7-1 とんとん相撲
「大丈夫、って……」
スバルさんが心配そうに言う。
「兄が本当にひどいことを言ったの。赤ん坊ひとり産めない女は帰れ、って。鏡子さん、落ち込んでないか心配だわ。兄は最近、親戚縁者みんなに赤ん坊はまだかってせっつかれていて、それでカリカリしていたっていうのもありそうなのだけれど――それにお仕事がすごく忙しいみたいだし。でも兄は、わたくしにはもちろん、鏡子さんにもお仕事の内容を絶対に教えてくださらなくて。なにか危ないことでもしているのかしら」
「考えすぎよぉ、蓉子さん。蓉子さんは探偵小説とか冒険小説が好きだから、秘密結社とかギャングとか、そーゆーことを考えちゃうのよ」
「そうかもしれないわね、うふふ。でもいまちょっと思ったのだけれど、どうして少女雑誌には探偵小説とか冒険小説が載らないのかしら? 女の子でもそういう、すかっとする話が好きな人だっていると思うのだけど。なんていうか、女の子はみんなエス小説が好き、っていうの、勘違いもいいところだと思うわ。でもわたくしは『愛の夢』も好きだけど」
「蓉子さんは読書家だから、探偵小説とか冒険小説とかの面白いのを知ってるけど、世の、ふつうの女の子って人種はそうじゃないのよ、きっと。それこそ蓉子さんが小説家になって、エス小説と探偵小説が合体したの書いて少女雑誌に載せればいいじゃない」
スバルさんの無茶な提案に、蓉子さんはうふふと笑った。そして嬉しそうに答えた。
「それ、面白そうね。お話を考えてみようかしら」
とかなんとか言っているうちに肉豆腐が出来上がった。蓉子さんの生活水準に合わせているせいで、ここのところちょっと豪華なご飯が続いている。うれしいが経済破綻しないだろうか。
「ただいま。おや、きょうも肉料理かね?」
「おかえりなさいお父さん。きょうのお夕飯は肉豆腐です。お酒にしますか?」
「いやいや。お酒なんか飲んだら打てる碁も打てなくなってしまうよ。きょうは一日作戦を考えていたんだ」
博士はまさしく恵比須顔で、早く碁を打ちたくてそわそわしている。
「お父さん、碁はお夕飯のあとにしてください。冷めちゃいます」
「そ、そうか。じゃあ早く食べよう」
そう言って博士はいそいそとちゃぶ台の前に座った。スバルさんと僕と蓉子さんで肉豆腐を並べ、それからキャベツのお浸しとご飯と梅干しを陳列する。
いただきます! とみんなで箸をつけた。
「うむ、スバルの作った肉豆腐はおいしいねえ」
「えへへ。自信作です」
「おいしいわ。スバルさんは量を計らないでも料理ができるのね」
「それわりと普通だよ?」
とにかくみんなで肉豆腐を食べた。おいしい。
食べ終わってお茶の時間になった。スバルさんがお茶を淹れてみんなに配る。その間にも、博士は盤を部屋の隅から明るいところに移動して、碁石の入った丸い器をおく。
「じゃあ蓉子さんが黒でいいですかな」
「ええ。そんなにうんと強いというわけではないですし」
二人は本職の碁打ちのように頭を下げて「お願いいたします」と言い、囲碁を打ち始めた。どうやら実力は拮抗しているらしい。やっぱり蓉子さんも賢いのだなあ。ただの華族のおひいさま、といって片付けるには惜しいくらい頭がいいようである。
要するに、スバルさんたちは同じくらいの知能程度で三人つるんでいる、ということだろう。
しばらく無言で盤をにらんでは石を置いていく博士と蓉子さんを見てから、僕はノートの整理を始めた。スバルさんも皿洗いを始めた。僕にもスバルさんにも、囲碁はさっぱり分からないからだ。
しかし、二十三世紀に、こういう精神をみがくような遊びがあったろうか?
