2-1 ミルクホール

 スバルさんは時々一人でいって牛乳を飲むというミルクホールに案内してくれた。堂々と、「ミルクホール」という看板が出ていて、モダンな感じのおしゃれな建物だ。


 店に入るとすみのほうの席に通された。スバルさんのいつも座る席だそうだ。メニューを開く。牛乳だけでなくコーヒーやミルクセーキ、カスタードプディング、カステラ、アイスクリームなどが書き連ねられていて、どれも十銭から十五~六銭くらいの値段だ。


 スバルさんは注文を取りに来たボーイさんに、「いつもの一杯」と伝えた。ここは居酒屋か。


 蓉子さんはカバンから上等そうな財布を出して、ちょっと考えてコーヒーとアイスクリームを注文した。どうやらわりと日常的にアイスクリームを食べているらしく、なんの罪悪感もなさそうだが、スバルさんとのぶゑさんはぎょっとした顔だ。


 のぶゑさんはおっかなびっくりコーヒーを注文した。


 僕もコーヒーを頼む。コーヒーなら訓練で何度も飲んで味をよく知っているからだ。値段も学生の身の丈にちょうどいい。


「さっすがぁ蓉子さんったら伯爵令妹」


「ね、ねえ蓉子さん、アイスクリーム一口もらっていい?」


「……おふたりは、アイスクリームを召し上がったことがないの?」


「あたしいっぺんだけある。父と母と、デパートのレストランで食べた」


「わたしはないわ……だって家お寺だもの、お供え物の果物くらいしか甘いものなんて食べないし、外食なんて贅沢しないし。き、清さんはどうなんですか?」


「僕? うーん、アイスクリームは食べたことないな。雪だったら子供のころ食べて遊んだ」


「ゆ、ゆき?」


 女の子三人はぽかーんとした顔で僕を見た。


「そう雪。津軽から出てきてるからね。あれが甘い感じなのかな」


 訓練でほんのちょっと食べたアイスクリームは、甘くて冷たくて、罪の味がしたのを覚えている。実を言うと雪なんか食べたことはないのだけれど、脳内インプラントのサジェストした言葉をそのまま言ったのであった。


 しばらくして、各々頼んだものが次々運ばれてくる。蓉子さんは冷たい印象の美貌で、わがままそうに見えるけれど、自分で口をつけるまえにのぶゑさんに匙を渡した。のぶゑさんはほんのちょっと掬って、それを口にいれて、びっくりしていた。


「あまぁい! おいしい! ありがとう蓉子さん」


「おいしかった? うふふ、おいしいわよね、アイスクリーム。わたくしも大好きよ」


 蓉子さんは匙をコーヒーで温めながらアイスクリームを上品に食べている。


 スバルさんは「いつもの」と言って出てきた牛乳をごきゅごきゅ飲み始めた。まるでおじさんがビールを飲むみたいな飲み方である。いや僕は二十三世紀育ちだから今のところ実際にビールを飲んでいる人なんて見たことはないが、脳内の同時代性フィルタがそう反応したのだ。


「ぷはー!」


「まるでビールを飲むみたいな飲み方ね、スバルさん……牛乳ヒゲになっていてよ?」


「うお。はずかしー」


 スバルさんはカバンから可愛いハンカチを取り出して口の周りを拭いた。ハンカチには可愛い花が刺繍されている。かわいいね、というと、スバルさんは鼻をふんすっと鳴らした。


「これ蓉子さんが刺繍してくれたんですヨ。蓉子さん、刺繍が得意なんです。舶来の図案集とかもいっぱい持ってて」


「ねえスウちゃん、蓉子さんの手柄を自分のもののように言ってるよ」


「あ。……まあいいか。いいよね蓉子さん」


「構わなくてよ」


 三人は箸が転げてもおかしい年ごろらしくけらけらと明るく笑っている。しかし不思議な取り合わせだな、学者の娘にお寺の娘に伯爵令妹。つながりがよくわからない。


「なんで三人は仲良しなんだい?」


「えっと、わたくし……二人と仲よくなる前は、女学校に刺繍の図案集をもっていって、休み時間は一人で刺繍していたんですの。あれは二年生のときだったかしら。十四のときね。ちょっと図案集を机の上に置いて、お手洗いにいって戻ってきたら、図案集に『名ばかり華族』『貧乏華族』って落書きをされてしまって」


「そう。ねじくれた根性の子たちが、蓉子さんのこといじめてて、その落書きの現場を見ていたのんちゃんがあたしと一緒に先生に報告して、いじめっ子たちは学校の包丁ぜんぶ研ぐお仕置きを食らって、それで蓉子さんと話して、仲よくなったんです」


