1-2 時空通話機

「はいはい!」


 スバルさんはちょっと怒り気味にそう言い、台所に向かった。


 僕は夕飯の豚肉料理をとりあえず自分の分食べることに成功した。頑張ったぞ僕。


 夕飯の食器を片付けて、スバルさんがすべて洗った。スバルさんにまかせっきりでいいのだろうか、と、星野博士に尋ねると、赤くなった顔で星野博士は少し考えて、


「うーん。女中さんがいたときは二人でやってたから、特に大変そうだとは思わなかったが……まあ気が向いたら清君が手伝ってくれれば」


「わかりました。えらいですね、スバルさんは……一人で家事してるんですね」


「まあ、なんだかんだ女学校で習ったことをやってるだけだからね。いわゆる良妻賢母教育ってやつだ。でも体操の時間には袴を膝まで捲し上げて飛んだり跳ねたりしているらしいよ」


 女学生とはどんなものかはざっくりと知っているが、袴を膝まで捲って運動しているというのは知らなかった。スバルさんは食器を水切り籠にならべて戻ってきた。


「よし、宿題!」


 スバルさんは適当に置かれた帆布のカバンをあけて、ノートと教科書を取り出した。数学の課題でうんうん唸っているので、スバルさんが忘れているらしい公式を教えてあげると、調子よくすらすら問題を解き始めた。調子よく国語や地理なんかもさらさら進める。やっぱり親が帝大教授だけあって頭はいい。


「スバルさんは女学校でたら女高師とかいくの?」


「ほえっ?」


「女高師。勉強して先生とかになったらいいんじゃないかな。ただ良妻賢母教育を受けるだけじゃもったいないよ」


「清さん、そんな無茶言わないでくださいよぅ。あたしは女学校出たらお見合いでもしてお嫁にいきます」


「スバル、お前は本家の一人娘だよ。婿取りだ」


 博士、論点がずれています。まあそんなことはどうだっていい。


「女高師には友達ののんちゃん……加賀美のぶゑちゃんが行きたいって言ってるんです。推薦の枠がそんなに多くないから、たぶんうちのクラスからはのんちゃん一人ですね」


 さっきも話題に出ていた子だ。スバルさんは女学校のクラス写真をもってきて、モノクロの写真を指差した。


「この眼鏡におさげの子が、のんちゃんです」


 生真面目そうな顔をした女の子だ。眼鏡をかけていて、いかにも勉強ができそうな顔。


「こっちが、高嶺蓉子さんっていって、高嶺伯爵の妹御です。写真だとよくわかんないけど、すんごい美人なんですヨ。女学校の後輩には蓉子さまって呼ばれてて、すごい勢いで後輩からの手紙が下駄箱に突っ込まれます」


 次に指さしたのは、写真でもよくわかるすんごい美人の女の子だった。


「でも華族の妹御が通うような女学校じゃないんですよね、あたしの学校。わりと庶民的で、ちょっと大きい八百屋さんの娘が入れるようなとこなんです。だから蓉子さん、一人だけちょっと浮いてて、仲よくしてるのはあたしとのんちゃんだけです。だから仲良し三人組です」


 スバルさんはため息をついて、割烹、と書かれたノートにきょうの夕飯の内容を書いている。どうやらこれも宿題らしい。


「でもあたしたちもう十七だし、蓉子さんはお嫁に行くって噂もあるんです。すごい美人だし、なによりお兄さんが伯爵さまだから、せーりゃくけっこん? とかいう」


「政略結婚ね」


 僕が言うと、スバルさんは「そうそれです」と答え、ノートを片付けて、さっき洗濯ものを干したときに取り込んだ綿の襦袢に半襟をつけ始めた。結構手先は器用そうだ。かわいい端切れを、シンプルな白い襦袢の襟に縫い付けていく。


「お父さんなにか繕い物とかあります?」


「ああ、モモヒキが破れてる」


 スバルさんは半襟をつけ終えて、今度は博士のモモヒキの股のところを直し始めた。


「清さんは……洗濯物は干してるんだった。とりあえず明日、破れてないか見てみますね」


「ありがとう。裁縫も得意なんだね」


「ぜんぜんそんなことないです。へたっぴです。蓉子さんなんかお裁縫全般得意で、難しいフランス刺繍もやるんですよ。それに、あたし仕事が遅いから和裁の授業は置いてけぼりです」


 えらく謙遜する子だなあ。手際よく裁縫をしているのに。ああ、この時代じゃこれが普通なのか。二十三世紀の衣服とは理屈がそもそも違うから、こうして手で裁縫をしなくてはならず、それは女性の必須技術になっているのだろう。


