7-2 振袖
蓉子さんが帰っていったあとスバルさんはしばらく外を見てぼーっとしていた。
「お風呂沸いてるんじゃなかった」
「ああ……そうだ。お風呂お風呂……」
スバルさんが家の中に戻ろうとしたとき、ずっと遠くから「スウちゃん」と声が聞こえて、スバルさんはそっちを振り返った。用水路のむこうを、夜目にも鮮やかな白と紫の、総絞りの振袖をまとったのぶゑさんが若干ふらつきながら走ってくる。
「の、のんちゃん! どうしたの!」
スバルさんは玄関から飛び出した。僕もついていく。用水路にかかっている橋を渡ると、豪華な帯をふくら雀に結んだのぶゑさんが、ぜえはあ言っていた。
「……本当に、お見合い……してきたんだ」
スバルさんはそうつぶやいた。のぶゑさんは頷く。髪はきれいに結われ、化粧されている。とてもきれいだ。
「そう。本当に、お見合いしてきた」
のぶゑさんは眼鏡をかけていない。どうやらひどい近眼らしくあまり見えていないようだ。
「相手のかた、どんなだった?」
スバルさんの興味本位っぽい質問に、のぶゑさんは穏やかに答えた。
「生の顔は眼鏡がなくてわからないけど、見合い写真を見る限り美男だし、すごく素敵でいいひとだと思うわ。うちの親がこの子は勉強ばっかりで世の中のことを知らないんだ、って言ったら、勉強のできる聡いお嫁さんが欲しい、って言ってくださったの。もうそれだけで十分。それにね」
のぶゑさんはちょっと嬉しそうな笑顔をみせた。
「これで、『加賀美さんって眼鏡なんかかけてブサイクよね』って言ってたクラスの子らを、ぎゃふんと言わせられると思ったら胸がすくような思いがして」
のぶゑさんは、ぜひ披露宴に来てね、きっと六月くらいになるわ、そう言い残して帰っていった。スバルさんは呆然と立ち尽くして、のぶゑさんの後ろ姿をみていた。
この時代の女の子には、結婚以外の人生がないのだ。二十三世紀はどんなだっけ。そもそも結婚という風習自体廃れて、誰かを好きになるとか、そういう感情はまるでもたない時代だった気がする。もう「気がする」レベルまで認識が甘くなっているけれど、とにかく愛というものが存在しない時代だった。人間から人間に対する愛も、人間が弱く小さいものに注ぐ愛も、あるいは宗教的な神から人間に対する愛も。
のぶゑさんは、「勉強のできる聡いお嫁さんが欲しい」という相手の言葉に満足したのだ。
それで、よかったのだ。そうわかっていてもなんだかとてもさみしかった。少なくとも、もうそんなに時もなく、のぶゑさんが自転車を押すスバルさんと並んで帰ってくることはなくなるのだ。
急にさみしくなってきた。
「……清さん、入りましょう」
「ああ、そうだね」
家に入る。防犯効果があるのかどうか分からない貧相な鍵をかけて、玄関の明かりを消す。
スバルさんは、悲しそうな顔をしていた。どう声をかけていいか、さっぱり分からない。のぶゑさんがいなくなってしまうのがさみしいのか、はたまた、自分が結婚する日のことを考えているのか、分からないけれど――顔のさみしさは、簡単にぬぐい取れる類のものではなさそうだった。
スバルさんは風呂に入ってからわりとすぐに寝てしまった。僕もそうした。博士は風呂に入らず寝てしまったようだ。
翌朝起きると、スバルさんがいつも通り朝ごはんを作っていた。
いつもと、なにも変わらない朝だ。いつも通り手伝うことにした。スバルさんは、無言で味噌汁をつくり、無言でにらのお浸しをつくり、無言でご飯をおひつに移している。
「スバルさん、」
「なんですか?」
「スバルさんも、結婚したい?」
僕の質問に、スバルさんはしばらく考えて、困った顔をした。
「本音を言うと、いつまでも娘でいたいです。でも二十五過ぎたら振袖なんか恥ずかしいし、結局結婚するんでしょうね。職業婦人になれるような賢さでもないし。誰と結婚するかにもよりますけど。……そうですね、自由恋愛にあこがれます。父が許してくれないでしょうけど」
スバルさんはそう言って、牛乳をぐびぐび飲み、朝ごはんをちゃぶ台に運んだ。
博士も起きてきて、いつも通りの朝ごはんになった。いただきます。そう言ってにらのお浸しに箸を伸ばす。歯ごたえがあって繊維質のにらをニシャニシャ噛み、それからご飯を味付け海苔で食べ、味噌汁をすすった。平和だった。平穏だった。
