大正たいむましん奇譚
金澤流都
1-1 ナメクジ学生
洗濯をしている。洗っているのは主に僕の下着やシャツ、うっかり用水路に落としてしまった数日分の着替えである。たらいに水を張りそこに洗濯板とかいうデコボコした板をつっこみ、洗濯せっけんと書かれた箱のせっけんをこすりつけつつ洗濯板でごしごしする。果たしてこんな方法で衣服は清潔になるのだろうか。二十三世紀では衣服は洗濯機に放り込めば乾燥してアイロンをかけるところまでやってくれていたので、なんとも遠回りなやりかたに思えるが、そもそもこの時代は洗濯機というものが存在しない。二槽式の洗濯機だってまだまだ先だ。
いや、訓練施設で何度もやったし、ウールや綿といった自然由来の衣服を着る訓練も行った。しかしどうあがいても二十三世紀の衣服にはかなわないのだ……。
「もう、清さんなにぼーっとしてるんですか。ちゃんとやってください」
黄色い銘仙にたすき掛けした、やけに所帯じみた女学生さんに叱られる。僕が下宿先としてお世話になる星野博士の一人娘のスバルさんだ。髪はいわゆる束髪崩しという女学生に流行ってるやつで、髪を洗う頻度が少ないからか長い髪は黒々としている。色白で体が細くて、そのわりに手先は働き者の手、といった印象である。
何故僕とスバルさんが洗濯をしているかというと、単純に僕が星野博士の家にくる途中用水路にハマってしまったからである。僕はそのとき着替えの風呂敷包みと、星野博士への土産物である弘前白雪酒造大吟醸の一升瓶をかかえて、地図を見ながら星野博士の家を探していた。
星野博士の家は昔茶畑だったところを住宅地に整備したところにある。鉄道が発達して、どこでも静岡のお茶が飲めるようになり、茶畑が住宅街になったのであるが、茶畑だったころの用水路がそのまま残されていて、適当に板を渡しているところを通ろうとしたら板が腐っていて用水路にハマってしまったのだ。しかも、二十歩ほど行ったところにちゃんとした石造りの橋が架かっていることに、用水路にハマってから気付いたのであった。
スバルさんはぷりぷり怒りながら、洗濯を絞って、はたいてのばして、物干しざおに次々かけた。一張羅のウールの学生服は星野博士の背広と一緒に西洋式の洗濯屋に出してくれるらしい。しばらく博士の着物を借りることになりそうだ。
「もう、なんであんな板を渡ろうとするなんて無茶するんですか。ちゃんと橋が架かってるじゃないですか!」
「だ、だって気付かなくて……」
「だってじゃなくて普通気付くでしょう! それでも帝大生ですか! ……いや、父を思うと頭のいいひとってどっかしら抜けてる気がする……」
スバルさんはしばし考えてから立ち上がり、立ち眩みでもするのか一瞬ふらついて、
「はい! それじゃ父がそろそろ帰ってくると思うので! お夕飯作るの手伝ってください!」
「あ、あの、僕使用人じゃなくて書生なんだけど……」
僕がもごもご言うとスバルさんはすぱりと答えた。
「なに言ってるんですか。その一升瓶一本で長いこと下宿するんですから、働いてもらわないと困ります。お手伝いさんにも清さんがくるからって辞めてもらったんですし」
「え、な、なんで? 人間増えるならお手伝いさん辞めさせちゃだめじゃないの?」
「だって食費やそのほかもろもろ清さんのぶんの出費が増えるんですよ、うちみたいな貧乏学者の家でお手伝いさんにお賃金渡してそのうえ清さん養うなんて無理じゃないですか」
スバルさんはたらいと洗濯板を片付け、せっけんをしまい、勝手口から家に入った。ガスのひかれた、この時代にしては近代的な台所だ。
スバルさんはおひつを開けて中にご飯が入っていることを確認した。それから、僕に豚の生姜焼きは作れるかと尋ねてきた。たぶん大丈夫、と答えると、スバルさんは少し悩んでから、
「じゃあほうれん草のお浸し作ってください」
と、レベルを下げてくれた。それなら僕でもできるぞ。さっそく、氷冷蔵庫からほうれん草を取り出し、よく洗って鍋で茹でる。茹で上がったら取り出して冷水にとり、切る。その間にスバルさんはてきぱきと豚肉を切り生姜をすりおろし、手際よく豚の生姜焼きをこしらえた。
「よーし。お夕飯の支度は完璧」
スバルさんは鼻をふんっと鳴らした。
よく見ると、スバルさんは可愛い女の子だった。色白だし、目もぱちっと大きくて鼻も高く、ただちょっと顔色があんまりよくない。
「栄養補給。清さんも食べませんか? 甘いの嫌いですか?」
