5-1 ドジョウ鍋

 というわけで、その次の日曜日。


 畑中のやつは「浅草のしろ田っていうドジョウ鍋屋」というおそろしくざっくりした情報しかくれなかったので、早めに出てじっくり探すことにした。だいたい博士の家から浅草はちょっと遠い。サジェストされた一時間という情報は二十一世紀の地下鉄があった時代のもので、実際はもっと遠くて時間がかかった。


 空はどんよりと曇り、なんだか気分の悪い天気だ。一雨くるだろうか。


 その、「しろ田」というドジョウ鍋屋を見つけたのは、ちょうど十二時くらいで、入るのと同時に雨が降り出した。


 奥の席で、畑中が煙草を吸っていた。きょうは学生服でなく着物だ。その席の向かいに座る。


「煙草なんか吸ったら肺がんになるぞ」


「別にいいだろ。俺のいる政治家先生の書生軍団はみんなヘビースモーカーだ。俺一人お楽しみから遠ざかっているのももったいねえだろ」


「軍団……ってそんなにいるのか? 僕んとこは僕一人だ」


「おう。先生が若い才能大好き爺さんでな、書生だけで十人近い。犬の散歩係とか盆栽の水やり係とか、こまごま仕事が割り振られてる。俺は文鳥の餌やり係だ」


「え。お前の仕事、鳥に餌やるだけなの。僕は炊事洗濯掃除なんでもやらされるぞ。なんだこの差」


「まあどうだっていいだろ。すみませーん。ドジョウ鍋二人前」


 店員さんがはーいと返事をした。畑中は煙草を灰皿でもみ消すと、


「……意識指向性フィールドを展開してある。俺らの会話の、この時代の人に聞こえちゃまずいことは周りには聞こえていない」


 と、そう言ってあたりを見た。天気が天気なのでお客さんは少ない。


「まず言わなきゃならんことは、お前は馬鹿かということだ。なんで川に落ちる。そんでなんで翌朝まで時空通話機をなくしたことに気付かない」


「しょうがないだろ慌ててたんだから」


「お前、まさか同時代性フィルタが暴走してるのか?」


「は?」


「だから。お前、二十三世紀の名前言えるか?」


「……はい?」


 二十三世紀の名前? 僕は古川清だ。ほかに名前なんて……いや。あったはずだ。えらく味気ない、記号と数字が並んだだけの名前が。だが思い出せない。どういうことだ。


「やっぱりか」


 畑中がため息をついて、着物の懐から煙草を取り出して、店のマッチで火をつけた。薄紫の煙がふわっと立つ。


「今なら帰れるぞ。帰還のタイムリミットはきょうの夜だ。どうする?」


「今なら帰れるって、二十三世紀にか?」


 そうだ、と畑中は頷いた。


 二十三世紀。ディストピア以外のなんでもない世界。なんでそんな世界に帰ることを、畑中は勧めてくるのだろう……。


 しばらく考えて、


「まさか時空検証ではなく僕自身が、歴史に影響を及ぼすとかそういう理由か?」


 と、そう尋ねると、畑中は頷いた。そして、


「そうだ。お前は特異点で、この時代に残るとしたらそれはいわば人柱だ。この時代にいれば、歴史は確実にねじれて、時空検証以上の変化をもたらす。時空検証委員会の検証の範疇を超えるレベルだ」


