3-1 ちくわ大明神

 さてその日も大学にいき、帰ってきてから買い物かごをもって商店街に向かった。まだスーパーマーケットというものはなくて、魚屋だ肉屋だ八百屋だ何でも屋だ、みたいな感じだ。


 ちくわはお総菜屋さんで売られていた。どうやら手焼きしたものらしい。香ばしい香りがする。ちくわとひじきとニンジンの煮物をつくろうと、乾物屋でひじきを、八百屋でニンジンを買った。とても充実した買い物である。


 帰るがまだスバルさんは帰ってきていなかった。しょうがない、やれるだけやってみよう。ひじきをもどして、ちくわとニンジンをおっかなびっくり切って、鍋に放り込み醤油とみりんで味をつける。


 どうにか、食べ物をおいしそうだと思えるくらいにはなってきた。経口摂取訓練がキツすぎて、食べることに恐怖心があったのかもしれない。


 そうやっているとスバルさんの自転車の音が聞こえた。がっちゃん、とスタンドをたてて自転車を停めたようだ。


「ただいま帰りましたー……うわあいい匂い! 清さん料理できるじゃないですか。なんですこれ、ひじきとニンジンとちくわの煮物ですか?」


「うん、なんだかちくわが食べたくて……これぞちくわ大明神だ」


「ちくわ大明神?」


 しまった。

 二十三世紀から見れば二十世紀も二十一世紀もごっちゃだが、この時代はコピペ文化はおろかインターネットすらないのだった。スバルさんはすごく真面目な顔で、


「なんですか、ちくわ大明神って」


 と尋ねてきた。


「え。えーっと、そうだね、すごく辺鄙なところから出てきた大学の友達の村に祀られてる神様で、ほ、ほら、ちくわって穴が開いてて先が見通せるから、学問とか商売とか、そういうのにすごいご利益があるんだって」


「へえー! そうなんですか! まさに八百万の神々ってやつですね! 拝んだら数学の成績よくなるかしら。なむなむ……」


 ここまで嘘をついてしまったので、嘘をつきとおすことにした。


「スバルさん。ちくわ大明神は仏様じゃなくて神様だからこうだよ」


 僕はちくわの煮えている鍋に向かって柏手を打った。すごく馬鹿な事をしている気分だ。


 しかしスバルさんは大真面目で柏手を打っている。すごく悪いことをした気分である。いっそ、すごくおいしいからちくわ大明神、くらいにとどめておくべきだったと後悔する。


「数学の居残り勉強、どうだった?」


「うーん。数学って勉強することになんの意味があるんですか?」


 すごく根源的でだれでも考える疑問である。

 だが僕は帝大の学生で物理学を学んでいる身だ。ちゃんとお手本を見せねばなるまい。


「うーん。数学っていうのは、学問のなかでも高等なもので、……理論を見つけて考えることで、頭を鍛えるみたいなところがあるから……数学をちゃんとやれば理科の成績もよくなるから、そうだね、ものの考え方を覚える、ってつもりでやればいいと思う」


「ものの考え方、ですか」


「そう。勉強で大事なのは、考えることだよ。なんでも暗記すりゃいいってもんじゃない。例えば国語の百人一首だって、ただの古語の羅列をそのまま覚えるんじゃなく、こういう理由で上の句と下の句がつながってるんだ、って意味を把握できれば覚えやすくなるんじゃないかな」


「すごいですね、さすが帝大生」


「博士からスバルさんに勉強を教えてほしいって頼まれてるからね」


 そんな話をしていると玄関ががららーっと開いた。博士が帰ってきたのだ。


「ただいま。なんだかいい匂いがするね」


「お父さん、清さんお料理とっても上手よ。ちくわの煮物作ってるの。すごくおいしそう。それから、ちくわ大明神ってお父さんはご存知ですか?」


 スバルさん、フェイクニュースを拡散しないでくれ……。


「なにかねそれは。どこに祀られてる神様だい」


「なんでも、清さんのお友達で、すごい田舎から出てきたひとの故郷の村に祀られてるらしくて。穴が開いててむこうが見通せるから、学問と商売の神様なんだそうです」


「へえー。面白い神様がいるものだねえ。まあこの国は八百万の神々の国だ。ちくわが神様でもなんにも変なことはない。タワシだってずっと使えば神様になるらしいし」


 セーフ。博士が学者馬鹿で助かった。


 というわけで夕飯の支度ができた。スバルさんがお酒を温めて、きょうも白米ではなくアルコールをとる日になってしまった。


 ちくわの煮物を肴に、大きな酒造会社が出していてどこの酒屋にいっても売っているお酒のぬる燗をちびりちびり飲む。おいしい。ちくわは思っていたより弾力があり、かつ柔らかく、とてもおいしい。


