異世界サッカー教室 その3

「コ、コウジ様!」


 背中をさすったまま顔を真っ赤にして固まってしまったメイド姿のナコマに、コウジは駆け寄る。


「怪我したら危ないよ。何の真似しているのさ?」


 ちらっと背中を覗き込む。何度もぶつけたのだろう、エプロンドレスの背中は草と土に汚れ手の甲にも擦り傷ができていた。


 ナコマは猫耳をすっかり折り曲げてしゅんと黙り込んでしまった。コウジも言いようの無いばつの悪さに、とりあえず手に持っていたボールを物置に片付けると壁にもたれかかり、すっかり沈んでいるナコマにゆっくり尋ねた。


「ナコマ、さっきの動きは……体操の真似だよね?」


 ナコマの大きな耳がぴくっと動いた。そして赤くなった顔を少しだけこちらに向けると、「はい」と答えて頷いた。


「実は、コウジ様の持ってこられたあの本のことが気になって……もしかしたら私にもできるかもと思って……」


 確かにあの夜、ナコマは体操のページにじっと見入っていた。動きの華やかな体操は子供にも真似してみたいと思わせる魅力にあふれている。


 だが同時に体操は非常に危険な競技でもある。


 体操の起源は定かではないが、競技としての体操は1811年にドイツの体育場で若者たちが棒やあん馬を使い互いに技術を競ったことが始まりで、第一回近代五輪である1896年のアテネ大会にも競技として採用されている。


 しかし器械体操は専用の器具と十分な技術が必要で、素人が下手に真似すれば大けがにもつながる。安全に配慮した練習をしないと、一生ものの後遺症さえ残り得る。


「ああ、体操のことだね。確かに体操はかっこいい。でもね、あれはちゃんと練習しないとできないし、とても危険なことなんだ。ちゃんとした器具とコーチを用意しないと、半身不随になっちゃうよ」


 なるべく優しい口調で言うも、ナコマは無言のまま俯いている。


 もてなすべき客人から気にかけられるのは使用人にとってこの上ない失態。幼いころから奉公に来てメイドとして育てられたナコマにはそのことが根底まで染みついていた。


 そんなナコマがいじらしく、コウジは余計に言葉に詰まる。


「まあ、危ないからやるなって意味じゃないよ。危ないから安全に気を付けてやってねって意味だよ。ナコマなら練習すればきっとできるようになるよ」


「本当……ですか?」


 ナコマは潤んだ瞳で見つめ返した。正直少しばかりドキッとした。こんな小さな女の子なのに、不覚。


「もちろんさ。僕の服を脱がすときのあの身軽さ、あれは才能だよ。そうだ、僕も体操ならある程度はできるから、今度教えてあげるよ」


「よ、よろしいのですか? こんな私めに」


「気にするなよ、もうすぐしたらアレクサンドル様の剣術指南役が来て僕はお役御免になる。やることも無いし、それくらいお安い御用さ」


 実際にコウジも器械体操に関してはある程度の自信があった。腕力は人並みだが、運動神経自体は決して悪くはない。特に器械体操に関してはかなり良好で、体育の成績がその時だけ跳ね上がっていた。


 ナコマだって遊びたい年頃、毎日メイド仕事だけでは退屈だろう。そう思いながら目を遣るとさっきの涙はどこへやら、すっかり満面の笑みのナコマがそこにいた。




「そうですか、村の若者たちにもサッカーは受け入れられたのですね」


 食事中、赤ワインのグラスを片手にバレンティナはアレクサンドルの話に耳を傾けていた。


 海までそう離れていないのだろう、貝や魚をジャガイモやトマトと一緒に煮込んだブイヤベースのような料理が今日のメインだ。電気もガスも通っていない不便な世界だが、この屋敷の料理に関しては実家をはるかに凌駕している。


「競技会にもサッカーを種目に入れようと皆言っておりました。安全のためのルールもありますので、見ているこちらも安心できると思います」


 嬉しそうに話すアレクサンドルを横目に、ムール貝を口に運んでいたコウジはひとつ気になったことを尋ねた。


「競技会ではよく怪我人が出るのですか?」


「はい、特に血気盛んな若い男衆は。身体と身体をぶつけ合う競技が多く、喧嘩や流血の大惨事にもなります。こればかりは私もどうにかしなくてはと思うのですが、皆そちらの方が盛り上がるので強く言えないのです」


 ため息交じりにバレンティナが答える。


 スポーツ全体が安全に配慮するようになったのは、長い歴史の中でもほんの最近のことと考えてよい。ボクシングにグローブが正式に採用されたのは19世紀、それ以前は素手での殴り合い、いわゆるベアナックルボクシングが主流だった。


 サッカーやラグビーの前身であるフットボールも中世のイギリスでは町ごとに異なったルールが存在していたが、その多くが非常に乱暴で破壊的なものだったと記録され、時には死者も出たそうだ。


 ゆえに時の権力者はフットボールを幾度となく禁止したが、それでも民衆のフットボール愛は止まなかった。やがてルールを統合して安全に配慮していった結果が、現在世界中で広まっているフットボールへと昇華されていった。


 領民が傷付くところなどバレンティナが見たくもないのは承知しているが、それでもなお熱中したいという欲求を抑えることは難しい。危険と隣り合わせのスリルはこの上ない快感をもたらしてくれる。


 バレンティナと領民、どちらの言い分も納得できるものであるゆえにコウジも苦笑いでその場をやり過ごすしか無かった。


「そう言えばお姉様、今年の競技会には魔女殿も来られるのですか?」


「ええ、来られますよ。三日後にはこの屋敷に滞在されます」


 何気なく尋ねて答える姉弟に、コウジはつい聞き流してしまうところだったが、耳に飛び込んだ奇妙な単語に持っていた匙を止めた。


 魔女だって?


 魔法を使える魔族という種族がこの世界にはいると聞いていたが、そのことだろうか?


「魔女……ですか? どのようなお方なのです?」


「隣村の外れにお住いの、気さくなお方ですよ。競技会ではいつも魔術を披露して領民を楽しませてくれます」


 割って入るコウジにバレンティナは丁寧に答えた。


「確かあの方は曾お爺様の頃にはお世話になっていたはずだから……もう200歳は超えておられるのではないでしょうか?」


「に、200歳ですか?」


 匙を落とすどころか椅子から転げ落ちそうになった。バレンティナが嘘を吐くような人ではないことは重々承知だ。だからこの200歳というのも嘘ではないのだろうが、普通の人間がそこまで生きることはまず無い。


「はい、魔族は長命なのです。王城の大魔術師ナヒカノ殿に至っては齢700と聞き及んでおります」


 な、な、700ですと? 常識を超えた数字にコウジは力が抜け、ついに匙を落としてしまった。たとえ魔法を使えなくても、この寿命が本当の時点で既に羨ましくあった。

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