「たとえば二次大戦でアメリカがその……核兵器を作る前に、僕が作って、ニューヨークとワシントンに落とすとか、そういうことか?」


「知らんよ。そもそもこの先の歴史はだれも知らないからな」


 そうやって話しているところに、ドジョウ鍋が運ばれてきた。鉄鍋にドジョウを煮てある。畑中はウキウキの顔でばりばりドジョウを食べ始めた。僕も恐る恐る箸をつける。


 味はとてもおいしいし、滋養もありそうだが、えらく骨っぽい。


 僕は例によってモゴモゴ食いになっているようで、畑中に


「なあ、お前ちゃんとしたもの食ってるのか?」


 と心配されてしまった。


「食べるより酒のほうが好きだな」


「酒ねえ。さっき煙草をたしなめたのブーメランじゃねえか」


「ははは……で、どうするんだ?」


「どうするもなにも……元の時代に戻ってやっていける自信がみじんもない。僕は残る」


「本当にいいのか? 今晩中に帰還しないと、二度と二十三世紀には戻れないぞ?」


「あのディストピアに戻る理由が分からない」


「言うねえ……。たしかにここはいい時代だな。食い物はうまいし、女の子はかわいいし、空が青い」


「きょうは雨降りだけどな」


「だけど、だ。仮に地震を停めたとする――それでも昭和の御代になれば、第二次世界大戦があるぞ。厳しい物資統制や言論統制があって、みんな腹をすかしてて、そのあと東京は焼け野原で、お前自身生きているか分からない。それでもいいのか?」


「だって二十一世紀の年寄りは戦争を乗り越えた年寄りだったんだろ。なんの問題もないよ」


「楽観的だな」


「――滅びゆく二十三世紀に帰るよりはずっとずっとマシだ」


「そうか。……わかった、上にはそう伝えとく。俺のタイムリミットは地震が停まるよう操作されるまでだ。それまでにはリペアキットを届けてもらってお前の時空通話機を修理する」


「りぺあ……きっと?」


「リペアキットだ。故障を修理するやつ」


「リペアキット。ああ、リペアキットな。わかった思い出した」


 畑中はため息をひとつついて、ドジョウ鍋をぼりぼり食べた。僕もドジョウ鍋を食べる。確かにこれは滋養がありそうだ。


「スバルさんに食べさせてやりたいなあ……」


「心の声がダダ洩れになってるぞ。だれだスバルさんって。これか?」


 そう言って畑中は小指を立てた。


「そんな下品なもんじゃない。お世話になってる星野博士の一人娘で、女学校の五年生だ。ちょっと病弱で、女学校の良妻賢母教育を受けて、健康な奥さんになりたいっつって牛乳を毎朝飲んでる」


「お前まさかその子に惚れてるのか?」


「……あ?」


 惚れる?

 僕がスバルさんに?

 ぼっと顔に火がついたみたいになった。


「ははは。図星だ」


「ち、違うよ! なんていうか、守ってやんなきゃって思わされるだけで、別に好きとかでは」


「またまたぁー。一人娘ってことは婿取りか? 俺ぁ女学生っていう人種が周りにいないもんで、だから小耳にはさんだ程度だが、この時代の女学生さんは普通に退学して結婚すんだろ?」