ヴァーチャルリアリティで森や海を散歩したり、ヴァーチャルリアリティでスポーツをしたり、そういう娯楽しかなかった気がする。
結局蓉子さんが僅差で勝ったようだ。博士は心底悔しい顔をしている。そして、もう一戦やろうと言いだし、また囲碁を打ち始めた。よく飽きないなあ。
「清さん、とんとん相撲やりましょう」
唐突に、台所から戻ってきたスバルさんがそう言いだした。真意を量り兼ねてぽかんとしていると、
「だって蓉子さんとお父さんばっかり楽しそうでずるいじゃないですか。でもあたし囲碁も将棋も決まりややり方を知らないし、だったらとんとん相撲しかないじゃないですか」
「とんとん相撲……ねえ」
脳内インプラントからどんなものか検索をかける。二つ折りにして力士の形に切り抜いた紙を箱の上に置いて箱をつつき、先に倒れたほうが負け。面白そうだ。
僕はノートをびりっと破いて、力士の形に切り抜き、鉛筆で大銀杏と顔とまわしを描いた。スバルさんも同じようにして力士を作った。
「ひがぁしぃ~星空山~にぃしぃ~津軽富士~」
いつの間にかスバルさんによって力士に名前がついていた。というか、津軽富士ってそれそのまんま津軽の岩木山だ。そういや津軽というのは強い力士が採れるところだっけか。
適当な紙箱の上に力士を置き、その箱の角をとんとんすると、力士は振動でちょっとずつ動き、バランスを失って星空山がずっこけた。
「ぐぬぬ」
スバルさんは悔しそうな顔をしている。
「スバルさん、さっきからとんとんとんとん、うるさいわ」
蓉子さんに叱られてしまった。
どうやら今現在は博士のほうが押しているようだ、と、蓉子さんと博士の顔を見比べて思った。そして結局博士が勝ったようだ。
こんどは蓉子さんが死ぬほど悔しそうな顔である。でも、どこか晴れ晴れしている。
「あーくやしいっ! もう一戦……といきたいけれど、もうこんな時間だわ」
時計を見る。夜八時半。
「お風呂入る? 入るなら沸かしてくるよ?」
「じゃあお言葉に甘えてお風呂に入ってこようかしら。ええっと」
蓉子さんは立ち上がる。浴衣をとりにスバルさんの部屋にいくのだろう。そう思っているとだれかが玄関をたたいた。僕はまた、ハエたたきで武装して玄関に出た。
「ごめんください」
真面目そうな男性の声。くもりガラス越しに見えるシルエットは、ばっちりと洋装でおしゃれに決めている。
「はい。どちらさまですか?」
「高嶺です。蓉子の兄です」
は、伯爵だ。リアル華族なんて初めて見るぞ。とにかく玄関を開ける。
蓉子さんによく似た、整った顔立ちの男性。年頃は三十くらいに見える。
「もしかして蓉子が来ていないかと思ってお邪魔しました。それからそのハエたたきは」
「なにぶん夜なもので、ちょっと武装しました。いま呼んでまいります。蓉子さーん」
「……お兄様?」
蓉子さんは、恐る恐る玄関に出てきた。蓉子さんが姿を現すなり、高嶺伯爵は頭を思いきり下げた。
「すまなかった!」
「すまないって、わたくしのことなんてどうでもいいの。鏡子さんには謝った?」
「ああ。我ながらひどいことを言ってしまったと後悔しているんだ。鏡子にも、お前にも、……単純に私がいらいらしているだけなのに、ひどいことを言ってしまった。すまない」
高嶺伯爵は、思いきり頭を下げてそう詫びた。
「なんで一晩迎えにいらっしゃらなかったの?」
「きのうは、鏡子と、その……医者に行っていたんだ。鏡子が吐き気がするというから」
「……え」
蓉子さんは、単純にびっくりした顔をした。伯爵は困った顔で、でもちょっと嬉しそうに、
「子ができたんだ。鏡子と私に」
といった。蓉子さんはびっくり顔のまま、ぽろりと涙をこぼした。
「よかった。本当によかった」
「まだぬか喜びはできないし、鏡子は安静にしなきゃならないようだが、子ができたんだ。お前にも甥っ子か姪っ子ができるんだ」
「うれしい。自分のことみたいにうれしいわ――でも、それならきょうのもっと早い時間に来てくれてもよかったじゃない。お兄様が迎えに来ないものだから悲しくて泣いてしまったわ」
蓉子さんはわがままを言う子供みたいに拗ねて見せた。伯爵はため息をついて、
「どうしても抜けられない会合があって、きょうは朝からずっと料亭にいた。実にくだらない会合で、さっさと終わらせたかったんだが、くだらないゆえに長引いてしまった」
「お兄様は、なんの仕事をしていらっしゃるの? わたくしや鏡子さんにも教えてくださらない?」
「活動写真の輸入だ」
