5-2 イチゴと初ガツオ
「家にいる間の私服くらい涼しいもの着ていいんじゃないの」
「わお。盲点だった。着替えてきます」
スバルさんは跳ね起きて自分の部屋に向かった。
風薫る五月、というにはいささか暑いし、新緑を通り過ぎて木々は青々としている。
「じゃーん!」
スバルさんが、裏地のついていない着物を着て現れた。袴スタイルでなく普通に着ている。前掛けをつけてたすき掛けして、家事をばりばりこなします、そういう風情だ。
「よっし。今日のお夕飯の材料買いにいかなきゃ。そうだ、もう初ガツオってあがってるかしら」
「初ガツオ……ねえ。いってらっしゃい」
「あーい」
スバルさんは元気ハツラツ……に見える足取りで家を出ていった。初ガツオ。ちょっと楽しみだ。
だけれど、スバルさんの背中は、なんだか悲しげだった。なぜだろう。
いや、僕が悲しげだと認識してしまっただけで、悲しいと決まったわけじゃない。
「こーんにーちわー」
勝手口のほうからそう声が聞こえて、勝手口に回ると、のぶゑさんがいた。手には、イチゴの入ったざるを持っている。
「やあ」
「あ、清さん。スウちゃんはお出かけですか?」
「うん、夕飯の材料を買いに出かけた。どうしたんだい?」
「これ、うちの檀家さんからもらったイチゴです。みなさんで召し上がってください」
「ありがとう。おいしそうだね」
「おいしいですよ。酸っぱいですけどね」
のぶゑさんはふふっと笑った。眼鏡の向こうの、知的な顔が、ちょっと寂しげに笑っていた。
なんだろう……胸騒ぎがする。
「あ、あの……ちょっと聞くけど、スバルさん、女学校でなにかあった? なんだか悲しそう、っていうか、無理してるみたいに見えて」
のぶゑさんは、噴き出して噎せた。
しばらくひとしきり噎せてから、
「スウちゃん、お弁当のご飯をぎゅうぎゅう詰めにしてるって知ってます?」
「え。知らなかった。普通の曲げわっぱの弁当箱だけど」
「スウちゃん、もとが少食なくせにすごい密度のご飯を毎回持ってくるんですけど。今日お弁当食べた後、貧血起こして食べたものぜんぶもどしちゃったんです」
「えっ」
「それで、それだけならいいんですけど……クラスの性格の悪い子たちが、『星野さんのお家、書生さんが来たって噂だし、なにかあったのよ』って暴言を言いだして」
吐くことと書生の関係性がぱっと聞きでは分からず、少し考えて、女性というのは妊娠するとつわりという状態になって吐き気を催すことがあるのだということに思い至った。僕はため息をついて、
「ひどい話だね」
と肩をすくめてみせた。
「そう。女学校はひどいところです。いじめとか、悪口とか、そういうのがのさばってて。でも、わたしはそういうところが好きです。いい人だけの世の中なんて存在しないです」
「……?」
「いえ。なんでもないです」
「そう?」
「はい。なんでもないです。それじゃ、わたしは帰りますね。スウちゃんによろしくお伝えください」
「う、うん……」
のぶゑさんは、ゲタをからころ言わせて帰っていった。
いい人だけの世の中なんて存在しない。のぶゑさんの言葉を反芻する。のぶゑさんも、なにかあったのではなかろうか。
胸騒ぎは増すばかりだった。しばらくどうしていいか、勝手口に棒立ちになっていると、玄関が開く音が聞こえた。
「ただいま帰りましたぁ。清さーん、初ガツオですよー!」
「お、おー。初ガツオかあ。うれしいなあ」
「あれ? そのイチゴなんです? おいしそう」
「これはさっきのぶゑさんが、檀家さんから頂いたから、って届けに来てくれて」
「へえー。おいしそー」
「のぶゑさんから聞いたよ、お弁当もどしちゃったって?」
「ああーッ! まさか清さんに知られるとは! 恥ずかしいので父には黙っていてください」