「そもそもわたしとスウちゃんは家が近所で、スウちゃんちはうちの檀家で、小さいころから一緒に遊んでいて。スウちゃんのお母さんのお墓もうちにあります。わたしを女学校に入れるように勧めてくれたのもスウちゃんのお母さんなんです」


 なるほどなぁ。


「それにしても東京の女学生さんなのにセーラー服じゃないんだ。いま都会じゃセーラー服の女学校が増えてるって聞いてたから、博士に娘さんがいるって聞いた時セーラー服なのかなって思ってたんだけど」


「あたしらの三つ下からセーラー服になったんです。いいなー洋装。動きやすそう」


「洋装なんてそんなにいいものじゃなくってよ? 体にぴちぴちで風が通らないもの」


 女の子たちの会話はとても興味深い。そう思っていると唐突に、


「にがっ!」


 とのぶゑさんが唸った。


「そりゃそうだヨのんちゃん。コーヒーは苦いんだヨ」


「お砂糖とミルクいれてごらんよ」


 僕はそう言い、角砂糖とミルクピッチャーをのぶゑさんの前に置いた。


 のぶゑさんは角砂糖を一個とミルクをそそぎ、また恐る恐る口をつける。


「これなら飲めるわ。おいしい」


「よかったね、のんちゃん」


「清さんは、どういう縁でスウちゃんのお家に来たんですか?」


「えっとね。僕の故郷は津軽で、博士と同郷で――事前に博士からいただいたお手紙には、来春女学校を卒業する娘がいるから、書生という異質な人種を見せておきたいって。いままで、書生さんっていなかったの?」


「はい、父一人では目が届かないとかそういうわけで。あれですね、ずばり言うならおひいさまのお嫁入り道具に春画入れとくようなもんですね」


 のぶゑさんがコーヒーを噴いた。


 僕もむせた。ひどい理由だ。


 蓉子さんだけニコニコしている。ちょっと怖い。


 ――津軽から来た書生、なんて、うわべだけのものだ。


 僕は時空検証委員会の時間遡行エージェントだ。この時代に来るにあたって、血統操作で一様になっていた顔に泣きぼくろをつけ、つむじの位置を若干ずらし、それから栄養の経口摂取や喫煙、飲酒、性交渉などの訓練を受けた。同時に、先行していたエージェントが、書類を操作したりして、津軽の若者「古川清」は誕生した。


 二十三世紀は、ひたすらに荒廃していた。バイオ処理施設の高い煙突からはもくもくと煙が上がり、そのバイオ処理の悪臭が漂い、毎日栄養を、この時代における蛇口みたいなものから摂取していた。


 すべて真っ白い、悪夢みたいにきれいな世界で、まもなく人は滅びると、そうばかり言われていた。人は己の業により滅びる、業を捨てそこから救われよと語る新興宗教が乱立し、エージェントのための訓練用食品だって成分から合成しただけの人工食品だった。


 二十三世紀は、この時代より、少し時間の流れが速かったように感じる。ひっきりなしに鳴る気象観測アラート、人類の過去の思い出ばかり映すスクリーンの点滅、しつこく鳴り響く電子合成音楽、……あまりにも、あまりにも……人の命の価値が、薄かった。


 人は死ねば特殊なバクテリアを利用して分解された。いわばバクテリア葬だ。もはや火葬する燃料もなかったのだ。


 それにくらべれば、一九二二年はなんと人道的な世界だろう。僕はコーヒーをすする。合成食品のコーヒーより格段に香りも風味もよい。


 経口摂取訓練で食べさせられたもので好きだった数少ないものがコーヒーだった。もちろん、人体に有害であるというカフェインは含まれていなかったが、そうか、この時代のコーヒーは、コーヒー豆から作るわけだからカフェインが含まれているのか。


 僕がそんなことを考えている間にも、女の子三人の話題は少女雑誌に載っていた洋装の写真や、髪型の話になっていた。僕は生まれて初めて、女の子がファッションの話をするのを見た。


「それよりわたくしは『愛の夢』の話がしたいわ」


「えっ。蓉子さんエス小説好きなの。あたしは読むけど斜め読みだわ」


「だって令嬢世界に毎号載ってるじゃない。全部読まなきゃもったいないわ。それにあの小説大好きなの。律子がびっくりするほど純朴で、珠が身分違いなのにお姉さんみたいで」


 エス小説というと、いわゆる少女同士の恋愛小説だろうか。まあこの八十年ほど後には、ボーイズラブが流行るのだから、女の子はいつの時代でも美しく悲しい恋物語が好きなのだろうな、と思っておく。


「わたしはあんまり好きじゃないわ。なにかしらね、律子と珠がいっつも泣いてばっかりで、ぜんぜんしゃっきりしないから。あんなんじゃ律子と珠がサヨナラした後、律子が侯爵家に嫁いだってまともな侯爵夫人にならないわよ。珠だって北海道に行くんでしょう? 律子に湿っぽい手紙ばんばん出して郵便屋さんを困らせるだけだわ」


