6-1 チョコレート
さて、それは五月半ばのある日、夕飯にスバルさんが女学校の割烹の授業で習ってきたコロッケを作って、そのジャガイモと玉ねぎとひき肉を混ぜて揚げた塊をわしわし食べているときのことだった。
玄関をノックする音が聞こえて、こんな遅くにだれだろう……と、博士と僕が玄関に出ていくと、蓉子さんが目を真っ赤に泣き腫らして、大きな旅行カバンをもって立っていた。
「よ、蓉子さん?」
僕がそう言うとスバルさんがすっ飛んできた。
「蓉子さん! どうしたのこんな時間に。伯爵令妹がこんな遅くにうろうろしたらあぶないわよ。ただでさえ美人なのに、しかもそんないい着物まで着てたら、悪漢に襲われるわ」
「もういや。お家に帰りたくない」
蓉子さんは、答えにならない答えを発して、いかにも高そうな着物のそでで涙をぬぐった。
「なにがあったの? 蓉子さんちって相当遠いけど、ご飯食べた?」
スバルさんの言葉に反応するように、蓉子さんのお腹が「ぐう」と鳴った。蓉子さんは激しく赤面して、
「……失礼いたしました。晩御飯、いただいてないの」
と答えた。華族のお姫様が、お腹の鳴る音を聞かれるのは、いかほど恥ずかしいことか。
「とりあえず上がってください。スバル、コロッケはまだあるかね?」
「まだ二個か三個くらいあります。蓉子さん、コロッケくらいしかないけど、食べる?」
「いただくわ。お腹すごく空いてて……家から歩いてきたから足もへとへとだわ。お邪魔いたします」
蓉子さんは優雅な所作で星野家の建物に入ってきた。茶の間に通して、スバルさんがコロッケを持ってくる。
「なにがあったの? それともお家のことでほかの人には言えないこと?」
スバルさんがそう尋ねると、蓉子さんは涙目で顔を上げた。
「兄が。兄が、鏡子さんをなじったの」
「鏡子さんって、兄嫁の」
「そう。兄は、親戚一同に『早く赤ん坊を』って言われていて、……それで鏡子さんに、『子供ひとりできない女は実家に帰れ』って、そういってひどくなじったの。わたくしはもともと、兄はそんなに好きではないのだけれど――さすがにそんなひどいことを言うなんて、と思って悲しくなって泣いていたら、兄に叱られて、それで喧嘩になって家を飛び出してきたの」
蓉子さんはむしゃむしゃコロッケを食べながら、涙目でそう語った。
「そっかあ……」
「それは高嶺伯爵が種無しという可能性もあるんでないかね」
博士がスケベオヤジ全開の、少なくとも女学生にいうジョークではないようなジョークを言った。意味が分かるのか分からないのか、蓉子さんはあっけにとられている。
蓉子さんはしばらく、口にコロッケをいれたままぼーっとして、ようやく意味を理解してコロッケを噴きかけた。むせてゲホゲホいっている蓉子さんの背中をスバルさんがばしばしたたく。
「スバルさんのお父様は、面白いことをおっしゃるのね」
蓉子さんは小さく笑った。スバルさんはため息をひとつついて、
「ただの無神経でスケベなおじさんよ。気にしないで」
そう答えて、僕らの分のコロッケの皿をさげた。
蓉子さんは悲しそうな顔ではなくなったものの、心を傷つけられた表情をしていた。
二十三世紀には、「心が傷つく」という概念はない。インキュベータから生まれてきた僕たちには心というものがほとんどない。心を知らないまま育ち、心を必要としない暮らしをする。
そんな時代に生まれた僕が、こうやって人の心を推し量っている。不思議だ。心というものは、心のある世界で育つのだなあと、僕はただただ、自分の内側の変化に驚いていた。
蓉子さんはおいしそうにコロッケを食べながら、スバルさんは割烹の成績がとてもいいのだ、と教えてくれた。蓉子さんはそんなに得意なほうではないという。
さっきまで泣き顔だった蓉子さんは、コロッケを食べて人心地ついたようで、ようやく普通の表情に戻った。
「……きょう、泊まってく?」
「いいの?」
「もちろん。もう外は真っ暗だし、蓉子さん、お家に帰りたくないでしょ? いいですよね、お父さん」
「もちろんだよ。狭い家ですが泊っていってください」
「ありがとうございます。スバルさんも、スバルさんのお父様も、優しいんですのね」
「よーし。蓉子さん、ちょっとこっちに来て」
スバルさんは茶の間の奥の、三面鏡の置かれた部屋に蓉子さんを通し、部屋から例の「令嬢世界」とかいう雑誌を持ってきた。