 スバルさんは繕い物を終了し、少女雑誌を読み始めた。小説のページを見ている。きれいな挿絵が入っていて、いわゆる美しく悲しい物語なのだろうと察せられる。


「スバル、いつまでも起きていないで早く寝なさい。清君もだ」


 スバルさんは少女雑誌のページの端をこきっと折って雑誌を閉じた。


 それぞれ自分の部屋に戻って寝間着に着替える。押し入れから布団を出して引き、寝ることにした。ほどよいずっしりとした重み。これがせんべい布団というやつか。わりと好きだ。


 さて翌朝。僕は恐ろしく早く目を覚ましてしまった。まだ夜明けの直後で、外は薄暗い。


まあ、誰も起きていない時間に目を覚ましたのは好都合だ。時空検証基地の検分を早めにしなければならないというのが、時間遡行エージェントのルールである。


 いまは一九二二年。大正十一年である。来年東京を襲う関東大震災を、世界線の切り替えによって起こらないことにした場合、未来はどうなるかを調査するのが時空遡行エージェントの仕事だ。


 時空遡行エージェントは僕だけではない。


 二次大戦が起こらなかったら、朝鮮半島が分断されなかったら、ベトナム戦争が起こらなかったら、東日本大震災が起こらなかったら、ドナルド・トランプが米国大統領にならなかったら――僕らはありとあらゆる可能性を試し、滅びに向かう二十三世紀を救う手立てを探しているのである。


 もちろん僕が関東大震災を停めたから未来が救われるとは限らない。あるいはもっとひどいことになるかもしれない。それでもありとあらゆる、試せる限りすべての可能性を試して、二十三世紀を助ける方法を探さなければ、人類はいずれ滅びるだろう。


 僕らのやることは、いずれくる滅びからの延命措置に過ぎないのだ。


 さて、時空検証基地の鍵にもなっている時空通話機はどこだっけな。


 時空通話機というのは薄っぺらいカードの形をした機械で、時空検証基地のカードキーとして使ったり、未来と連絡を取り合ったり、ほかのエージェントと連絡を取り合ったりできるものだ。薄くて小さくて目立たないから、確か学生服の胸ポケットに突っ込んだはずだ。用水路に落ちても防水なので壊れはしないだろう。


危ない危ない、そのまま洗濯屋に持っていかれるところだった。内湯の脱衣所に置かれている学生服の胸ポケットを探る。


 ――ない。


 ズボンの尻ポケットだろうか。ない。ほかの衣服と一緒に風呂敷だろうか。ない。


 考えられる落とし場所というと、やっぱり用水路しかない。案外深くてもがいてしまったし、バランスを崩して体の横から落ちたからだ。


 そっと部屋を出て、勝手口のほうに向かう。博士の趣味らしい釣り道具の置かれているところにあったタモをとる。


 そーっと家を出て、きのうドボンした用水路のあたりにいく。用水路といっても底こそ泥だが水はきれいで、メダカやドジョウが泳いでいる。そこにタモを突っ込んでみる。なにかきらきらしたものが泥の底から出てきた。よし、と思ったら割れたコップだった。


 もう一度タモを突っ込んで丁寧に漁る。明らかにこの時代にそぐわない金属光沢が上がってきた。今度こそ時空通話機だ。拾う。泥をぬぐって、起動ボタンをかちりと押す。なんの反応もない。ちょっと待て、防水じゃないのか。いや防水でも半日水に浸かったら壊れるか。


 とりあえずタモを元の場所に戻し、時空検証基地に向かう。僕らエージェントの目には特殊な人工神経が通してあり、時空検証基地はその神経を通した僕らにしか見えない。


 勝手口を出てちょっと言った林のなかに、やっぱりこの時代にそぐわない白いドームがある。これが僕の時空検証基地だ。


 カードキーになっている時空通話機を、入り口のカードリーダーにかざす。


 反応しない。


 裏返してかざす。反応しない。上下逆にかざす。反応しない。


 ――どうやら、本気の本気で時空通話機は壊れてしまったらしい。


 こういうときは、ほかのエージェントが接触してくるのを待つのだ。僕のほかにもエージェントは何人かいるだろうから、なんとか助けてくれる筈だ。僕は時空通話機を天袋に隠した。


 ため息をつく。もうそろそろ朝だ。鶏小屋から「コケコッコー」と鳴き声が聞こえる。とにかく家に戻ると、スバルさんが元気な黄色い銘仙に袴を着て朝ごはんの支度をしていた。


「どうしたんですか? こんな朝早くから」


「うん、周りがどんな塩梅なのか見てきた。結構自然が豊かなんだね」


「自然が豊か、っていいことなんですか? どんどん切り開いて新しい建物立てなきゃ、欧米諸国に置いていかれます」


「でもスバルさんもお花見とか潮干狩りとか紅葉狩りとか行くでしょ? それこそ自然だよ」


「……確かに。えっと、玉子焼きとお味噌汁はあたしが作るから、清さんはそこの七輪でメザシ焼いてください」


 これまた難易度高めの仕事であるが、がんばって煙たい中メザシとかいう魚の干物を焼いた。香ばしい香りがする。というか魚臭い。


 朝ごはんはメザシと、豆腐の味噌汁と漬物とご飯だった。玉子焼きは弁当に入ったようだ。


 しかしこの時代の人というのはご飯をとんでもない量食べるなあ。まるで昔話だ。白米が主な栄養源なのだとは知っていたが、それにしてもあんまりな量のご飯である。それでも頑張って食べる。メザシは箸が刺さらないほどカチカチで、しばらく食べ方に悩んだもののかじりつくことに成功した。