高嶺伯爵はそう言うと、ポケットから煙草の箱を取り出し、くわえて火をつけた。
「そんなことはどうだっていいじゃないか。なぜ聞きたい」
「お兄様はわたくしや鏡子さんに心配をかけないように仰らないんでしょうけれど、そのせいで、お兄様はどんな仕事をなさっているのか、ずっと心配だったんですのよ?」
「そうか、すまない……これからはもうちょっと、仕事の話もすればいいかな」
「当たり前だわ」
高嶺伯爵は煙草の煙をふうーっと吐き出した。
「料亭の会合をやっている隣の座敷で、見合いをしていた」
よくわからないので、言葉の続きを待つ。蓉子さんもそうしている。
「蓉子とあまり年頃の変わらない娘さんが、化粧されて、とても上等な振袖を着て、困った顔をしていた。それを見ていたら蓉子のことを思い出した。だから会合の帰りに、まっすぐここに来た」
もしかして、その女の子は――のぶゑさんではなかろうか。
「蓉子。帰ろう。いま人力車を停めてある。帰って、みんなで鏡子のことを祝おう」
蓉子さんの頬を、涙がつたった。蓉子さんは完璧に泣き出してしまった。
「蓉子さーん。お風呂沸いたよ……あれ? もしかして、蓉子さんのお兄さん?」
「やあ。君がスバルさんか。蓉子から話は聞いているよ」
スバルさんはぺこりと頭を下げた。高嶺伯爵は小さく笑顔になった。蓉子さんは泣きじゃくりながら、荷物をもってきます、そう言ってスバルさんの部屋に向かった。スバルさんは博士を呼びに行った。まもなく博士がやってきて、高嶺伯爵は博士に礼を言い、それから詫びた。
「いやいや、お客さんが来ていれば食べるものも豪華になるし、囲碁の相手もしてもらったし、詫びてもらう必要なんてないですよ」
「蓉子が囲碁を。小さいころいっぺんやり方を教えただけなのにまだ覚えているのか、蓉子は」
「ええ、素晴らしい腕前でした」
博士がそう言って笑っていると、スバルさんが博士をちらっと見て、
「食べるものが豪華になる、は余計です」
と冷静に言った。博士は咳払いをしてごまかした。いやごまかせてない。
蓉子さんが荷物をかかえてやってきた。
「蓉子は、なにになりたい?」
高嶺伯爵は唐突にそうやって蓉子さんに尋ねた。蓉子さんは少し考えて、
「小説家ですわ。お家にいてもできるし、お嫁に行ってもできるし」
と答えた。高嶺伯爵は笑顔になった。それから、
「蓉子がスバルさんのお父様と囲碁をした話を聞いたよ。小さいころいちど教えたきりなのに、よく覚えていたね」
「いちど教えたきり……って、女学校に上がる前くらいまではずっとお兄様と囲碁を打っていたでしょう。忘れてしまわれたの?」
「……ああ、そうか。それから、もしかして父の蔵書の棋書でも読んだのか?」
蓉子さんは頷いた。そうか、蓉子さんは本の虫というやつなのか。活字を追いかけねば死んでしまう体質なのだ。
「蓉子、上の学校に進みたければ入れてやろう。留学したければいかせてやろう。お前は頭がいい。ただお嫁に行くだけの人生なんて、女からしたらつまらなかろう。そうしようと思っている。理解してくれるなら家に帰ろう」
伯爵はそう言い、また頭を下げた。一見してプライドの塊に見えるこの伯爵は、心根がとても優しくて穏やかな人なのだな、と僕は思った。伯爵は、蓉子さんの顔を見る。蓉子さんは泣き顔だ。そして、スバルさんに結ってもらった束髪崩しの髪の毛をくるくるいじって、
「帰るわ。でもお兄様のために帰るんでなくってよ。お女中のおウメさんのために帰るのよ。おウメさん、わたくしの髪を結わなきゃ一日が始まらないって言っていたもの」
蓉子さんは旅行カバンをかかえて、スバルさんと博士と僕に頭を下げた。
「お邪魔いたしました。スバルさん、今度はわたくしの家に遊びに来てちょうだい?」
「ええ。いつか必ず。気を付けて帰ってね」
伯爵は玄関を出ていった。僕と博士とスバルさんもゲタをつっかけて家の外まで見送る。家の前には人力車が停まっていて、車夫さんが退屈そうに煙草をふかしていた。
伯爵は煙草を捨てて、高級そうな革靴のかかとで火を消し、吸い殻を拾い上げてから人力車に乗った。蓉子さんも慣れた様子で人力車に乗る。
「それじゃあ、明日学校で」
「うん。また明日」
人力車は家の前から走り去っていった。
「……はあ」
スバルさんはため息をついた。安堵とも疲労ともとれるため息だった。
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