9-1 ライオン

「す、スバルさん。どうしたの」


「なんでもないです……朝ごはん。起きなきゃ」


「起きちゃだめだ。朝ごはんなら僕が作る。寝てて。いま博士を呼んでくる」


 僕は急いで博士の部屋に向かった。博士は背広に着替えているところで、僕の顔を見るなり、


「どうしたのかね、清君。ひどくあせっているようだけど」


「スバルさんが顔を真っ赤にしてげほげほ咳してます」


「……スバルが? やっぱり昨日無理しすぎたんだ」


 博士は太った体をゆさゆささせて、スバルさんの部屋に向かった。博士はスバルさんのおでこに手を当てて、表情を曇らせた。


「スバル! 顔が真っ赤じゃないか! それにひどい熱だ!」


「お父さん。だいじょーぶです、女学校いきます。のんちゃんを馬鹿にした子らに、のんちゃんの披露宴の話を……」


「そんなの元気になってからで構わんだろう。寝ていなさい。清君、用水路の橋を渡って少し歩いて、大通りに出たところから三軒目のお医者がいつも世話になってるお医者だ。伊能医院っていう。大至急先生を呼んできてくれ」


「わかりました!」


 僕は家を飛び出した。大通りの伊能医院なら場所は分かる。いつも買い物をする商店街の近くだ。女中代わりに働いたおかげでここいらの地理にだいぶ強くなった気がする。


 伊能医院、とかかれた小さな開業医のドアベルを鳴らすと、白い帽子に割烹着の看護婦さんが現れた。こんな朝早くにどうされました、と尋ねられ、星野家の書生で星野スバルさんが具合を悪くしたからどうにか見てもらえないか、という旨を説明した。看護婦さんは建物にはいり、数分後白衣のお医者様がちょっと寝ぼけた顔で出てきた。


「星野さんとこで書生なんか置いてたんですねえ。……星野スバルさんは、生まれた時から診ていますけれど、とても病弱なかたでねえ……」


 スバルさんはいつも明るく元気にふるまう人だ。それで気付かないのだけれど、手足は細く、本人が言うことを信じるなら体も痩せているのだろう。実際は、もっともっと弱くて、無理をさせられない人なのだ。この六月の蒸し暑い日に、振袖なんて着せちゃいけない人なのだ。


 お医者様を家に連れてきて、僕はまっすぐお医者様をスバルさんの部屋に通した。


「あ、伊能先生。お久しぶりです」


 スバルさんは意外と明瞭に、そう答えた。


「スバルさん久しぶり。どうしたのかな」


「どうもしてないです。これから起きて朝ごはん作って、女学校に」


「それはだめだよ。見るからに具合が悪そうだ。なにかあったの? 昨日とかおとといとか、なにかすごく疲れるようなことした?」


「えっと、友達の披露宴に行ってきました。振袖……いちおう汗取りとか詰め物とかしたし、襦袢も身頃をさらしで作って、なるべく涼しくしたんですけど、振袖を着てすごく汗をかきました。それからごちそうはぜんぶ戻してしまいました」


「ふむ。疲れて体力を消耗したところに、汗をかいて寒くなってしまったんだね。それからその日の栄養分は戻してしまった、と。ちょっと待ってね、熱を測ろう。それから胸の音をきこう」


 お医者様はカバンから体温計を取り出し、首にぶらさげた聴診器をつけた。いったん部屋を出て、博士と顔を合わせる。博士は少し考えてから、


「病気のスバルを独りぼっちにするのはかわいそうだ。ほかの教授には私から言っておくから、清君、大学を休んでスバルの面倒をみてやってくれないか」


「わかりました。――急いで朝ごはん作りますね」


「いいよいいよ。私なら駅の売店で菓子パンでも買って食べるさ」


 そういう話をしているところに、お医者様がやってきた。


「夏風邪ですね。ちょっとこれは気を付けたほうがいいです。肺炎になりかけてますね――きのうお友達の披露宴のごちそうを戻したときに、戻したものが少し肺に入ってしまったのかもしれないです。熱も八度九分ととても高いです」


 誤嚥性肺炎ってやつだ。つらかろう。いたかろう。くるしかろう。スバルさん……。


「肺炎……」


 その一方で博士は愕然とした顔をしていた。そうだ、スバルさんのお母さんは夏風邪をこじらせて肺炎になって亡くなっている。その人にそっくりなスバルさんがそういうことになったなら、博士も、悲しいだろう。博士は震えている。