「蓉子さんいっつもマーガレット結いだから、いま流行りの髪型に挑戦したらかわいいと思うのよね。えっと、それじゃあ……わかりやすく束髪崩しからやってみよう。髪解いていい?」
「え、ええ……」
「マーガレット結いは、だれかお家のひとがやってくださるの?」
「お女中のおウメさんが結ってくれるの。おウメさんはおばあさんだから、女学生といえばマーガレット結いって思ってるの」
スバルさんは蓉子さんを鏡の前に座らせ、髪をほどいて櫛を通した。
「綺麗な髪ね。黒々してて厚くて」
「そうかしら? 女学校を出たらボブカットにしてしまうつもりでいたのだけど」
「えーもったいない! こんなに綺麗な髪なのに!」
お喋りしながら、スバルさんは蓉子さんの髪にゆっくり櫛を通し、きれいな手つきで流行りの髪型に結って仕上げる。鏡を見た蓉子さんは、
「わたくしでないみたいだわ」
と言って小さく笑った。うれしそうだった。
「でもボブカットのモガな蓉子さんもちょっと見てみたいかも。そうしたらもちろん洋装よね」
「そうね、もうちょっと――スバルさんみたいに手足が細かったらよいのだけど」
「だめよぉ。あたしなんか骨と皮なんだから。まるでブリキの湯たんぽよ」
きゃいきゃいいいながら、流行りの髪型を次々試していると、今度は勝手口のほうから、
「すみませーん」
と、そういう声が聞こえた。なんだろう、と出ていくと、のぶゑさんだった。泣いてはいない。しかし唇を強く噛んだのか、血がにじんでいる。
「どうしたののぶゑさん。のぶゑさんまで家出かい?」
「ええ、ちょっと母と喧嘩をしてしまって、居心地悪くて出てきました」
「――ちょうど蓉子さんもお兄さんと喧嘩して家出してきてる。上がって。夕飯は食べたよね」
「食べました。実につまらないいつも通りの夕飯でした」
のぶゑさんも上がってくる。スバルさんと蓉子さんは髪をいじって遊ぶのを中断し、のぶゑさんのほうに近寄った。
「のんちゃんまで家出? 偶然には偶然が重なるのね」
「家出っていうか……単純に家の居心地がよくなくて逃げてきただけ。たぶんスウちゃんちに逃げ込んだのはばれてるから、兄か父が迎えに来ると思う」
のぶゑさんは疲れた顔をした。もしかして、この間スバルさんの言っていたお嫁入りのことで親と喧嘩をしたのだろうか。この時代の女の子というのは不自由だなあ、と思う。
のぶゑさんは蓉子さんの髪型が流行りの髪型になっているのを見て、とても素敵、と喜んだ。それなら、とスバルさんは、のぶゑさんに鏡台の前に座るよう言った。
「よーし。髪結いスバル開店」
スバルさんは、のぶゑさんまで少女雑誌に載っていたおしゃれな髪型にしてしまった。
「わあかわいい……一回やってみたかったの。今月の令嬢世界に載ってた髪型でしょう?」
「そうよ。似合うじゃない」
「眼鏡がなければもっと似合うのかしら。外してみよ……だめだわ、顔が見えない」
「……のぶゑさん、唇はどうなさったの? 血がにじんでるわ」
「えへへ、ぎりぎりまで口答えしないように唇を噛んで我慢してたの。でも……結局喧嘩になっちゃった。明日は本職の髪結いさんに行って、髪を結ってもらってお化粧までしてもらうのに、唇が血だらけなんてね」
「のんちゃん、もしかして……本当にお嫁にいっちゃうの?」
「まだ分からない。会ってから決めるわ。どうなるかしらね」
のぶゑさんは、淡々とそう答えた。スバルさんはのぶゑさんの髪を梳く手をとめ、少し考えてからまた髪を梳き始めた。のぶゑさんの髪は、いつも三つ編みのおさげにしているから、癖がついていて、まるでパーマネントを当てたようなふわふわの髪だ。
「はいできた。かわいい」
「本当だぁ。いいなあ、この髪型で女学校行きたいなあ……うちの親、わたしがちょっとおしゃれしようとすると『色気づいて』って叱ってくるの。だからいっつもおさげ。いいなあ……」
「なんならのんちゃんも泊まってく? 浴衣くらいなら貸せるよ?」
「わたしのいる場所なんてすぐわかっちゃうわよ。たぶんきょうじゅうには迎えに来るんじゃない?」
「そっかあ。えーと、なにをしよう」
「それならのぶゑさんのご家族が来るまで、お茶でも飲みながら夜更かししない? わたくし、家からこっそりチョコレート持ってきたの」
「えっ。チョコレート? やったあ」