 二日酔い気味なので、胃が痛いと嘘をついて治癒力向上剤を飲んだ。ものの数分で、喉の渇きと頭痛が収まった。


 朝ごはんを食べ終え塩歯磨きし、顔を洗い、大学に行く支度をした。前もって博士が教科書を用意してくれていたのを、博士のおさがりの革の学生カバンに詰め込む。僕は帝大で物理学を学ぶことになっている。


 スバルさんから弁当箱を受け取り、学生カバンに入れて、星野博士の家を出る。家から学校までは列車で移動する。スバルさんは自転車にまたがり、長い黒髪とリボンをたなびかせて、颯爽と女学校に向かった。


 列車の中はごちゃごちゃに混んでいて、新聞を読む背広の男性、書生スタイルの若者、詰襟の学生、女中さん風の女の人、着物に袴の女学生、洋装の職業婦人などなど、たくさんの人が雑多に乗り込んでいる。日本人の特徴である「順番を守り他人を気にする」という気風が発生したのは戦後まもなくだったか、と思い出す。


 列車が帝大の最寄駅に停まり、学生風の人間がばらばらと列車から吐き出された。


 帝大の赤門を見て、学校の構内に入る。頭のよさそうな人がうろうろしている。

 なにか思想的な活動をしているらしいグループの勧誘を無視して通り過ぎ、僕の学ぶ教室に向かった。やっぱり頭のよさそうな人がいっぱいいる。そりゃ最高学府なのだから当然だ。


 二十三世紀では学問は睡眠学習でやるものだ。自分の力で勉強するなんて初めてでドキドキしていたが、きょうはどの科目も教授の自己紹介と講義の概要だけで終わった。


 昼にあけた弁当は、梅干しを刻んだ混ぜご飯と、玉子焼きと、漬物だった。校舎を出て、ベンチでそれをつっついた。しかし梅干しというものは、すんごく酸っぱい。


 いや、スバルさんが工夫してくれた弁当である。ありがたく食べて、空っぽにして学生カバンに詰め込んだ。


 午後の講義も教授の自己紹介ばかりだった。講義の内容については、概要を聞く分には、睡眠学習で記憶したものの知識でほぼ補えそうだ。


 授業がすべて終わり、帰る時間になった。やっぱり思想的な活動をしているらしい人たちに勧誘されたが、そんなあほみたいなことをしている場合ではないので、とりあえずまっすぐ帰るか、と大学を出た。だんだん夕暮れが迫っている。


 帰り道を歩いていると、向こうから女学生の三人組が歩いてきた。


 一人は生真面目そうな眼鏡におさげで、着物は質素だけれど上質そうな紬。もちろん袴を穿いている。もう一人は見るからに高級そうな着物を着た、目鼻の整った麗しい女の子で、髪は高々とマーガレット結いにしている。もう一人は自転車を押している。スバルさんだ。


「あー! 清さん! もう大学終わったんですかー?」


「え、スウちゃん、あのひとってナメクジの学生さんじゃない?」


「あら。のぶゑさんにスバルさん、ナメクジの学生さんってどういうことですの?」


 スバルさんがきれいな着物の子に、昨日の出来事をざっくりと説明する。きれいな着物の子――おそらく蓉子さん――は、くすっと笑った。化粧をしているでもないのにとても美しい。


「ねー清さん、ミルクホールいきましょうよ。ミルクホール。きょうお父さんは確か会議で遅くなるはずだし、ミルクホールいきましょうよ」


 スバルさんは駄々っ子みたいにそう言う。とりあえずほかの二人に挨拶して、眼鏡におさげの子がのぶゑさん、マーガレット結いの子が蓉子さんであると知った。


「ねえスウちゃん、普通の甘味屋さんじゃだめなの? ミルクホールなんて入ったことない」


「甘味屋さんだとお茶だけど、ミルクホールだと牛乳だよ。コーヒーもカステラもプディングもあるよ。牛乳には滋養があるって割烹の先生がおっしゃってたじゃない」


「面白そう。パーラーみたいなものかしら」


「蓉子さんたちが行くようなパーラーほど豪華じゃないけど、牛乳飲もうよ。カルシウム摂らなきゃいい奥さんお母さんになれないよ。だめですか清さん」


「うーんと。ミルクホール、僕も行ったことないんだよなあ。東京に出てきて二日だし。よし、行ってみようか。どこにあるの?」

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