「まだなりかけ、という段階です。いまからきちんと薬を飲んで養生すればよくなります」


「本当ですよね」


 博士はちょっと怖い顔でお医者様に詰め寄った。お医者様は頷く。

 ああ、この時代はまだ抗生物質というものがない……。


 お医者様はスバルさんに熱さましの薬と咳止めの薬を処方し、帰っていった。


「清君、スバルを頼むよ」


 博士はそう言い、大学に向かった。僕はとりあえずどうすべきか考える。


 熱さましと咳止めなんて、対症療法もいいところだ。確かに熱と咳が収まれば相当楽にはなるだろうが、この時代のそれらの薬にどれだけの効果があるのだろう。


 そんなことを考えていると、お腹がぐうーっと鳴った。僕も何か食べねば。


 そうだ、お粥を煮よう。台所で米を研いで、土鍋でぐつぐつやる。梅干しもつぶして、種を取り除く。


 いい感じにお粥が煮えたところで、あることをふと思い出す。


 ――治癒力向上剤。


 まだ何錠があるはずだ。あれを飲ませれば、たいていの病気がぱーんと治るはずだ。僕は自分の部屋の文机に置かれた胃薬の瓶を取り、その茶色い瓶から錠剤を一個取り出す。


 ラスト一錠だ。……本当に飲ませていいのだろうか。


 もしかしたらこの先僕が病気になるかもしれない。怪我をするかもしれない。取っておくべきではないだろうか。そもそもこれは二十三世紀の人間が飲んで効くようにできている。血統操作を受けていない大正時代の人間に飲ませていいものなのだろうか。


 でも。

 大正時代の人間は治癒力向上剤なんて持っていない。僕が真に、この時代の人間になるというのなら、そんなものを持っていてはいけない。なら結論はひとつだ。僕は鍋から自分の分のお粥をわけ、スバルさんに食べさせる土鍋のお粥に治癒力向上剤の最後の一錠をぽいと放り込み、よく混ぜた。無色の錠剤はすうーっと溶けて消えた。


 土鍋のお粥に梅干しを入れる。治癒力向上剤は無味無臭だがもしかしたらこの時代の人間には味が分かってしまうかもしれない。でも梅干しが入っていたら気付かないだろう。


 土鍋と匙をもってスバルさんの部屋に向かう。


「スバルさん、お粥食べよう。栄養をつけるのが大事だ」


 スバルさんはだいぶひどい咳をしている。体を起こすのも厳しそうなので、浴衣を着た背中をそっと起こしてやる。背骨がくっきり背中に浮いている。


「これ、清さんが作ったんですか?」


「うん。食べられそう?」


「食べますヨ、あたし食い意地張ってますから」


 スバルさんは明るくそう言うが、明らかに無理している。僕は、ちょっとずつちょっとずつ、よく冷ましてスバルさんにお粥を食べさせた。土鍋の三分の一くらいまで食べて、スバルさんはもういいです、と僕に言った。


「おいしかったです」


「それはよかった。これ、薬も飲んで」


 お医者様に処方してもらった熱さましと咳止めを渡す。


「うええ、粉薬。お水ください」


 僕は台所でコップに水を汲んで、スバルさんに手渡した。スバルさんは粉薬を飲んで、ふーっとため息をもらした。


「横になってて。いま手ぬぐい冷やしてくる」


「わかりました。ごめんなさい。清さん、まだご飯たべてないですよね」


「大丈夫。ちゃんと自分の分のご飯は確保してある」


 スバルさんは大人しく布団に寝た。


 いそいでお粥を食べ、手ぬぐいを冷たい水で冷やし、スバルさんの頭にたたんで乗せる。


「こういうことってよくあるの?」


「たまぁにですよ。たまぁに。あーあ、女学校行きたかったなあ」


「のぶゑさんのことなら、蓉子さんがほかの子に話してくれるんじゃないの?」


「それはないです。蓉子さん一人だとまるっきし喋らないし。休み時間はずっと刺繍してるんじゃないですか、蓉子さんのことだし……」


 明らかにスバルさんは元気を取り戻していた。二十三世紀、尋常じゃない。いっそ怖い。


「あの。家でみんなで刺繍した日から気になってるんですけど。……二十三世紀って、そんなに滅びかけてるんですか? いま科学を推し進めて、文明を磨いていったせいで」


「……もうあんまり覚えてないな。でも、どっちを向いても真っ白だった」


「真っ白」


「そう。人の肌も髪も、街も、衣服も、空も、川も、海も、なにもかも真っ白。新しくできるものも真っ白。この時代にやってきたとき、なんて色彩にあふれた世界だろうって思った」