「……結局いちばん熱く語ってるの、のんちゃんじゃない」


「やだっ恥ずかしいっ」


 女の子たちはあはははと笑った。「結局アンチがいちばんその作品を好きなのだ」という二十一世紀の格言を思い出す。


「エス小説ってあれでしょ、女の子が女の子を好きになっちゃうやつ」


 三人は火が点いたみたいに顔を真っ赤にした。


「そうだ……清さんがいるんだった」


 スバルさんがいまさらすぎることをぼそっと言った。どうやらこの三人、相当なオタク気質だ。ああ、まだオタクなんて言葉はないんだ。なんて言ったらいいのかな。まあ実際に呼ばないにしても。


 さて、楽しいおやつの時間もそろそろ終わりだ。アイスクリームもコーヒーも牛乳も、すっかりなくなった。さてそろそろお会計して帰るか、と立ち上がろうとしたとき、隅のほうで分厚い専門書をめくりながらカステラをもぐもぐ食べている学生服の人物と目が合った。


 ――エージェントだ。顔だけでわかる。あの顔は二十三世紀の人間だ。日焼けと八重歯を足されているようだが、隠しようもなく血統操作で生まれた顔をしている。


 そいつはほいっと手を上げて、僕もぺこりと会釈した。


 そのうち、接触を図ってくるに違いない。


「お知り合いですか?」


 スバルさんがそう尋ねてきた。


「うん、大学で見かけたことがある。そんなに親しいとかじゃないけどね」


 財布からこまごまとお金を出し、支払ってミルクホールを出た。


「あーおいしかったぁ!」


 スバルさんは満足げだ。蓉子さんは家が別の方向だと言って去っていった。その後ろ姿は、一つも隙のない完全なマーガレット結いに青の着物、海老茶色の袴という麗しい後ろ姿だった。


「蓉子さんだけ方角が違うんだよねえ。残念だなあ」


「しょうがないじゃないスウちゃん。蓉子さんは伯爵家のご令妹なんだから。わたしたち庶民とはそもそも住む世界が違うんだわ」


「でも令嬢世界読んでるよ? しかも『愛の夢』を夢中になって読んでるよ?」


「そうだけど……わたしは『愛の夢』より『野ばら』のほうが好きだったわ。愁子が朗一さんになびくのかそれとも鶴子との友情をとるのかのハラハラしたやりとりが」


「やっぱりいちばん熱く語ってるののんちゃんだぁ」


「……だってうちで楽しみっていったら雑誌読むくらいだもの」


 そういうのぶゑさんの声は、ちょっと沈んでいた。


「うちだっておなじだよ。お父さんすぐ洋書買ってくるからお財布かつかつだし、きのう清さんが来たから奮発して肉料理作ったからしばらく野菜ばっかりになりそうだし」


「えっ。あの豚の生姜焼き、そんなに勇気を出した料理だったの」


「ちょうど女学校の割烹で習ったばっかりだったから作ってみたかったっていうのもあるんですけど、肉はやっぱしちょっと食べ慣れないし、お値段するし……しばらく野菜と豆腐ですね。お魚もあるかあ」


 スバルさんは空を見ていろいろ考えている。夕焼けはだいぶ色を暗くして、住宅街につくころにはすっかり日が暮れていた。のぶゑさんは学校で自習のために居残りをしたのだと言い訳をするらしい。どうやらのぶゑさんのお家はかなり厳しい家のようだ。お寺だそうだし、女学校に入れるのも渋々だったというから、先進的な考え方からは遠かったのだろう。


 星野家の門をくぐって玄関から中に入ると、すっかり中は暗かった。スバルさんは明かりをつけて、きょうの夕飯をどうするか考えている。氷冷蔵庫を開けるとだいぶ氷はちびていて、中には野菜が数種類と豆腐が一丁あるだけだ。


「えーと。白和えにしましょうか。ゴマもあるし……清さん、ゴマすってもらえます?」


「わ、わかった。やってみる」


 すりこぎとすり鉢を渡され、白ゴマをゴリゴリゴリゴリすって、すり終わったところでスバルさんに渡した。スバルさんはにんじんとほうれん草を茹でて豆腐を潰し、白ゴマを混ぜて、それに味をつけて、野菜を和えた。見た目はあんまりよくないが、ゴマのいい匂いがする。


「よしできたっ。きょうはお父さん遅くなるっていってたけど、どうなんだろ……いちおうお父さんの分も寄せておこーっと。勝手に食べたら怒るかな……よし。お風呂沸かそう」


 スバルさんは食べ物とちゃぶ台に並べてから蝿帳をかけて、立ち上がろうとしたところで貧血を起こしてふらりと倒れかけた。慌てて受け止める。

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