2-2 ゴンドラの唄

 半分気を失いかけているスバルさんに軽くパニックを起こす。どうしよう。こういうときってどうするんだっけ、ええっと。とりあえず横にしてあげよう。座布団を枕にして、スバルさんをたたみのうえに横たえた。スバルさんは半目のまま荒く息をついている。


 ええっと。ええっと。そうだうちわだ。壁の状差しに乱暴に突っ込んであるうちわをとり、スバルさんの顔をパタパタ仰いだ。スバルさんの顔色は青い。


「だいじょうぶ、です。ただの、貧血……です」


 スバルさんはそうつぶやいて、体を起こそうとするものの、まだ貧血気味らしくうまく起きられない。心配になってその表情を見る。色白を通り越して蒼白なスバルさんを、不安になりながら見つめるばかり。


 かれこれ三十分ほどスバルさんを見ていただろうか、ようやくスバルさんの顔色が戻ってきた。ふううーっとため息をついて、スバルさんは起き上がった。


「だ、だいじょうぶ?」


「大丈夫ですよー。この通り元気モリモリです。お風呂沸かさなきゃ」


「寝てなよ。僕がやるから」


「あんまり心配されると、自分がすごく弱くなったみたいで悲しいので、やらせてください」


 スバルさんは立ち上がって、風呂を沸かすガス釜をいじりに内湯に消えた。


 自分がすごく弱くなったみたいで悲しい。


 スバルさんの握って発した言葉は、せつなかった。きっと、スバルさんはお母さんが弱っていくのを、「お母さんがすごく弱って悲しい」と認知していたのだろう……。


 そうか、江波の栄養菓子がお気に入りなのも、ミルクホールが好きなのも、健康体になりたい一心なのか。栄養を取って強くなりたいのだ。その思いがまた、僕の心のなかで、ぎしぎしと音を立てて膨らんでいく。


 スバルさん……。

 スバルさんはいなくなってしまった母親の代わりに台所に立ち、洗濯し、繕い物をし、掃除をし……いわば主婦の仕事をまるごと引き受けている。それを女学生と兼業している。


 女学校というところは良妻賢母教育をするところだから、弱い自分はふがいないだろうし、いつか母親になる日のことを考えない日はないだろうし、……とにかく、可哀想だ。


 そう思っていると内湯のほうから「がったーん!」と大きな音がした。びっくりして立ち上がり、内湯に走っていくと、スバルさんが腰を抜かしてへたり込んでいた。


「ど、どうしたの?」


「きききき清さん、げ、げ、ゲジゲジが出ましたぁっ!」


 スバルさんはそう言い、風呂場の隅のほうを指さした。ゲジゲジが、長い脚をしゃかしゃか動かしてタイル張りの風呂場を駆け抜けていく。


「びっくりしたじゃないかあ。春だし虫くらい出るさ」


「だってゲジゲジですよ。足いっぱいあってチキチキ動いて、あー気持ちわるっ!」


 スバルさんはぶんぶん首を振った。


 僕がそいつをぞうきんでつまみ、内湯の窓を開けて庭に逃がしてやった。


「これでよし」


「どうしよう……タイルの裏側とかに卵ぎっしり産んでるとかそういうことないですよね、うへえ気持ちわるっ……」


「ゴキブリのほうがよっぽど嫌だよ」


「……ゴキブリ?」


「……ゴキカブリ」


「ゴキカブリも嫌ですけど……あれはどうすればいいんでしょうね?」


「あれは見つけ次第丸めた新聞でぶん殴るほかないなあ」


 スバルさんは腕まくりをしていて、真っ白くて華奢な腕が見えていた。いまにも折れそうなほど細い腕だ。しばらく見ていると、スバルさんは大正時代の古写真の女性がそうするように、あわてて腕を引っ込めて袖口からちょっとだけ指を出した。ガス釜が湯舟を温めているようで、スバルさんはため息をついて、


