8-2 びわ
「そうか」
畑中は少し考えて、
「なあ、お前、本気でこの時代で暮らすのか? いやもちろんお前が特異点である可能性の話をしたのは俺だし、もうとっくにタイムリミット過ぎてるからな、もちろんそうするだろうたぁ思うよ。でも、本当にいいのか? 昭和の御代に入ったら、欧米諸国相手の戦争がある。それも、関東大震災の特異点と、お前の存在で、可能性によっちゃ東京にも核が――」
と、真剣な顔で尋ねてきた。
「逆を言えば戦争がなくなる可能性だってあるだろ。そんなに心配すんな」
「……おう」
畑中はひとつため息をついて、灰皿で煙草をもみ消した。
「お前は本当に気楽だなあ……っつうか能天気だなあ……」
「この時代のひとはみんなこれくらい能天気みたいだぞ? 誰も、戦争が起こるとか、関東大震災が起こるとか知らないからな。平和なもんだ。本当にこの民族が『鬼畜米英』とか『進め一億火の玉だ』とか言ったとは思えないな」
「いずれそういう世の中になるんだろうよ……そうだ、お前んとこの先生たちっていつ帰ってくるんだ? 披露宴ったっていわゆる料亭の座敷でやるようなやつだろ、ゴンドラで下がってくるとかそういうのではないよな」
「ははは。当たり前だよ。しかしゴンドラか。ゴンドラの唄って聞いたことあるか?」
「ゴンドラの唄。俺んとこ男ばっかだかんな、歌には疎いんだ」
「命短し恋せよ乙女、ってやつだ。きれいだよな……」
「いやまあきれいだけど、お前そこまで少女雑誌みたいな頭になっちまったわけ。女学生か」
僕はぼっと赤面した。確かにがらにもないことを言っている。僕は書生だ。いわば蛮族だ。
「まあ……先生のお嬢さんとその友達と、ミルクホールでお茶したし、……ううむ。まあ、女学生に友達として認知されて、エス小説の話を聞かされるくらいだからな」
畑中は派手に噎せた。
「え、エス小説……」
「まあそれがこの時代の女学生さんの標準だ。洋装にあこがれてみたり、歌を歌ってみたり、恋に恋してみたり、女の子なんてそんなもんだ」
僕はただ笑うほかなかった。畑中には、先生のお嬢さん――スバルさんのことをただ守りたい存在と説明するけれど、その心の奥に、もっともっと、せつない感情が詰まっているのだ。
感情というものをここまではっきり意識するなんて。
僕はまぎれもなくスバルさんが好きなのだ。
だから、スバルさんのために、変えうる歴史を変えるのだ。たとえスバルさんがほかの男と結婚するとしても、僕はスバルさんに、未来をささげるのである。
「とにかくお前も恋に恋してることはわかった。で、おまえ性交渉訓練の成績は」
「いいだろそんなこと。あんなのとっとと忘れたいよ」
「でも女の子と恋をして、結婚したら、その、そういうことをせにゃならんのだぞ?」
「いやわかるけどさ。そんときはそんときだ。あんな愛もなにもないロボットとそういうことをしたのと同じではないだろ」
畑中はでっかいため息をついた。僕もため息をつく。
「話題がだいぶ逸れた。とにかく先生はいつ帰ってくるんだ? 急ぐんならおいとまするが」
「さあ――相当豪華な披露宴だって話だから、まだしばらくかかるんじゃないか? 夕方くらいにはなるだろ」
「……そうか。じゃあもうしばらくだべってくか」
畑中はそう言い、最近ビフテキというものを食べたのだと言った。ビフテキ。分厚い牛肉を焼いたやつだ。僕は牛肉なんてほぼひき肉でしか食べていない。
畑中の食生活はえらく充実していて、話を聞く分にはさすが政治家のお屋敷といった感じだった。僕なんかほぼ菜っ葉だぞ。そう言ったら畑中はげらげら笑った。ひどいやつだ。
政治家の先生も、明治の御代を知っているから、学生というのはこの世でもっとも尊い職業であると言ってくれるらしい。この時代のインテリおじさんのスタンダードなのだろう。
畑中は午後三時くらいに帰っていった。僕は修理したのに動かない時空通話機をもって、時空検証基地に向かった。この時代にそぐわない白いドームの入り口に、時空通話機をかざしてみる。うんともすんとも言わなかった。
しょうがないので家に戻り、芯のあるご飯に梅干しを乗せお湯をかけてかっ込んだ。夕飯はおそらく折り詰のごちそうであろうと考える。どんなのかな。