「あぁスバル、牛乳の宅配、頼んできたよ。明日から届けてくれるそうだ」


「本当ですか? やったあ。あ、お父さん、明日の午後から、のんちゃんと蓉子さんと、ここで刺繍して遊びたいんですけどいいですか? 蓉子さんが新しい刺繍の図案集をお兄さんに買っていただいたらしくて」


「いいよ。明日は土曜日で半ドンか。でも刺繍ばっかりでなくちゃんと学校の勉強もしなさい」


「はぁい」


「数学の居残り勉強はどうだったのかね」


 博士はそう言い、くいっとお酒を飲んだ。スバルさんがお酌する。


「フツーですヨ。不思議なことに、試験でなければ普通に解けるのに試験になると途端に解けなくなるんです。なんですらすらできるのにあの点数なんだ、って先生に叱られました」


「スバルさんってあがり症なの?」


「結構あがり症です。試験が始まって問題と答案用紙が配られると、とたんに心臓がばくばく言うんです。清さんのくる前の日に、四年生のときに習ったものの試験があって、直接落第とかにはかかわらないのにすごくあがっちゃって」


 スバルさんは苦笑した。それから僕にお酌して、僕もお酒を飲む。内臓が温まって気持ちがいい。


 夕飯のあと、博士は囲碁の本を読み、スバルさんは繕い物と和裁の宿題を進め、僕はノートの整理をした。紙に鉛筆で書くというのはとてつもなくアナログだが、電子画面でちかちかする文字を追いかけるよりずいぶんと楽だ。


 そのあとでてんでに浴衣に着替えて寝た。最初は植物性繊維の服なんて気持ち悪いと思っていたが、この浴衣というやつはとても着心地がいい。やわらかくて汗をよく吸い、寝るときに身につけるものとしては最高かもしれない。


 翌朝目が覚めて、恐る恐る天袋を開けてみた。時空通話機はやっぱり壊れている。しょうがない。布団をたたみ、浴衣を脱ぎ、シャツを着てその上から着物と袴を着る。いわゆる書生さん、という感じだ。


 顔を洗って台所に向かうと、スバルさんがいつもの黄色い銘仙でなく、もっとモダンな花柄の着物を着て、袴の上から前掛けをつけて料理していた。味噌汁を煮ている。ほうれん草の味噌汁だ。ここのところやたらとほうれん草を摂取している気がするが、恐らくスバルさんの好物なのだろう。


「おはよう」


「おはようございます。きょうは半ドンなのでお弁当はいらないですよね?」


「うん。それにしてもスバルさん、その着物おしゃれだね」


「土曜日なので、ちょっといい着物を着てみました。えへへ。清さん、牛乳取ってきてもらえます?」


「うん。いまいく」


 玄関前に出ると、知らないうちに設置された牛乳瓶を入れる箱があって、開けると中から牛乳瓶が三本でてきた。どうやら僕と博士のぶんもあるらしい。かかえて台所に運ぶと、さっそくスバルさんが一本ぐびぐびぐびーっと飲み始めた。