「一番湯はいっつもお父さんなんですけど、きょうはどうしましょうね――」


 そうつぶやいた時、がらがらと玄関の戸が開く音がして、


「ただいまー。スバル、どこだい」


 と博士の声が聞こえた。


「はーい今行きまーす」


 スバルさんはそう答えて、小走りで風呂場を出ていった。

 とりあえずお湯がめちゃくちゃ熱くなっているのでガス釜を停めて、茶の間に向かった。


「きょうはほうれん草とニンジンの白和えです」


「おお、おいしそうだね。……スバル、顔色がよくないよ」


「そ、そんなことないですよ? 元気やる気イキイキです。あ、お風呂……清さんガス釜停めてくれました?」


「うん。すっごくあっついから、しばらく冷まさないと」


「よーし。そいじゃご飯食べたらお父さんお風呂入ってくださいね。えっと、お酒……どうします? きょうはどこかで飲んできたんですか?」


「いや? きょうはただの会議。会議のあと赤ちょうちんに誘われたけど面倒だから帰ってきた。あんな偏屈な連中と飲んだって出てくるのは自分の研究分野の話ばっかりだからね、楽しくないということを最近悟った」


 博士はそう言い、どっかりとあぐらをかいて座った。スバルさんが蝿帳をとり、みなで食卓につく。


「でもときどき飲みに行かれますよね。どなたと飲んでいるんですか?」


「OBとか研究室の学生とか……自分が若いころの仲間とか。そういう酒は楽しいんだが」


「もしかして大学の近くのカフェーとかいういかがわしいところに行かれるんですか?」


「カフェーなんていかがわしいうちに入らんよ。本当にいかがわしいのは赤線地帯だ」


「そういう問題じゃないです。カフェーでお仲間とお酒飲むんですね? かわいい女給さんにお酌してもらって」


「うぉっほん。そういうスバルこそ、ミルクホールに入り浸ってるそうじゃないか」


「え。なんで知ってるんですか」


「カマをかけただけだよ。やっぱりミルクホールに通っているのだね?」


 スバルさんは単純なのであった。スバルさんは大きなため息を一つふああーっとついて、


「だって牛乳が好きなんですもん。しょうがないじゃないですか」


「だったらうちで宅配の牛乳とるかね? 今朝の新聞にチラシが挟まっていたんだが」


「宅配……ですか。いいんですか?」


「もちろんだとも。ミルクホールにいくのは牛乳を飲んで元気になりたいからだろう? 家で牛乳が飲めれば、カステラだのプディングだのおやつを頼む必要もあるまいし」


「やったあ。お願いします」


「じゃあ明日仕事の帰りに配達屋さんに申し込んでくるから、勝手にミルクホールにいかないと約束できるね?」


「……ハイ」


 博士はハハハと笑った。スバルさんはミルクホールを禁止されて少し残念そうな顔だ。


 居酒屋で飲む酒と家で飲む酒の味が違うように、ミルクホールで飲む牛乳と家で飲む牛乳は別物なのかもしれない。スバルさんは口を尖がらせながら野菜の白和えをもぐもぐ食べる。僕もそれをおかずに、冷えたご飯を蒸かしたおいしくないご飯を食べる。