「博士は女高師にいれるつもりでいるらしい。勉強はそれなりだけど頭はいい。それこそ小学校の先生にでもなればいいんじゃないかねえ」


「……へえ。で、お前性交渉訓練の成績どうだったんだ? 結婚するならそういうことするんだぞ?」


「よせよ。思い出したくもない」


 性交渉訓練のことを一瞬思い出して、ちょっと不愉快な気分になる。ああいうことに点数をつけるという感覚が分からない……。


「だいたい結婚するなんて一言も言ってない」


「そうかぁ? ……でもこの時代に残るなら、確実にだれかと結婚するぞ?」


「……それは」


 僕は少し黙ってドジョウ鍋をばくばく食べた。


「……とにかく分かった。二十三世紀には帰らない。一生古川清として生きて、この世界がどうねじくれるか見届ける、ってことだな。上にはそう伝えておくぞ?」


「……おう。すまないな」


「大丈夫だ。それが俺の仕事だからな……ところでお前なんて言って下宿を出てきたんだ? 俺とお前なんの接点もないよな」


「大学で肩がぶつかったぶつからないで喧嘩して友達になったって言った。お前は逢引きとでも言って出てきたんだろ、その感じは」


「まあな。カフェーの女給さんとドジョウ鍋っつって出てきた」


「自由だな」


「自由だぞ?」


「自由……か」


 僕はふと、二十三世紀の日々をかすかに思い出していた。


 どこまでも真っ白で均一な世界。この世界とはえらく違う、ただただ滅びゆくだけの世界。


 そこでの日々は、毎日が同じで、天気すら変わらない。


 なんて不自然なんだろう……。


「……あのさ」


「どうした?」


「僕は、スバルさんのために、地震を停めるつもりでいる」


「時空検証委員会のエージェントとしてでなく、か?」


「そうだ。僕はこの時代の人間になる権利がある。そうだろ? エージェント規則通りだ」


「まあ――エージェント規則にあるけどな、目的遂行のためならエージェントの立場を捨てて当時の人間になっていいと。まさか本当にやるやつがいるとはな」


 畑中はドジョウ鍋を食べ終え箸をおいた。


 僕もどうにかドジョウ鍋を平らげた。


「そのあたりのこともちゃんと連絡しておくから安心しろ。……そろそろおあいそするか。なんならミルクホールでカステラでもつつくか?」


「もう話すこともあんまりないだろ……。まあ、おたがい頑張ろうや。で、ここお代はいくらなんだ?」


「誘ったのは俺だ。俺が奢るよ」


「お前書生なのにそんな金あんのかよ」


「おう。先生主催の書生同士の将棋大会っつうのがときどき開催されててな、勝ったやつにはご褒美が出る。脳内インプラント使って確実に勝てるやり方で戦うから俺が連戦連勝だ」


 なんだそれ。待遇の違いがひどすぎる。


 とにかく畑中が奢ってくれた。


 ドジョウ鍋屋を出ると雨はいっそう強くなっていて、ばちばちと激しくたたきつけるように降っていた。傘もないし、足元は素足にゲタなので鼻緒に水がしみてべちゃべちゃする。


 どうやって帰ろうか。そう思っていると畑中が蛇の目傘を僕に渡した。


「俺んとこは洗濯は女中さんがやってくれるからさ。お前は自分で洗濯すんだろ? 持ってけ」


「いいのか?」


「おう。まあ、気をつけてな」


 畑中は雨の中走り出した。僕も傘をさして、てくてく歩いて駅に向かった。列車を乗り継いで博士の家に帰ると、スバルさんがもう仕立て上がったのか、新しい着物を着ていた。


「どーですか清さん。可愛いでしょ」


「うん、すごく似合ってる。モダンな柄だね」


「明日これ着て女学校いきます。ところで、お友達とドジョウ鍋、どうでした?」


「おいしかった。いかにも滋養がありそうだし、スバルさんに食べさせてあげたいと思った」


 スバルさんは目を点にして、それからちょっと呆れたような顔をした。


「そんなこと考えてたんですか。せっかくお友達とお食事なのに」


 その日は雨で出かけるのが億劫ということで、ありもので夕飯をすますことにした。お浸しと漬物と大根の菜っ葉の味噌汁。それからご飯。なんというか野菜ばっかりだ。きっと畑中は政治家の先生の家でおいしいもん食べてるんだろうなぁ。


 夕飯を食べ終えるころには、雨はすっかり止んでいた。この傘返さなきゃないのかな。畑中はなにも言っていなかったし、特に名前が入ってるとかではないし、預かっておこう。


 みんな寝静まってから、天袋をまたしても開けた。もう時空通話機の画面に水は溜まっていない。もしや電源が入るかもと操作するが、一瞬画面がちかっと光るだけで、結局動かなかった。


 ――時空通話機が動かないまま、五月になった。


 二十世紀後半くらいから五月には連休があったそうだが、この時代はハッピーマンデーもないので、連休らしい連休はない。


 スバルさんは毎日汗だくで帰ってくる。女学校の規則で衣替えの時期が決められていて、このアホみたいに暑い五月だというのに裏地のついた着物を着ねばならないからだ。それに比べえて僕なんかは当たり前みたいに単衣の着物にシャツなので、圧倒的に楽だ。


 きょうもスバルさんは帰ってくるなりたたみの床に寝っ転がっている。


「おつかれさま」


「はあ……早く六月になんないかな。そしたら単衣の着物着られるのに」


「六月になったら梅雨じゃないか」


「あっちいよりはマシですよ」


 スバルさんはため息をつく。

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