6-2 おまじない

 のぶゑさんはむくりと起きて、ぽつり、と声を出した。


「本当はね、信じるの「のぶ」に、恵みの「ゑ」なの」


「……?」


「うちお寺だから、父がそうやってお寺らしいきれいな名前をつけてくれたんだけどね、……祖父が名前を届け出るときに女の子の名前は平たいほうがいいってひらがなにしちゃったの」


「まだいいじゃない日本人の名前なんだから。あたしなんかスバルだよ、下手したらスピカだったんだよ? やっぱり子のつく名前がいいなー。星野スバル子。噺家さんかっ!」


「『子』なんて飾りよ。女の子には花の名前をつけておけばそれでいいっていう浅はかな考えがにじみ出る名前よ、蓉子なんて」


 ――この時代の女の子たちは、親のエゴで名づけられ、親のエゴで育てられ、親のエゴで親のもとから去っていく。親の都合だけで生きているのだ。


 だけれどそれでも、味気ない記号と数字の羅列でできた名前よりは、ずっとずっといいと思うのだ。僕はもう二十三世紀の名前を忘れかけているけれど、その名前よりきっと「古川清」という名前のほうが似合っている。


 津軽からきたという設定の裏をとるための「古川」に、凡庸に時代になじむための「清」。


 決して美しい名前じゃない。「スバル」のように星の名でもなく、「蓉子」のように野にあるものの名でもなく、「のぶゑ」のように心根を表す名前でもない。


 それでも、僕は自分の「古川清」という名前が好きだ。


 そろそろチョコレートも終了のようだ。


 女の子三人は、遊ぶ手段が尽きてしまったようだ。ババ抜きでも教えてやればいいだろうか。三人は他愛もない会話のレパートリーもなくなってしまったようで、退屈そうな顔をしている。


 そのとき玄関がたたかれた。男の声で、「ごめんください」と聞こえた。僕はハエたたきで武装し、玄関に出た。


「はい、どちらさまですか?」


「加賀美です。のぶゑの兄です……のぶゑはいますか?」


「ああ、のぶゑさんのお兄さん。いま呼んできます」


 物音を聞きつけ、部屋で論文を書いていた博士まで出てきた。のぶゑさんは大人しく立ち上がって、玄関に出た。


 玄関の鍵をあけると、僧侶というより格闘家みたいな、筋肉質で坊主頭の青年がいて、のぶゑさんとはえらく印象が違うなとは思ったけれど、よく見ると顔の感じが似ている。


「のぶゑ。なんでこんなことを。スウちゃんやスウちゃんのお父さんに迷惑だろう」


「……ごめんなさい」


「迷惑なんてとんでもない。楽しそうですこぶるよかった」


 博士がそう言って笑う。のぶゑさんのお兄さんは困った顔だ。


「そうですか……ほらのぶゑ、帰るぞ。明日は早いんだから」


「はい。お邪魔しました」


「またね、のんちゃん」


「また会いましょうね、のぶゑさん」


「気をつけてね」


「またいつでも遊びにおいで」


 のぶゑさんは帰っていった。のぶゑさんのお兄さんの背中は、広くてごつかった。


 気が抜けたみたいになった。


「もう夜も遅いよ、早く寝なさい。それから明日の女学校はどうするのかね」


「サボタージュします」


「あら素敵。それならあしたは刺繍をやりましょう?」


「いいの? っていうか刺繍の材料もってきてるの?」


「当たり前じゃない、わたくしの数少ない趣味ですもの」


 ふたりはスバルさんの部屋に消えた。僕もいい加減寝ることにした。


「わあ、蓉子さん腕ふかふか。お胸もきれいな形」


「そうかしら? スバルさんも痩せてて、鶴みたいにほっそりしててうらやましいわ。たがいにないものねだりね」


 ふすま越しにそんな会話が聞こえた。二人ははじけるように笑って、それから寝てしまったようだ。僕はほんのちょっとだけ、蓉子さんの綺麗な形の胸を想像してから、布団に潜り込んだ。