「うん、わかった。それより、のぶゑさんもなにかあったの?」
「清さんって変なところに気が回るんですね」
「だって顔つきがさみしそうだったから。スバルさんだって悲しそうだったから、のぶゑさんに事の次第を聞いたわけだし」
スバルさんはため息をひとつついた。
「なんでしょうね……ここのところずっとのんちゃん悲しい顔ですけど」
「知らないの?」
「知らないですよ。のんちゃんにはのんちゃんの家の事情がありますし。それより早く料理しなきゃ。手伝ってください」
「おう」
「無理に男っぽくしゃべる必要ないですよ?」
「別に無理してないし僕はそもそも男だ」
台所に向かう。スバルさんは買い物かごからカツオのさくを取り出した。
「これはお刺身にします。それからお味噌汁とごはん……父にはお酒ですね。イチゴは口直しに食べましょうか。練乳の缶がどっかにあったはず……」
スバルさんは台所の隅のほうから練乳の缶を見つけてきた。僕はすっかり慣れた味噌汁を作る。具は大根の菜っ葉だ。
二人で料理しているところに博士が帰ってきた。
「ただいま。二人ともせっせと料理をして偉いねえ」
博士はもうアルコールモードのようなので、ひやで酒を出した。カツオの刺身も出す。博士は実にうまそうにカツオをアテにして酒を飲んだ。
「料理はわたし一人でやるので、清さんはお父さんにお酌してもらえますか」
「構わんよ、手酌で飲むから清君はスバルを手伝ってくれたまえ。いやあ、もうこんな季節か。うまいうまい」
というわけで台所に降りた。ワンオペで料理をしているスバルさんを手伝い、茶碗にご飯をよそい、味噌汁をお椀に注ぎ、お盆に乗せて茶の間に運ぶ。
「いただきまーす!」
「いただきます」
カツオに醤油をかけ、箸を伸ばす。生魚の味がする。それから鉄分の味も。
「おいひー。やっぱし初物は最高ですね」
「うん、おいしいね。鉄分も多そうだし」
「その話はしない約束じゃないですかあ」
スバルさんが小鼻を膨らますので、僕はハハハと小さく笑って、カツオの刺身をもぐもぐした。博士がなんの話かねとスバルさんにしつこく尋ねている。スバルさんは答えない。
「なんで答えないのかね。なにかやましいことでもあるのかね? 父さんは心配だよ」
「本当になんでもないんですっ」
「それなら清君に訊こう。鉄分がどうしたのかね?」
「これは約束ですから」
「……まあ、おおかた学校で貧血になって、弁当をもどして、いじめっ子らに清君との関係を疑われたとか、そんなところかね」
百点満点の正解だった。
「おおおおお父さん、な、なんでわかるんですか?」
「ハッタリだったんだが正解だったか。ははは……無理に食べたって強い体は手に入らんよ」
「……そうですけど」
「吐いてしまったなんて本末転倒じゃないか。ちゃんと食べられる量の弁当にしなさい」
「はぁい」
しおらしくしているが、スバルさんは明らかに懲りていない顔だ。
みんなでひとしきり夕飯を食べた。外はもう薄暗くなっている。家の中は、小さな電球ひとつで照らされている。
その薄暗い中、スバルさんは宿題を始めた。博士は英語の論文を読み始めた。僕もきょうの授業内容をまとめる。
しばらくてんでにやりたいことをやっていると、スバルさんが唐突に、
「そうだ」
と声を発した。なんだなんだ。
「イチゴ。イチゴがあるんでした。食べなきゃ。あれすぐ悪くなっちゃうし」
そう言ってスバルさんは台所から、ガラスの皿に盛られたイチゴと練乳をもってきた。
「イチゴか! どうしたのかね、こんなにたくさん」
「あたしが買い物に出かけている間にのんちゃんが届けてくれたみたいです」
どれどれ、と博士がイチゴを一つとり練乳につけて口に運んだ。
「酸っぱいねえ」
「そりゃそうですよイチゴですもの。でも季節のものですよ。うん、おいひー」
