん坊が生まれてくると信じているらしい。因果関係がよくわからないのだが。


 とにかく、のぶゑさんは、そう遠くないうちに母親になるのだということが分かった。十七か十八で母親。びっくりするような話だ。


 スバルさんは梅シロップの瓶を開けて、中身をコップ三つに注いで、冷たい水でそれを割った。みんなで飲む。さわやかな酸味と甘み。妊婦でなくてもおいしい。


「おー、イイ感じに漬かってる。もうちょっと漬ければもっとおいしくなるかな。これ、のんちゃんにあげるね……ってこんな重たい瓶もって帰れないよね」


「着払いの小包で送ってよ。うちの人たち、みんな梅干しとか酢の物とか苦手なの。部屋に隠してこっそり飲むわ」


 のぶゑさんは、女学生のころとは全然違う、いたずらっぽい笑顔をみせた。


「わかった。……そっかあ、のんちゃんがお母さんかあ。月曜日女学校に行ったら蓉子さんに教えるね」


「ありがとう。蓉子さんは元気?」


「うん。最近は刺繍じゃなくて、なんだか難しそうな小説読んでる。それも、少女雑誌に載ってるようなポンチなやつじゃなくて、もっとこう、大学生とかが読んでそうなやつ」


「へえ――蓉子さん、本気で女流作家でも目指すつもりかしらね」


「さあ。あ、それでね、手紙でも教えたけど、あたし披露宴の次の日こっぴどい夏風邪ひいちゃって、学校休んだんだけどね、あたしがいないうちに、蓉子さんがほかの子に『加賀美さんの披露宴どうだった』ってしつこく訊かれたらしくて、あたしが教えるまでもなく、クラス中に広まってた。蓉子さんもいざとなれば喋るのね」


 のぶゑさんは笑った。抑圧から解放されたひとの笑顔だった。


「お姑さんはどんなひと?」


 スバルさんが流しでコップを洗いながら尋ねる。


「さすが大きい呉服屋の奥様だけあって、おっとりっていうか、ぼんやりっていうか、すごくふわふわした人。お舅さんは丁稚奉公からのたたき上げの入り婿で、すごく仕事ができて、わたしが計算速いのみて喜んでくれたわ。ただ一つ小姑だけが許しがたい」


 政治家の演説みたいな口調で、のぶゑさんはもう一度「小姑だけが許しがたい!」と叫んだ。スバルさんはあははと笑った。


「え、でも小姑さんってあたしらの二個上なんでしょ。お嫁に行ってないの」


「出戻りなんだって。結婚先で子供ができないで追い出されたみたい。きっと体質なんだと思うんだけど、それもあってわたし目の敵にされてる」


「そっかあ……体質かあ……」


「ううん、別にスウちゃんを悪く言ってるんじゃなくて」


「悪く言うもなにもあたしまだ結婚すらしてないから大丈夫だよ。梅シロップ、もう一杯飲む?」


「うん。ありがと」


 のぶゑさんは二杯目の梅シロップをおいしそうに飲んだ。


 なんて厳しい時代なんだろう、と心の中で小さく思った。女の子はお嫁にいけばどんなに若くても赤ん坊を期待され、新しい家族と反りが合わなくてもその婚家で家事労働をしなければならない。女性の自由なんて存在しない。


 それでも、そもそも家族というもの、結婚というものが存在しない二十三世紀に比べれば、ずいぶんと幸せだろうなと僕は思う。僕の生まれた時代には自由があったけれど、そこには人間同士の関係など、一切発生しなかった。


「小姑さん、本当にのぶゑさんがうらやましいんだね」


「そうですね。嫌いだけど、なんで嫌われてるのかは分かっているから、いずれ仲直りできるかな、って思います」


「あのさのんちゃん、のんちゃんのことだから令嬢世界の付録のレターセット大事にとってると思うんだけど、それを小姑さんにも分けてあげたらどうかしら。本当は女学校に行きたくて、それで少女雑誌を買ったこともなくて、それでのんちゃんをいじめてるなら」


「うーん。それ、うまく懐柔できるかあるいは火に油を注ぐかのどっちか……でもやってみようかしら。案外可愛いものが好きみたいで、小姑さん、街を洋装のひととか外国の人が歩いてるのみると、すごくうれしそうに見てるわ」


「そっか、横浜だもんね、ハイカラな人もいっぱいいるんでしょ」


「そうなの。近くの女学校、制服がセーラー服なの! すごく可愛いのよ、襟に校章の刺繍がしてあって、白いラインが三本で、カバンも白い帆布のやつじゃなくて格子柄の布と革でできてるの! すっごく可愛いのよ!」


「僕は普通の女学生さんも可愛いと思うけどな」


「清さんはセンスがないですねー」


 スバルさんに思いきりセンスのなさをけなされてしまった。

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