縁側の外をちらりと見る。スズメが地面をつっついている。鳥なんて真面目に観察するのは初めてだ。ぴょこぴょこ動いてとても可愛い。二十三世紀には、絶対存在しないもの。DNAバンクに情報としては残っているだろうが、こうやって動く動物というのはほぼ絶滅している。
そうだ。そのうち上野の動物園にいってみよう。
そうやっていると、玄関ががらがらーっと開いた。
「ただいま」
「ただいま帰りました」
博士とスバルさんだ。玄関に向かうと、スバルさんは顔面蒼白、博士は心配そうな顔だ。
「どうしたんですか」
「スバル、暑くて参ってしまったみたいで」
「だーいじょーぶですよー。着物脱いだら洗い張りに出さなきゃないし、それに」
そこまで言うと、急にスバルさんは玄関先で思いきり、吐いた。
食べ物を吐く人をみると思い出す。経口摂取訓練。つらいだろう。
「どうしたのかねスバル。だから無理にごちそうを食べないで、折り詰にして持って帰りなさいっていったろう」
スバルさんはよろめいて、危うく振袖を吐瀉物につけそうになった。博士が慌てて袖を後ろで持ち、僕が支える。
僕はスバルさんを背負ってスバルさんの部屋に連れていった。スバルさんの部屋のなかをまじまじと見ることはあまりないのだが、少女雑誌がきちんと並べられ、学校の教科書類も整然と机のうえにそろえてある。部屋の戸棚にはかわいい千代紙が貼られ、いかにも女の子の部屋、という感じだ。
「布団出してあげるから、まずは振袖脱ぎなよ。そんな暑苦しいの着てたらゆだっちゃうよ」
「ありがとうございまふ」
布団をひく。スバルさんはこれから振袖を脱ぐからちょっと出ていろと僕に言った。そうする。帯を解く音や振袖の衣擦れが聞こえて、なんだかドキドキする。
そう思っていると、足音が聞こえた。スバルさんが、涼しげな薄手の着物に着替えて、たたんだ振袖と襦袢を抱えてやってきたのだ。寝ていなくて大丈夫だろうか。
「寝てなよ。具合悪そうだよ」
「でも。汗かいたから振袖を洗い張りに出さなきゃないし、それに吐いたもの片付けなきゃ」
「スバルさんは寝てて。僕が悉皆屋さんに行ってくるから」
「……いいんですか?」
「もちろんだよ。だから寝てて」
僕はスバルさんから振袖一式を預かり、博士にその旨を伝えた。博士は今朝のぶゑさんのおばあさんに受け取ってもらえなかったへそくりを渡してくれて、それを代金に、悉皆屋さんに行って来てくれ、と言った。玄関の吐瀉物は、博士が片付けたようだ。
悉皆屋さんは、商店街の呉服屋さんが兼業でやっていた。振袖を渡し、見積もりを出してもらった。けっこうな値段だ。やっぱり季節に合わない着物を着るのは無理があるのだ。
家に戻ってくると、スバルさんが咳をする音が聞こえた。夏風邪でもひいたのかもしれない。
「なにがあったんです」
僕は博士にそう尋ねた。
「スバル、おいしいおいしいって無理してごちそうをかたっぱしから食べたんだ。あの子の体力じゃそんなにたくさん食べたら具合悪くするだろうに」
「そうなんですか……」
「私は心配だよ、スバルは健康になりたくて食べるようだけど、それだけじゃ健康にならないし……自転車で通学しているのだって、汽車で行きたいなら運賃くらい出してやるのに、体を動かせば健康になると信じて、財政を切り詰めようと頑張っているんだ。かわいそうに」
博士は、疲れた顔をしていた。
「とりあえず夕飯にしようか。私も歳だね、出てきたごちそうは三分の一しか食べられなかった。折り詰にしてあるから、好きなものから食べたまえ」
博士が折り詰をどんとちゃぶ台に置く。見たこともないようなごちそうがびっしり詰まっていて、赤飯もあるし、紅白のかまぼこやら鯛の尾頭付きやら、おいしそうなものばかりだ。
隅のほうに、淡い橙色の果物があった。見たことがないし、二十三世紀の教本にも、こんな果物は載っていなかった。
「なんですこれ」
「ああ、清君は見たことがなかったか。これがビワだよ。私も東京に出てきて初めて食べた。津軽じゃ花すら咲かないからね……まあこれは食後に。とりあえず鯛でも食べたらどうかね?」
「じゃあ遠慮なく」