「スバル、どうしたのかね、そんな悲しそうな顔をして」
「のんちゃんがお嫁に行くそうです。披露宴に来てほしいって」
「そんなめでたいことなのに、なんでそんな梅干しみたいな顔」
「めでたいはずなのに、ちっともめでたい気分にならないんです。どうしてでしょう」
「同じことをいおの母親も言っていたよ。要するにスバルのおばあさんだね」
「おばあさんが? そんなことを?」
博士は頷く。それからはははと笑って、
「祝ってあげなきゃかわいそうだ、とも言っていたよ。だからスバルも、のぶゑさんがお嫁にいくのを、祝ってあげればいい」
「そう、そうですね……振袖着せてくれる人探さなきゃ」
博士が御不浄に行った隙をついてスバルさんに尋ねる。
「振袖、って、花嫁だけでなくお客も着るものなの? 自分じゃ着られないの? 僕の生まれた時代にはないものだから」
「そりゃそうですよ、未婚女性の最高礼装なので、結婚式みたいな席にお呼ばれしたら振袖は当たり前です。未婚女性の着物なので、勝手に脱いでも自分ひとりで着られないようにできてるんです」
「……へえ。勝手に脱いでも自分ひとりで着られない……かあ」
要するに、分かりやすく言えば、貞操帯だ。
「のんちゃんの披露宴までにとみさんに連絡しなきゃ」
「とみさん?」
「清さんがくるまでうちで働いてたお手伝いさんです。住み込みで働いてもらってて、あたしに料理を教えてくれた人です。帯を結んでもらおうと思って。いまは高円寺の長屋にいるそうです」
スバルさんは女学校にいく支度を始めた。僕も大学にいく準備をする。博士がもどってきて、
「じゃあそろそろ出ようか」
と、みんなで家を出る。スバルさんは自転車を軽快にこいで、家から出ていった。
きょうも混雑する列車で大学に向かい、いつも通り講義をうけた。もうサークルの勧誘合戦も収まっていて、変な思想のグループに誘われることもない。
スバルさんの作ってくれた弁当を食べ、午後の講義をうけて、帰る時間になり構内を歩いていると、畑中が「よお」と言って近づいてきた。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも、家の人がいない日はわかるか?」
「んーと。うちの先生とその娘さん、たぶん六月に結婚式にお呼ばれするから、そのときは多分僕が留守番だな」
「詳しいことが分かったら教えてくれ。しかし……結婚式ねえ。どういう縁だ?」
「娘さんの幼馴染で女学校の友達、ってひとの結婚式だ。たぶん僕は呼ばれない」
畑中は小さく頷いて去っていった。
さて、家に帰ると、珍しくスバルさんは手紙を書いていた。少女雑誌の付録らしい、凝った作りのかわいいレターセットを出してきて、万年筆ですらすらと手紙をしたためている。どうやら例のとみさんという女中さんに手紙を書いているようだ。
「なので。どうぞ。よろしく。おねがい。します。よしできたっ」
スバルさんは手紙を読み返して、ただの手伝いの依頼なのにまるで恋文を見るみたいにニヤニヤしている。インクが乾いたところで、たたみ、封筒に宛名を書く。メモ帳を置いて、その高円寺の長屋の番地を書き込んでいく。
カラ元気だな、と僕は思った。のぶゑさんの結婚が決まってこっち、スバルさんはなんとなくいつもさみしい顔をしている。無二の親友がお嫁に行くのだから当然なのだろうが、それでもなんだか心配だ。
病気は心が弱ったところから入り込んでくる。スバルさんはただでさえ病弱なのに。
スバルさんは手紙に封をして、切手をぺたぺた貼った。それからゲタをつっかけ、ポストにそれを放り込み、夕飯の買い物に出かけた。
次の日、やっぱり家に帰ってくるとスバルさんはうろたえていた。どうしたのだろう。話を聞いてみると、
「とみさん、会津若松に帰っちゃったらしいんです!」
といった。とみさんというひとは会津若松出身らしい。なんでも手紙が転居先不明で戻ってきて、近くの家の電話を借りて長屋の大家さんに連絡したら、そういうことを言われたようだ。
スバルさんはすっかり狼狽しきっていて、僕が、
「だれかほかにいないの?」