たすきを外して、スバルさんはたもとから江波の栄養菓子を取り出した。要するにグリコーゲン入りのキャラメルである。ハートの形をしていて可愛らしい。一個もらって勇気を出して、口に放り込む。甘い。口の中でてろりと甘いキャラメルを舌の先で転がしながら、僕は、
「おいしいね。ありがとう」
とスバルさんにお礼を言った。
「あの、気になってたんですけど……清さんの苗字って、『ふるかわ』ですか? それとも『こがわ』ですか?」
「『こがわ』だけど。どうしてまた」
「いえ、仙台の高等学校の先生から頂いたお手紙で、清さんのことを『古川清』としか書いてなくて、父と『こがわ』だ『ふるかわ』だ論争をしちゃって」
「あー……博士は津軽のひとだもんね。津軽だとね、『古川』は『こがわ』って読むんだよ。その津軽の縁があって僕はここに来たわけだしね」
「そうなんですか。面白いですね、ところ変われば呼び名も変わるんですね」
そんな話をしているうちにキャラメルが溶けてなくなった。それとほぼ同時に、
「ただいまー。スバル、夕飯はなんだい?」
と、紳士然とした声が聞こえた。
「あ、お父さん。古川清さん、来てますよ。夕飯は豚の生姜焼きとほうれん草のおひたしです!」
「おお、肉料理とは豪華だねえ」
「清さんが来るっていうから奮発したんです。……それともお酒のアテになるものがよかったですか?」
「それならお新香でいいよ。なに、清君はお酒をもってきてくれたのかね?」
初めて見る星野博士は恰幅のいい堂々とした紳士で、帽子を粋にかぶっている。どう見ても知識階級、といった感じだ。博士は壁に帽子をひっかけ、ニコニコしている。
「このお酒、なんでしたっけ。レッテルがはがれちゃってる」
「弘前白雪酒造の純米大吟醸。白雪酒造のお酒で一番上等なやつ」
僕がそう言うと星野博士は目をキラキラさせて、
「懐かしいなあ白雪酒造。あそこの酒は最高に旨いからなあ」
と小躍りせんばかりの様子である。しばらくご機嫌で、ぬる燗にしてくれとスバルさんに言い、博士本人がぬか床からカブの漬物を取り出して食べる支度をして、それからやっと、
「しかしなんで瓶のレッテルがはがれてるのかね? それになんで清くんが私の着物を」
と尋ねてきた。スバルさんは思い出してよほどおかしかったのか、
「清さん、ここに来る途中橋と間違えて板を踏み抜いて用水路に落っこちたんです。ちょうどあたしも女学校からの帰り道で、のんちゃんと『なにあのナメクジ学生』ってくすくすしながら帰ってきたら、そのナメクジ帝大生さんがうちに下宿するって家の前にいて」
と、笑いながら答えた。笑ってほしくない。それにさらに博士のピンボケな突っ込み。
「用水路にいるのはナメクジじゃなくてタニシじゃないかね? まあそんなことはなんだっていいんだ。はやく燗をつけてくれ」
「まだお湯が沸いてません。それにお酒を飲むまえにお母さんに報告です」
「そうだったね。清君もきたまえ」
呼ばれて茶の間の隣の部屋に据えられた、小さめの仏壇に向かう。
博士がマッチでろうそくに火をつけ、線香にも火をつけて供える。みんなで手を合わせる。宗教儀礼としてあることは知っていたが、具体的にどういうことを祈るのかはよく知らない。顔を上げると、スバルさんにそっくりな女性の写真が目に入った。
「これが私の死んだ妻でスバルの母の、いお。きれいだろう」
「スバルさんにそっくりですね」
「だろう。スバルはいおに似て美人なんだ。教授になって三年目のお盆休みに帰郷したら見合いが決まっていてね、即決だった。大鰐で小学校の先生をしていたそうだ」
なるほど。文化的で進歩的な、要するに職業婦人というやつだったのだな。
「わー!」
スバルさんが唐突に叫んで台所にすっ飛んでいった。
酒を温めるお湯が沸いてしまったらしい。その間にちょっと聞いてみる。
「なにがあって、お亡くなりになったんですか?」
「いおはあまり体が丈夫でなくてね、夏風邪をこじらせて肺炎になって、それで」
ああ、抗生物質の発明はまだしばらく先だ……。
「スバルもいおに似てちょっと病弱なところがあってね……そう思われないように家事を頑張っているし、勉強だって得意でないなりに頑張っている。どうか手伝ってやってほしい」
「わかりました」
「はいお酒温まりましたよ! なんの話ですか?」
「大学の近くのカフェーにすごい美人の女給さんがいるから、一緒に行こうって話をしていた」
星野博士は明るい冗談を言った。スバルさんは呆れた顔で、
「お父さん、下品だわ」