「わたし、チョコレート食べたことないの……おいしいの?」
「おいしいに決まってるじゃんチョコレートだよ。甘くて苦くておいしいよ」
女の子三人はまた盛り上がりだした。博士が、
「私は部屋で仕事をするから、清君、彼女らを監督してくれたまえよ?」
と言って部屋にひっこんでしまった。お茶を沸かして、三人にくばる。
蓉子さんが旅行カバンからチョコレートを取り出した。豪華な箱に入った高いやつだ。
いろいろな形をしたきれいで可愛らしいチョコレートを、女の子たちはつまんでもぐもぐし始めた。僕もご相伴にあずかった。甘い。口の中でとろっととけて、いかにも歯に悪そうだ。
「ねえ、ピラミッドってご存知?」
蓉子さんが、にこっと笑った。
「エジプトの三角山?」
スバルさんのあまりにもざっくりした答えに、僕は思わず小さく噴いた。
「そうそれ。あれって、スバルさんとのぶゑさんは、どうやって建てたと思う?」
「そりゃー王様が奴隷を山のようにこき使って石を運ばせたんだよ」
「でもスウちゃん、あの石ってすっごく大きいんだよ。どれだけの奴隷を使ったのかしら」
「わたくしは、ピラミッドができた時代には魔法使いがいたんだと思うの」
スバルさんとのぶゑさんは、ぽかーんの顔になって、蓉子さんを見た。
「魔法使いってそんな非科学的な」
のぶゑさんがそう言う。蓉子さんはふふふと笑って、
「もしかしたら、わたくしたちは大昔存在していた魔法を、忘れてしまっただけではないかしら。科学じゃ説明のつかないことっていっぱいあって、それらは昔の人間だけが知っていた魔法でそうなったんじゃないか――って思うの」
「蓉子さん、小説家になったら?」
のぶゑさんはそう言い、チョコレートをかじった。
「あら素敵。わたくし、詩歌の類はあまり得意でないのだけれど、散文なら書けるかしらね」
「蓉子さんの言うことって面白いわ。すごく面白いことを考えてるのね」
「うふふスバルさん、褒めてもチョコレートしか出ないわよ。そうよ、わたくしは小さいころから冒険小説が大好きだったの。本当は少女雑誌なんかより、探偵ものとか、冒険ものが載ってる男の子の雑誌が欲しいくらい」
「この中でいちばん男勝りなのが蓉子さんっていうのにびっくりするわ」
のぶゑさんがそう言う。のぶゑさんの言葉は、すこし辛辣だ。きっと、家で「女の子はかくあるべし」みたいなのを圧しつけられて育ったのだろうと想像する。
「のんちゃんがいちばんにお嫁にいくのも、ガサツなあたしが料理得意なのも、ぜんぶ予想外ね。のんちゃんはてっきり女高師にいって先生になるものだとばかり思ってたわ」
「だからまだお嫁にいくかまでは決まってないってば」
「でも明日髪結いさんで髪結ってお化粧するんでしょ? お見合いよね? ……たいへん! のんちゃん鼻血出てる!」
「えっうそっ恥ずかしい! ちり紙! ちり紙ちょうだい!」
チョコレートで鼻血か。普段食べているもののカロリーが足りていないのかな。
のぶゑさんは床に寝っ転がり、右手で鼻を押さえ左手でちり紙をあてるという器用なことをしている。
「どーしよ……おいしいものごちそうになったのばれちゃう」
「大丈夫よ、そんなにすぐにはこないでしょ。……のんちゃん、お家でなにがあったの?」
「うん――明日お見合いにいくでしょ? そこまでぜんぶ母の独断なの。父は、まだ早いんじゃないかって言ってて、それでも母が見合いの口を探してきて、さっさと花嫁衣裳を着せたいって言いだして。見合いの口を探し始めたころには祖母にお願いして花嫁衣裳作ってたのよ、馬鹿みたいじゃない? 早くお嫁に行って早く赤ちゃんを産みなさい、女学校でもそう教わるんでしょ、って言われて、……前は女高師に入れてやるって言ったのに、って言ったらそんなこと言ってないって言われて――それで喧嘩になっちゃった」
のぶゑさんの言葉は、悲しみが詰まっていた。上の学校に行く約束をしていたのに嫁入りを急いだ、というのは、理由を想像すると家族の誰かが病気だとかそういう事情を考えてしまう。本当に、この時代の女の子は、お嫁にいく以外の人生が用意されていないのだ。
そんなことを考えているうちに、のぶゑさんの鼻血がようやく止まったようだった。
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