と尋ねると、いないからうろたえているのだと言われてしまった。スバルさんはちゃぶ台の周りをぐるぐる回りながら、
「女学校は蓉子さんとのんちゃんしか友達いないし……蓉子さんのお屋敷すごく遠いし、そもそもまさか華族のひとにお手伝いしてもらうわけにいかないし……のんちゃんちはもちろんお嫁さんの支度で忙しいから友達の帯なんて構ってる暇ないし……」
「本職の髪結いさんにお願いしたら?」
「だって、婚礼があるってことは、髪結いさんはお嫁さんの製造とそのお母さんやおばあさんの製造で忙しいわけで。だいたいうちのどこに本職の髪結いさんにお願いするお金があるんですか」
「そんなにカツカツなの、星野家の財政って」
「そうですよ! 見栄張って肉料理なんか作るんじゃなかった。きょうから毎日イワシ炊いたの食べるとしても、披露宴までもう半月ないんですよ」
「……日取りは決まったの?」
スバルさんは壁に掛けてあるカレンダーをばっとめくって、六月の大安の日をびしりと指さした。そこにはスバルさんの鉛筆の字で「のんちゃん披露宴」と書いてある。
スバルさんは明らかに焦っていて、具合が悪そうだった。博士が帰ってきて、スバルさんはかくかくしかじか、と説明する。博士はのんきに、
「本職の髪結いさんにお願いすればいいじゃないか」
というのだが、スバルさんが家計簿を見せたら博士は黙ってしまった。そして、博士はしばらく考えてから、茶だんすをあけて、引き出しの裏に貼ってあった封筒を取り出した。スバルさんはぽかんとそれを見ている。
「まさかのことがあったときのためのお金だ。これで髪結いさんをお願いしなさい」
博士はそう言い、封筒をスバルさんに渡した。
スバルさんはあっけにとられた顔をしていて、次の日さっそく近所の髪結いさんに予約をとりに向かった。そして泣きながら帰ってきた。
「のんちゃんの披露宴の日、披露宴に間に合う時間の予約は全部埋まってるって言われました」
……ううむ。なんて言えばいいだろう。
「本当にもう頼れるひとはいないの? ご近所さんとか」
「うちの近所って人付き合いがすごく薄くて、回覧板回すくらいでしか顔を合わせなくて。そんな関係なのに振袖の帯を結んでくれるひとなんかいませんよ。どうしよう」
「そっかあ……いっそ洋装を一式そろえていくとか」
「洋装なんて無理です、こんな骨と皮なんですから」
スバルさんはそでを捲って見せた。本当に肉がうっすらとしかついていない。端的にいってガリガリだ。
僕も策を考えるのを手伝おうとしていると、誰かが玄関の戸をたたいた。
スバルさんは玄関に出ていく。僕も続く。玄関を開けると、気難しそうなおばあさんが一人、びしりと着物をきれいに着て立っていた。
「あんたかい、のんちゃんのお友達っていうのは」
「え、ええ、はい……そうですけど。もしかして、のんちゃんのおばあさんですか?」
「そうだよ。あたしゃ祝言にも披露宴にも呼ばれなくてね、のんちゃんにあんたが困ってるって話を聞いたんだ。髪結いさんは間に合ったかい」
「それが、もうぜんぶ埋まっちゃってるって」
「そうかい。それならあたしがあんたの帯結んでやるよ。こう見えても和裁の先生やってるからね、のんちゃんの花嫁衣裳も仕上がったし、あんたの帯くらい結んでやれるよ」
「ほ、ほんとうですか! ありがとうございます!」
スバルさんはのんきに喜んでいる。だけれど花嫁の祖母が婚礼に呼ばれないとはどういうことだろう。よく理由はわからないが、とにかくスバルさんはようやく落ち着いた顔をした。
「披露宴までに振袖の襦袢に半襟つけて、帯締めと帯揚げを選んでおきな。六月ってなれば蒸し暑いから、着物は必ず洗い張りに出さなきゃだめだよ。振袖、袷のしかないだろ?」
「は、はい。わかりました、用意します――そうだ。襦袢の身頃をさらしで作ったら涼しいかしら」
「そうだね、それもいい考えだね。自分でできるかい?」
「はい!」
本当にできるのかわからないが、スバルさんはそう明るく返事をした。
一安心である。のぶゑさんのおばあさんは、しゃっきりとした顔で帰っていった。
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