鯛に箸を伸ばす。しっかり火が通っていて若干パサつく。赤飯も食べてみる。むぎゅむぎゅする。ごちそうであるのは確かだが、見た目はきれいなのにおいしくない。
でもビワは、やわらかくて甘くて、とてもおいしかった。
さて、博士は早々に寝てしまった。僕も折り詰を片付け、部屋に戻って浴衣に着替える。らんまから光が漏れている。スバルさんはまだ起きているのだ。
「スバルさん、寝たら? もう遅いよ」
「目を閉じたら、忘れちゃいそうで、目を閉じられません」
「のぶゑさんの披露宴、どうだった? どんな花嫁衣裳だった?」
「白無垢と、黒振袖でした。仏式の結婚式って、なんだかかっこいいですね。令嬢世界に載ってた洋装のドレスの結婚式も素敵ですけど」
スバルさんは咳をした。疲れたところに汗をかいて、弱っているのだ。
「ほかにはなにか楽しかったことはあった?」
「蓉子さん。蓉子さんのお兄様が、スピーチっていうんですか? なんか簡単な挨拶をして。『西洋では六月の花嫁はとても縁起が良いものです』から始まって、さすがイギリスに留学したひとは違うなって思いました。そうだ、蓉子さんの振袖もすごく素敵だったんですよ」
ときおり咳をしながら、スバルさんはそう言った。
「のぶゑさんはどんな様子だった?」
「きれいに化粧して、ずっとニコニコしてました。お嫁さんってそうしてなきゃいけないんですね。なんだか可哀想でした」
「そっかあ……旦那様はどんな人だい?」
「えっと。すらっとしたハンサムな人でした。のんちゃん、お寺に嫁ぐのかと思ったら、横浜の大きな呉服屋が嫁ぎ先だそうです。でも旦那様、ぜったい着物より洋装が似合う顔でした」
しばらくそうやって、話をした。
スバルさんは、泣き出してしまった。
「小さいころ、お人形さんでお嫁さんごっこをしたんです……まだ小学校に上がったか上がらないかくらいのころ。のんちゃんと一緒に。でも本当にお嫁にいってしまうなんて、あのころは考えもしなかった。明日から女学校に行ってものんちゃんはいないんです」
「そうか。……悲しいね、めでたいはずなのに」
「悲しい……ですけど、これでよかったのかなぁって。クラスの子に、のんちゃん『がり勉眼鏡』ってあだ名つけられてたし。あだ名っていうか陰でコソコソ言う悪口っていうか」
スバルさんはひとつ咳をして、小さくつぶやいた。
「あたしもいつか誰かと結婚するのかな」
女の子の未来が「お嫁さん」だけだった時代を、僕らは生きている。保険の営業もなければスーパーマーケットのレジのパートもない。
なんだかとても悲しい時代だ。だけれど、僕はこの時代を心の底から愛しているわけで、それは僕が支配主義的でマッチョな人間だからだろうか。
「僕、いやなやつだ」
「なにがですか?」
「女の子の夢が『お嫁さん』だけのこの時代を、いたく気に入ってしまった」
「そんなこと言ったらもとからこの時代に生きているあたしたちが悲しいです」
「……そうだね。ごめん」
「いい加減諦めて寝ますね……明日は女学校でのんちゃんの披露宴の話を、のんちゃんを馬鹿にしてた子らに言うんです。こんな素敵な披露宴だったよーって。ごちそうの鯛のお造りおいしかったよーって」
「吐いちゃったじゃないか」
「……そうでした」
スバルさんはぺちんと灯りを消して、すぐ静かになった。
僕も寝よう。
僕は名目上リンゴ農家の長男だ。一人っ子のスバルさんとはそもそも結婚できない。いや、でも博士に時空検証委員の話をして、津軽の実家なんて存在しないと説明すれば……いやまてなんでこんなことを考えているんだ。スバルさんとはそんなんじゃないはずだ。
いや、そんなんなのだ。僕はひたすらに片思いするしかできない。スバルさんはきっと、もっと素敵な男性と結婚するのだろう。僕はただ、スバルさんにあこがれるだけの人生を送るだろう。そんなことを考えながら目を閉じた。
翌朝起きて、いつも通り書生さんスタイルに着替えて台所に向かう。スバルさんの姿がない。玄関に牛乳を取りに行ったのかな。牛乳瓶は箱の中にちんと納まっている。
急いでスバルさんの部屋に向かう。
スバルさんは、真っ赤な顔をして、咳をしていた。
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