スバルさんはおいしそうにイチゴをもぐもぐして、ヘタを茶碗に捨てた。
僕も遠慮なくイチゴをいただく。酸っぱい。しかし練乳と中和されると、甘くておいしい。
口いっぱいフルーティで、こんなにおいしいものがあるのかあ、とちょっと驚く。
イチゴをもぐもぐするスバルさんの頬を涙が伝った気がして、
「どうしたの。泣いてる?」
と尋ねると、スバルさんは着物に涙をぽつりと落として、
「のんちゃんに口止めされているので言えません」
と答えた。のぶゑさんにもやっぱりなにかあったのだ。
イチゴ大会のあとそれぞれに寝ることになった。
隣の部屋でスバルさんはどうやら少女雑誌を読んでいるようで、ページをめくる音が、静かに聞こえてくる。スバルさんはしばらく静かに少女雑誌を読んでいたが、ふいに「ちきしょう!」と叫んで少女雑誌を壁に投げつけたようだ。どか、と鈍い音がする。
「どうしたのさ、そんなに荒れて……ちきしょうなんて女学生さんの言うことじゃないよ」
「ちきしょうですよちきしょう。なんで。なんであたしよりずーっと頭のいい、のんちゃんがお嫁にいかなきゃいけないんですか……」
「え? ど、どういうこと、……?」
「そのまんまです。のんちゃんのお母さんが、縁談を必死になって探してるらしいんです。お父さんはそんなに急がないでも、って言ってくれるらしいんですけど、のんちゃんのお母さん、なにかに急かされるみたいに縁談を探してて、振袖着て見合い写真も撮ったって……」
「それはわかったけど、なんで雑誌に八つ当たりしたんだい。のぶゑさんの家にはのぶゑさんの家の事情があるって納得してたじゃないか」
「これ、令嬢世界の最新号なんですけど、連載小説の『愛の夢』で、律子が侯爵家にお嫁入りするとこだったんです。読んでたらイライラしてきて。なんで。なんで女の子はお嫁に行く人生しかないのかしら……」
「お嫁に行く以外の人生だってあるんじゃないのかい? 少なくとも僕はそう思うけど」
「清さんは、未来から来てるから――そう思うんですよ。未来がどんなところか知らないですけど、清さんのいた時代は、きっと男女が平等だったんでしょうね。ふつう、男の人って、もっと女に乱暴ですよ。馬鹿にするし、女のくせに、って言うし……」
「僕もそうすればいいかい?」
「それは嫌です……清さんは清さんのままでいいんです。あーあ、世の中の男の人が、みんな清さんみたいだったらいいのになあ……」
スバルさんはため息をついて、
「うむ、ばかばかしいわね。さっさと寝よう。おやすみなさい」
と言って布団に入団(?)してしまった。
欄間から、明かりが消えたのが見えた。
僕も明かりを消して、寝てしまうことにした。この時代じゃ珍しくないことだ。むしろ、女学校を卒業してしまうのはブサイクの証みたいな時代なのだ。それに、どうあがいたって他人だ。よその家だ。僕が心配する筋合いではない。スバルさんは友達がひとりいなくなってさみしいかもしれないが、それだって僕にはなんの関係もない。
そうやってできる限りドライに考えようとするのだけれど、……それでも、スバルさんが「ちきしょう」っていうくらい悲しいのだと思うと、心の奥のほうがずきずきする。心ってどこにあるんだ? 胸のなか? 感情は脳から発生するはずなのに、心臓のあたりがきいーっと痛い。
スバルさんは明るい女の子だ。だけれどそれでも、悲しみとか怒りとか、そういう感情を持ち合わせていて、それがこの時代の普通なのだ、と思ってせつなくなる。
でも僕にできることは何一つないのだ。
無感情な世界からやってきた僕が、いつの間にかたくさんの感情を持っていることに、僕はひとり驚きながら……眠りについた。
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