「あーおいしっ! 健康の味! 清さんもどうぞ」


 僕も牛乳瓶をとり、フタをとって飲む。動物性たんぱく質の匂いがするけれど、肉のように口の中に油が残ったりはしない。悪くない味だ。


 博士もようやく起きてきて、牛乳を飲んだ。


「うん、牛乳というのは悪くないね。なるほどミルクホールに通いたくなるわけだ」


「さ、朝ごはんにしましょうか。お父さんもお弁当はいらないですよね?」


「うむ。適当に食堂で済ませるつもりだ」


 みんなで味噌汁とご飯とお新香の朝ごはんを食べる。スバルさんの漬けた漬物はおいしい。最初は独特な匂いにびくびくしながら食べていたけれど、慣れるとおいしい。


 スバルさんは自転車で女学校に向かった。僕と博士は列車で帝大に向かう。


 半ドン、というのはようするに半休。土曜日の午後はお休みなのだ。


 昼まで授業を受けて、列車で家に帰ると、スバルさんたちがもういて、図案集を見ながらハンカチなんかに刺繍をしている。図案集はどうやら舶来のものらしい。


「おかえりなさい清さん。ご飯はおひつの中です。梅干しでお湯漬けにでもして食べてください」


「わかった。のぶゑさんも蓉子さんもこんにちは」


「こんにちは。清さんも元気そうでよかったです……ああそうだ」


 のぶゑさんはすっと立ち上がった。


「ちくわ大明神って、本当のところ、なんなんです?」


「だから辺鄙なとこ出身の友達の村に祀ってあった……」


「嘘ですよね」


「いやいや」


「絶対嘘ですよね。そんなの聞いたこともないし、そもそも――清さんは何者なんですか?」


 えーっと。どう答えたもんだろう。


「うん、口をついて出てしまった嘘だ。語呂が面白いでしょ、ちくわ大明神」


「嘘なのは認めましたね。このジョークは清さんが考えたものですか? ちがいますよね?」


「……なんで、そう思うんだい?」


「なんていうか――清さんのしゃべることややることって、スウちゃんから聞くぶんには、なんだか違和感があるんですよね……リンゴ農家の長男が帝大に入ります?」


「そりゃ僕の実家は床の間に刀を飾ってるタイプのリンゴ農家だから」


「津軽だとそういう家は珍しくないと聞きました。もとがお武家様のリンゴ農家が多いって」


「ほ、ほら組合とかも牛耳ってるような……」


「津軽のリンゴ農家の組合は去年できたばかりですよね?」


「なんでそんなに津軽のことに詳しいのさ……」


「スウちゃんの叔父さんからの手紙を見せてもらったんです。去年は大凶作で、組合ができてたからなんとかなった、って。スウちゃんのおじいさんのお家も、床の間に刀を飾ってるはず」


「……そうなの、スバルさん」


「はい。何年か前遊びに行ったら、刀が床の間に飾られてました」


「でもその理屈でいったらスバルさんのお父様はどうなるんだい。それこそリンゴ農家から帝大教授じゃないか」


「スバルさんのおじいさんおばあさんのお家は、リンゴ農家じゃなくて地主です。スバルさんの叔父さんは分家なのでリンゴ農家をしているんです」


 のぶゑさんは理詰めっぽい考え方でそう詰めてきた。答えに窮する。


「スウちゃんは清さんからご実家のことを聞いたことがないって言ってました。どうなんですか? ご両親の名前は? 家の番地は?」


「そんなことを知ってどうするんだい。僕の個人情報に踏み込んでなにがしたいんだい」


「まあ、質問攻めにしても気まずいですし、このへんでやめておきます。ところで、天袋にはなにをしまっているんですか?」


「て、天袋?」


「スウちゃんが言ってました。清さんがときどき天袋を開けてるって。なにが入ってるんですか?」


「な、なんだっていいじゃないか……ああ、詩を書いた手帳だよ。読まれたら恥ずかしいから、天袋にしまってるんだ」


「……そうですか」


「それより僕ご飯食べていいかい?」


「ああ、ごめんなさいね。どうぞどうぞ」


 台所でおひつからご飯を茶碗によそい、梅干しを乗せて、やかんでお湯を沸かしてご飯にかけた。


 茶の間に戻って食べようとちゃぶ台に置く。蓉子さんのものらしい高級そうな刺繍糸や、優雅な洋裁用の裁縫箱が置かれ、女の子たちは楽しそうに刺繍をしている。


 僕は梅干しのお湯漬けご飯をちゃかちゃかとかっ込んで、茶碗を片付けた。


「そうだ清さん、お夕飯のお買い物お願いしていいですか?」


「もうかい? みんな帰ったあとじゃダメなの?」


「やっぱり天袋になにか隠してるんですね?」


 のぶゑさんがそう言い刺繍糸を束からすっと一本抜いた。


「そんなことないってば。ただの詩の手帳だよ。なにがしたいんだい、きみたちは……」


 僕が困っていると、蓉子さんが妖艶な笑みを浮かべた。


「単純に好奇心ですわ。殿方の部屋にはなにがあるのか。わたくしたち女学生には想像もできない。殿方がどんな日常を過ごしているのか、わたくしたち女学生は遠ざけられて知ることはない」


「うーん……君たちが面白いものなんて、なんにもないよ?」


「本当に?」


 蓉子さんが、好奇心をきらきらさせて、そう言った。

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