と、この時代の女学生らしく「てよだわ言葉」でつぶやき、台所からお皿を次々運んできた。これを、いい匂いというのだろうか。鼻をつく生姜の匂いと豚肉の獣の匂い、ほうれん草の青臭い匂い、食べることに関心がない僕としてはあまりいい匂いとは思えない。
二十三世紀では、栄養を経口摂取することはない。水分も栄養も血管から摂る。口はしゃべるための道具である。もちろん時間遡行エージェントになるときにかなり経口摂取の訓練をしたが、何度も戻したり飲み込みきれずに窒息しそうになったり、僕はかなり成績がよろしくなかった。
恐る恐る、箸を豚肉に伸ばす。豚ってあのブヒブヒ言うやつだよな。口に入れる。経口摂取訓練とはレベルの違う、濃い味だ。キャラメルならまだおいしいと思えたが、豚肉をおいしいと認識するのはいささか難しい。でもがんばって飲み込んだ。
「清さん、豚肉苦手なんですか?」
「い、いや……用水路にハマったりしてちょっと疲れてて」
「それはいかん。清君、飲みたまえ。体が温まるぞ」
そう言って星野博士はお酒を勧めてきた。スバルさんが僕の分のおちょこを出してくる。甘い香りとアルコールの刺激臭の混じった匂いの液体を前に一瞬逡巡して、思い切って口をつけた。熱い。甘い味が口いっぱいに広がりそれが体の中を通って腹のあたりでぽかぽかしている。飲んでしまえば意外とおいしい。訓練で飲まされたエタノールとはわけが違う。
酔っぱらうと気分よく豚肉も食べられる。ほうれん草に醤油をかけてつっつく。
食べるって思いのほか楽しいぞ。
それでも僕の食べる様子はどこか不格好らしく、スバルさんも博士も、心配そうに僕を見ている。
「去年はリンゴが大凶作だったそうだから、あまりいいものを食べられなかったのかね?」
博士の質問に酔っぱらって呂律の回らない口で答える。
「いやぁうちは床の間に刀飾ってるタイプの農家でしてぇ、お金だけは腐るほどあるんでぇ、そいで僕は帝大に入れたていですねぇ~」
「まだぜんぜん飲んでないのにすっかり酔っぱらっているじゃあないか。無理に食べずに少し休みたまえ。そうだ、スバル、清君に部屋を案内してやってくれ」
「はーい。えっと、こっちです」
茶の間から縁側に出て、縁側を通って一番奥からひとつ手前の部屋の戸を開ける。
「ここが清さんのお部屋です。こっちのふすまを開けるとあたしの部屋なので勝手に開けないでくださいね。それから、お布団はこっちの押し入れです。せんべい布団ですけど」
「うい」
「聞いてます? あ、それから御不浄はこっちで、お風呂は内湯があります。でもきょうは、すこし休んだほうがよさそうですね。――あ。胃薬の瓶持ってきます」
僕は通された、文机がひとつとランプがひとつあるだけの部屋を眺めて、たたみの上に大の字になった。たたみというものはさらさらしていて触ると気持ちいい。
スバルさんに僕はひとつ嘘をついている。胃が弱いのだ、と。そもそも食べるのが苦手なので胃酸過多で苦しむなんてことはほぼないのだが、未来の世界から一瓶、治癒力向上剤というものを持ち込んでいる。たいていの病気やケガが一発で治る、二十一世紀風に言えば「チートアイテム」だ。
もちろんそんな薬を持ち込んでいると知られたらまずいので、普通の胃薬の瓶と見た目の変わらない瓶に入っていて、当時の胃薬のラベル――この時代の人はよくレッテルという――が貼られている。しばらく涼しいたたみの上で転がっているとスバルさんが薬の瓶を持ってきた。
「大丈夫ですか? 胃が弱いのにそんなに酔っぱらって」
むくりと起きる。いわゆる賢者モードってやつだ。瓶を受け取り、短く刈った髪をがしがし掻いて、瓶を文机の上に置いた。
「うん大丈夫。あ、夕飯の続き食べようかな。なんていうかさ、久しぶりにお酒飲んだから、ちょっとはらわたがびっくりしただけだよ」
すっと立つ。やっぱり賢者モードだ。
茶の間に戻ると星野博士がニコニコしながらお酒を手酌していた。
「もういいのかね? 具合を悪くして大学初日が二日酔いなんて困るよ?」
「はい、ちょっと内臓がびっくりしただけです。わいは! って」
「わいは?」
スバルさんだけわからない顔だ。津軽式の驚いた時のセリフだ、と説明する。博士はおかしそうにははははと笑い、スバルさんが小鼻を膨らませる。
「もう、お父さんも清さんも、自分たちばっかり楽しそうでずるいです!」
「だってスバルはまだ女学生だから酒なんか飲んじゃいけないだろう。もう一本ぬる燗で」
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