「スバル、燗をつけてくれないか。昨日の清君が持ってきたお酒は――」


「きのうのうちにぜんぶ飲んじゃったじゃないですか」


「そうかぁ……じゃあいつもの酒でいいか。ぬる燗で」


「はい。それじゃあいまから燗してきますね」


 スバルさんが立ち上がり、台所で徳利にお酒を注ぎ、お湯の沸いている鍋に入れた。


 甘い、品のいい酒の香りが漂ってくる。


「清君、学業はどんな調子かね?」


「まだ先生方の自己紹介くらいです」


「そうか。スバルを女高師に入れようかと思っているから、スバルの勉強も見てくれるとうれしい」


 博士はそう言い、ちゃぶ台に置かれたお新香をひとつ取ってぽりぽりかじった。


 燗がついてスバルさんが徳利を持ってくる。


「はい! 燗がつきました! 清さんも飲まれますか?」


「いや、僕は……」


「そう言わずに飲みたまえよ。……ああ、飲み方をほどほどにして風呂に入らなきゃならんな。協力してくれないか。今日は徳利一本でやめておくから」


 うわばみの博士にしては少なめである。僕もしょうがなく参加することにした。


 食べ物を食べるのは得意ではないが、酒というものはわりと好きだ。匂いこそ刺激的だが、飲んでしまえば体の中がぽかぽかに温まり気持ちがいいからだ。


 あっという間にとっくり一本終了し、博士からお風呂に入ることになった。僕は最後だ。


 博士が上がり、浴衣で現れた。眠かったらしく博士は早々に寝てしまった。


 スバルさんも浴衣姿で上がってきた。洗い髪はよく拭いているが、ドライヤーなんてものはないので、長い髪から白い浴衣にぽつぽつとお湯が落ちている。


 ちょっとのぼせ気味のスバルさんは僕に風呂に入るように言った。僕は素直に、風呂に入ることにした。


 二十三世紀では衣服が体の汚れを取り除いてくれるので、風呂に入るという概念がない。お湯に体をひたす訓練は受けたが、なんだか怖い。


 着物をすっかり脱いで、お湯をざっと浴びてからお湯につかる。ちょっとぬるい。


 ため息がでる。


 時空通話機は壊れてしまったし、僕は無力だ。お湯につかって、意外と男性的な自分の手を見る。僕には今のところなにもできない……。


 スバルさんは、健康になりたい一心で、長く風呂につかるとか、牛乳を飲むとか、未来人からしたら「は?」と思うほど見当違いの方法で健康になろうとしている。


 この時代の人間というのはおおむね栄養状態がよくない。栄養学もそれほど進んでいないのだろう。もっとカロリーのあるものを取らねばだめだ。


 風呂から上がり、短く刈り込んだ髪をがしがし手ぬぐいで拭く。


 体も手ぬぐいで拭く。せめてタオルだったらいいのに。


 浴衣を着て居間にもどると、スバルさんが真っ白くて細い腕を天井に向けて、寝っ転がっていた。小さい声で、なにか歌を歌っている。


「命短し恋せよ乙女……朱き唇褪せぬ間に……」


 ゴンドラの唄だ。きれいな歌詞だなと思って聞いていると、スバルさんは唐突に僕に気付いて、


「うわあ清さん聞いてたんですか! は、はずかしーっ!」


 とでっかい声で言って、腕をひっこめた。


「スバルさんは色が白いね」


「七難隠してこの程度です」


 スバルさんはちょっと卑屈に、そうつぶやいた。


「スバルさんは、好きな人とか、いるの」


「そんなのいないですよ。はしたない。付文をもらったことがないわけじゃないですけど、だいたい蓉子さんに取り次いでほしいって話で、そういう理由で付文の大半はくずかご行きです。……自分宛のは、一回だけもらったことがあります。でも、すっごい普通の顔の普通の男の子で、がっかりして帰りました。字だけはすごく男前だったんです」


「へえー。スバルさんは、どういう男の人が好みなんだい?」


「やだぁ恥ずかしい。清さんって林間学校の夜のおしゃべりみたいなこと聞くんですね。……そうですね、健康的なひとです。身体が丈夫なひとです。あたしより長く生きる人です」


 だから、とスバルさんは続ける。


「もっと健康になって、太って、ブリキの湯たんぽみたいな体形じゃなくなって、貧血とか起こさないようにして……そうならないと、ダメなんです」


「じゃあ、米がメインの、炭水化物中心の食事から、大豆や肉や魚みたいなたんぱく質や、脂質が豊富な食事にしたほうがいいと思うなあ」


「……妙に栄養学に詳しいんですね、清さんって」


 とにかく! とスバルさんは体を起こして、


「あたし寝ますね。明日……あ。このあいだ数学の試験で悪い点数とっちゃって、明日は居残り勉強があるんでした。お買い物、お願いしていいですか?」


 といい、買い物かごを持ってきた。財布が入っている。


「わかった。たんぱく質と脂質を中心に買ってくる」


「なんで成分で表現するんですか」


 スバルさんはそう言って少し笑ってから、縁側を通って部屋にいってしまった。僕ももう寝よう。居間の明かりをぺちんと消して、自分の部屋に入る。


 自分の部屋の明かりをぺちんと点ける。そうだ、二十三世紀にいたころオンライン・サルベージで見た「ちくわ大明神」というのの「ちくわ」というのは、確か魚肉で作った食品のはずだ。たんぱく質補給の名目で食べてみたいものが食べられるぞ。決まりだ、ちくわ。ちくわを買ってこよう。


 ふと気になって天袋をのぞいてみる。時空通話機はうんともすんとも言わず、静かに収まっていた。そっと取り出して画面をつついてみる。中を水がぶよぶよ動くだけだ。


 天袋に時空通話機を戻し、ぴしりと閉めて、布団を引いて横になる。


 ……ちくわって、何屋で売ってるんだろ。お総菜屋さんだろうか。


 そんなことを考えているうちに寝てしまった。


 そして、何の問題もなく、朝になった。

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