「なんで、真っ白なんですか?」


「なんでだろうね。僕もわからない……滅んでいく世界が、なんで真っ白なのか、だれも気にしなかったし、……気にしても何も変わらないってみんな思ってたような気がする」


 スバルさんは丸い目をぱちぱちして、


「じゃあ、お茄子とか、トマトとかも白いんですか?」


 と、とんちんかんなことを尋ねてきた。


「野菜、ってものは、もうDNAバンクに遺伝子情報だけ残ってるだけで、絶滅してる。そも、白い土に種をまいて、野菜が生えてくると思うかい?」


「それじゃまるできれいな地獄じゃないですか」


 きれいな地獄。まさしく二十三世紀の本質をついていると僕は思った。そうだ、あれはきれいな地獄だ。人は亡者のように彷徨い、絶望していた。希望というものが存在しない。あれはきれいな地獄だ……。


「なんでそんなことになっちゃったんですか」


「核戦争っていうのがあった。核戦争っていうのは核爆弾という兵器をつかった戦争だ。核爆弾というのは落ちた場所の周りを吹っ飛ばして人を殺したりやけどで苦しめたりするだけでなく、毒がずっとずっとその土地に残る。その毒を消すために、ナノマシンってものがばらまかれた。ナノマシンっていうのは、原子をパーツにして作った、とんでもなく小さい機械で、それが予想外の動きをして……そうだ。ナノマシンが暴走して、世界が真っ白くなったんだ――いま思い出したよ」


「その、なのましん? っていうのは止められないんですか? 二十三世紀の科学でも?」


「うん。止められないんだ」


「止められない……なんでそんなもの作ったんですか」


「それを僕に言われたって困るよ。僕はただの市民だったからね。タイムマシンに適応性があるって十五歳のイニシエーションで判明して、時空検証委員会のエージェントになって――」


「いにしえーしょん? えーじぇんと?」


「えっと。イニシエーションは通過儀礼、って意味で、十五歳になったらインプラントっていうちっちゃい機械を脳に埋め込むんだけど、そのための検査でタイムマシンに適応性があるってわかったんだ。エージェントっていうのは代理人、っていう意味で、『時空検証委員会のエージェント』ってことは時空検証委員会の手先ってことだ」


「よくわからないですけど、清さんは津軽から来たわけじゃないんですよね。リンゴ豪農のご実家も、食べてみた雪も、仙台の高等学校も、『古川』って苗字も――ぜんぶ、本当じゃないんですね」


「うん、嘘だ」


 スバルさんはちょっと難しい顔をして、天井をみつめた。


「ちょっと天井見てもらえますか」


「なんだい?」


 天井を見上げる。木造平屋建ての家なので当然板の天井である。


「あの節穴、おサルさんの顔に見えませんか?」


「おサルさんの顔。そういやおサルさんなんかちゃんと見たことないなあ。スバルさん、元気になったら上野の動物園にいかないかい」


「わあ、すてき。父も誘って三人で行きましょうよ。象が芸をするのが見たいです」


 しばらくスバルさんと、サルの顔に見える節穴を見ながら、動物園の話をした。二十三世紀にも動物園はあったけれど、展示されているのは本物の動物ではなく、タッチパネルを触ると昔は存在していた動物というものを種類ごとにホログラムで映すものだった、と。


 スバルさんは、小さかったころに両親と手をつないで三人で動物園にいったのだ、とそう言った。象が芸達者でびっくりしたり、シマウマが本当に縞模様でびっくりしたり、ライオンがずっと寝ていてがっかりした、と言って、ちいさく笑った。


「――遠い外国……アフリカから来て、疲れてたんですかね、ライオン」


「どうだろう。アフリカは乾燥したところだから、日本の湿気にやられたのかもしれないね」


「どのみち、もと住んでいた国の仲間から引き離されて、日本みたいな小さな島国に連れてこられて、悲しかったでしょうね、ライオンも」


 スバルさんは、感性のとても豊かな子だ。ライオンの悲しさ、なんてものを、二十三世紀の人間が想像するだろうか。想像どころか悲しみという感情すら無縁かもしれない。


 僕の肩書きが全て嘘だという話から、なんでライオンの悲しみの話になったんだろう……。


 スバルさんは僕の口から嘘を聞きたくなかったのかもしれないと僕は思った。

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