容態悪化

 俺がこのように会社で奮闘していると、菜々子からの電話。

「もうだめかもしれない……」

 と言ってすすり泣く。

「分かったすぐ行く。待ってろよ」

 俺はスーツに着替えると病院に直行する。


「大丈夫か?」

「お知り合いの方ですか?」

 廊下で主治医が菜々子に経過を説明していた。

 俺が挨拶をすると、向こうも頭を下げる。

「親戚のものです。具合が悪化したと聞きまして」

「ここ三日がやまじゃないかと」

「そんなに悪いんですか」

「ええ、もう打つべき手は、全て打ちました。後は患者さんの生きる気力次第かと」


 俺は天を仰いだ。「もう、ここまでか」という思いと「これでやっと終わるのか」という複雑な気持ち。


 病室に入る。ベッドの上には点滴と、酸素吸入器が取り付けられている痛々しい姿があった。


「おう」と呼び掛けると「よう」と、いつもの返事。日に日にやつれ痩せていく姿を目の当たりにし、本格的にだめかもなと思う。


「息子二人を呼ぶぞ」

「好きにしてくれ」

 俺はスマホでジェイコブをコールした。

「はいなんでしょう、お父さん」

「今君達の父親はかなり容態が悪化している。一応知らせておこうと思って。医者によれば後三日の命らしい」

「おー、そこまで悪いんですか、仕事はキャンセルしてウィリーとともにすぐに伺いますね」


 人生は残酷だ。金がなくなり、路上生活を強いられる人間がいると思えば、使え切れない金を残して死ななければならないやつもいる。罪を犯して逃げ回るやつがいるかと思えば、ふてぶてしく取締役なんぞについているやつもいる。まあ、俺の事だが。


 しかし人生は素晴らしい。愛する者と出会い魂は輪廻して、未来永劫二人添い遂げる事もできる。それは貴賤の問題ではなく、美醜の問題でもない。二人の心のありようだ。


 俺は頭をかきむしりながら、問うてみる。

「人生で一番嬉しかった事は何だった」

 未来の俺はしばらく考えこんでいたが、思わぬ答えが返ってきた。

「そうだなあ、やはりタイムマシンの数理モデルを解き明かし、それが小村先生に認められたことかなあ。その頃はまだ敵対関係になっていなかったからな。人から自分の事が認められる事ほど嬉しい事はない。それも恩師に認められたんだ。喜びもひとしおだったよ」


 そういえば、俺も小村先生に認められた時、夜も眠れないほど喜んだ事を思い出した。青春の一ページだ。未来の俺は今ではなく、もう過去の世界に生きているのであろう。


「それじゃあ帰るからな。明日またくる」

「無理をしなくていいんだぞ」

「なに、社外取締役の労働時間は実質五時間くらいだ。楽勝だよ」


 俺は憂うつな気持ちで車のエンジンをかける。


 星の住民よ、僕の想いの大きさに驚くなよ


 星の小ささに驚くんだ


 音楽チップに入っているこの歌を聞くと未来へ旅立った頃を思い出す。あの頃はまだ何も知らなかった。あれから一年。様々な事があった。まさか自分が結婚をするなんて夢にも思わなかった。そして後二ヶ月で子供が生まれる。どういう顔をしてその日を迎えていいのか分からない。




 いつもの会議がはじまった。今日の議題はとある役員が最近怠慢になってきたという事だった。特に興味がなかった俺はぼんやりと皆の論議を聞いていた。俺に発言の機会がまわってくる。


「鬱病なんじゃないかな」

 俺の一言で議論はその方向でまとまりつつある。


 気楽な会議だ。しかし、吸収合併などを仕掛けられるような緊急時には、経営学が専門のマイケルが陣頭指揮を取り事態を収拾するのであろう。


 人にはそれぞれ取り柄があり、ふさわしい役割がある。未来の俺はタイムマシンが時の狭間に入ると何がどうなるかを解明するという快挙を成し遂げ、その命を使いきった。


 天命が来たのだ。


 素直にそう思えた。人間の一生はただだらだらと生きるものじゃないと思い知らされた。


 俺は遮光カーテンを締め、部屋を真っ暗にして眠りについた。




 二日後ジェイコブとウィリアムが成田空港に到着した。俺は送迎をかって出た。

「日本の夏は蒸し暑いだろう」

 ウィリーが言う。

「私はロスに住んでますけどカラッカラですからね。暑さはあまり感じませんよ。日本は確かに暑いです。お父さん」

「それよりも、こんな話をここで出すのは不謹慎かも知れませんが遺産は誰が引き継ぐんでしょうか。過去のお父さんの直の息子?それとも私?」

 ジェイコブがややこしい問題を持ち出してきた。

「道義的には過去の君だろうが、いいさ、もらえるものはもらっちゃえ。今ここで君が貰うと過去の自分が六十歳になった時に受けとることになる。この流れは永遠に続いていくことになってるんだよ。多分」

「本当ですか、安心しました。お父さんが言っているので大丈夫ですね」


 車が、病院に到着した。三人でエレベーターを上がると、個室のある階に着く。俺は勇気を出してドアをノックする。


「はーい」

 菜々子が出る。菜々子にはあらかじめ言っておいたのだ。


 病魔に犯されたその肉体は見るも無残に痩せ衰え、老いさらばえたその顔はまるで骸骨のように骨と皮だけになっていた。


 ジェイコブがベッドに詰めより手を取る。しかし意識はもうない。


「お父さん、死なないで下さいよ」


 ウィリアムも、ベッドの脇に座る。諦めたように手を取る。

「お父さん、また俺をしかってください…」


 すると奇跡が起きたのか、未来の俺の意識が戻った。

「ジェイ、……ウィリー」

 その目は涙ぐんでいるように見える。

「遺言だ……俺の総資産五百億円のうち、四百億円を会社の増資に、残りの百億円のうち、五十億円を菜々子に、二十億円をそれぞれお前達に、残りの十億円をヘッパーに相続する。詳しく書いた遺言書は、弁護士でもあるヘッパーに預けてある。みんな達者でな……」


「そんな悲しい事言わないでお父さん。また元気になって釣りに行きましょうよ」

「釣りか……みんなでよく行ったな、バーベキューセットを持って。幸せだったよ俺は」

 ウィリアムが泣き出す。

「この病気を乗り越えたら、また海へ行ってスキンダイビングに連れていってくれよ。サンゴ礁の海が待ってるよ」

「ああ、分かった。約束するよ……クラゲに刺されたのもいい思い出だ……」


 それだけ言うとまた意識がなくなってしまった。


 しばらく沈黙が続く。


「あなた……」


 返事がない。


「あなたー!!」


 主治医が脈を取り、心臓に聴診器を当てる。呼吸器をはずして息を確かめ、瞳孔を調べる。


「残念ですが、御臨終です」


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