 夜中の二時くらいになぜか目が覚めた。台所から誰かの泣き声が聞こえる。そろりそろり、台所に向かう。台所の薄暗がりから、えっくえっくと泣く声がしている。


「……蓉子さん?」


「清さん。なんでも、えっく。なんでもないわ」


「なんでもなかったら泣かないよ。どうしたの」


「のぶゑさんは。えっく。のぶゑさんは、お兄様が迎えに来てくださったのに、わたくしの兄は迎えに、えっく。迎えに来ない、って思ったら。変に悲しくなってしまって」


 蓉子さんは必死で、浴衣のそでで涙をぬぐっている。


「あんなろくでもない兄、迎えに来なくて当然なのかもしれないけど……まるでだれにも必要とされていないって言われているみたいで。悲しくて。どうすればいいのかしら。迎えに来てほしいのに帰りたくないなんて、矛盾も甚だしいわ、我ながら」


 蓉子さんの泣いている顔は、白地の浴衣のせいで――もうちょっと未来の言葉でいうと、レフ板効果で明るくなってよく見える。美しく整った顔は悲しみにゆがめられていた。


「未来の世界のおまじない、教えてあげるよ」


 僕は蓉子さんがかわいそうで、おまじないをでっち上げるという暴挙に出た。


「おまじない……?」


「そう。悲しいことがあったときは、ペンパイナッポーアッポーペン、っていうんだ」


 おまじないでもなんでもない、二十一世紀に流行したジョークだ。ごくごく短い間、爆発的に流行して、気が付いたらみんな忘れていた、と脳インプラントが教えてくれた。


「ぺん……ぱいなっぽー……あっぽーぺん……? どこの国の言葉ですの?」


「特に何語ってわけじゃない。とにかく唱えてごらんよ。気分が楽になるよ」


「ぺん……ペンパイナッポーアッポーペン。ペンパイナッポーアッポーペン。ふふっ」


 蓉子さんはしばしその言葉を唱えて、


「ありがとう、清さん。なんだか気分が晴れたわ」


 と、小さく笑って、スバルさんの部屋に帰っていった。


 僕も寝なおした。なんの夢も見なかった。


 翌朝、起きてみるとスバルさんと蓉子さんが台所にいた。スバルさんが手際よく料理する横で、蓉子さんはおっかなびっくりの調子で料理している。端的に言ってへたくそだ。僕のほうがなんぼかうまいのではあるまいか。


「おはよう、スバルさん、蓉子さん」


「あ、清さん。おはようございます。朝ごはん作るのはあたしと蓉子さんでやるので、清さんは父を起こしてきてください」


「わかった。きょうの朝ごはんは?」


「いつも通りお味噌汁と、それからほうれん草のお浸しと、塩じゃけと納豆とご飯です」


「……スバルさん、蓉子さんが来てるから見栄張ってるでしょ。普段はそれより品数もがっ」


「そういうよけいなことはいいんです」


 スバルさんに口をがっと掴まれた。仕方なく、博士を起こしに博士の寝室に向かう。博士はまだ寝ていた。いびきがひどい。


「博士。はやく起きてください」


「ううーむ。もう五分」


「そうやってると列車に間に合いませんよ」


「うーむ。仕方ない、起きるか」


 なんとか博士を起こして、茶の間にいそぐと、もうすっかり朝ごはんの支度は終わっていて、それぞれの茶碗にご飯を盛りつけておいてあった。


 自分の定位置に座り、博士がいつも通りびしりと洋装できめてきて、やっぱり定位置に座る。スバルさんと蓉子さんもちゃぶ台をかこむ。


 いただきます、とみなで手を合わせ、朝ごはんを食べた。


「いやあ豪華な朝ごはんだねえ。毎日こうならいいのに」


「お父さん、そういう恥ずかしいこと言うのはよしてください」


 スバルさんはじろりと博士をにらんだ。博士は目をそらして、納豆をだばーっとご飯にかけた。


「あの、気になっていたのですけど」


 蓉子さんはちらりと、茶の間の隅にある豪華な碁盤をみた。


「スバルさんのお父様は、囲碁を打たれるんですの?」


「ああ、ちょっと趣味でしてね。大学の教授仲間と打ってたんですが、いつの間にやらだれからも相手されなくなって」


 博士はちょっと敬語混じりに答えた。蓉子さんは懐かしげに笑う。


「わたくしも、囲碁を嗜んでいて……兄が教えてくれた数少ないことが囲碁で。最近は兄がずっとカリカリして気が立っていて、『囲碁どころじゃない』って言って相手してくれなくて退屈していて。きょう、お帰りになられたら、一局いかが?」


「ぜひお手合わせ願いたいですな。言っておきますが私は強いですよ」


「うふふ。たのしみだわ」


「へえー。蓉子さん囲碁なんかできるのね。あたしにはちんぷんかんぷんだわ」


「僕も碁は五目並べしかできないな」


 畑中が将棋でやるように脳内インプラントから引き出せばそれなりにできるのだろうが、そんなことで脳みそを疲れさせたくないというのが本音である。


 博士と僕にスバルさんは弁当を渡し、僕と博士は家を出た。いつも通り駅から列車で大学に向かう。蓉子さんと久々に囲碁ができるのが嬉しいらしく博士はウキウキしている。


 大学の赤門をくぐっても博士はどこか浮足立っていて、ホクホクの顔をしている。


「なんでそんなに機嫌がいいんですか」


「久々に囲碁が打てると思ったら楽しくなってしまってね。大学の仲間からは『強すぎて相手にならん』って言われてるし、同じくらい強かったいおも死んでしまったし。蓉子さんはどれくらいの強さなのかねえ」


 るんるんの足取りで博士は大学の建物に吸い込まれていった。僕もそうしようと歩いていく。教室に向かう途中畑中と出くわした。


「リペアキットの申請通ったぞ」


「りぺあ……ああ、リペアキットな」


「届いたら家の人が留守な頃合いを見計らって修理に行く」


「わかった。それじゃ」


 リペアキット。そうか、僕は……二十三世紀からきた時空検証委員会のエージェントなのだ……。


 現実を思い出す。


 僕が地震を停めなかったら、この平穏は来年の秋には終わってしまう。


 地震を停めることで世界の結末が変わるかは分からない。だけれど、僕は、周りの平穏を保つためだけでも地震を停める必要がある。


 僕の生きていない遠い未来が滅ぼうが生き残ろうが、とりあえず関係ない。僕には、いまの平穏が必要なのだ。スバルさんたちとごはんを食べ東京帝大に通う、いまの平穏が必要なのだ。


 それを守ることが、ぼくのやるべきことだ。


 その日もいたって平和に、授業を受けて家路を急いだ。星野家につくと、スバルさんと蓉子さんは楽しそうに刺繍をして遊んでいた。舶来の高級な刺繍糸を惜しげもなく使い、蓉子さんはなめらかに針を動かしている。スバルさんはどうにもうまくない。


「料理とは逆だね」


「あーっひどいです清さん。……あ。そろそろお豆腐屋さんがくる。買ってきてください。鍋は台所の流しの下です」


「わかった。一丁でいいよね」


「はい。気を付けて」


 流しの下から鍋を出したところで、ちょうど豆腐屋さんのラッパの音が聞こえた。いそいで豆腐を買いに行く。ご近所の主婦のみなさんと一緒になって豆腐を買って、家に戻る。スバルさんは刺繍を中断してたすき掛けをし、着物に前掛けをつけて、夕飯の支度を始めた。


 蓉子さんも手伝おうと立ち上がりたすきをかけた。


「きょうは豚肉が安かったので肉豆腐にしましょうか」


「おお、豪華だね。刺繍してたみたいだけどいつ買い物にいったんだい?」


「女学校の帰りまっすぐ商店街に寄って、夕飯の材料をまとめて買ってきたんです」


「商店街って面白いんですのね、お店がいっぱい。焼きたてのたい焼きのおいしいこと」


「たい焼きを買い食いしたわけだ」


「だっておいしそうだったんですもん。お弁当もぎゅうぎゅうにしないようにしたら、夕方お腹空くようになっちゃって」


 スバルさんは見ていて気持ちのいい手際で豆腐や肉を切り、次々と料理を進めていく。いい匂いが立ち込めてきた。


「スバルさんは、毎日こうやってお料理をなさるの? わたくしには無理だわ」


「そりゃ蓉子さんは華族のおひいさまだもの。料理なんてコックさんが作ってくれるんでしょ? 結婚するにしたって華族のお家ならコックさんがいるわけだし。それにクッキー作るの上手いじゃない」


「クッキーなんて決まった分量の材料を混ぜて焼くだけだもの。それに難しいことは鏡子さんがやってくださるし……鏡子さん、大丈夫かしら……」

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