第四章

「死」―現実に突きつけられたその事実は、蜂に刺されたように衝撃的で、涙すら出てこなかった。所詮他人事だという思いと自分の未来だという思いが交錯する。


 菜々子が遺体に取りすがり、大声で泣き崩れる。それほど未来の俺の愛は深く、大きなものだったのか。二人を結びつけている何か別のもの。そんな存在を感じる。


「ここからは二人にして……」

 菜々子の求めに対して俺達は退散し、レストランへ入る。好みは三者三様で、それぞれ別のものをたのんだ。


「それにしても悲惨な状態で……私は末期のガンになったら、ピストル自殺しますね。それほど見るに耐えないものがありました」

 ジェイコブが言う。

「そうだね、人間はあそこまで変わるのかと思うと切ないものがあるよね」

 ウィリアムが応じる。


「まあ、相続の方はヘッパーに任せて、葬儀をどうするかだな」

「この時代に親父の知り合いは一人もいない。通夜をせずに、明日本葬儀といこう」


 俺はあくまで他人だからどうこういうつもりもない。だが、アメリカ人では難しかろうと手続きを代わりにやってやることにした。


 すぐに葬儀社がやって来た。要所だけ説明し、遺体は病院から葬儀場に運ばれて行った。




 次の日、桃恵も入れた五人で寂しい葬儀が営まれた。僧侶の読経中に御焼香をすると、何やら難しい説法をし帰っていった。


 ジェイコブとウィリアムは、火葬が終わったところで弾丸の様に日本を後にした。


 骨壺を持って火葬場から出てくる菜々子。

 ハンカチを持って涙を拭いている。

「本人の意向に沿って、遺骨は全て海に散骨しますから」


 俺は自宅へ帰ると近くの漁業組合に電話をかけ、船を出してくれる漁師を探してもらった。破格の額を提示すると漁師はすぐに見つかった。


 次の日、まだ明けきれてない朝のなか、喪服を着た菜々子と俺は、漁協の漁師小屋で、例の漁師を待っている。七時ちょうどに現れた七十手前のその漁師は、ニコニコしながら俺が渡したピン札百万円を嬉しそうに数えている。


 俺達は港を出て、波の穏やかな海を滑るように出航した。


「とにかく、遠くへ」

 俺が言うと、かなりスピードをあげ始めた。

 菜々子は後ろで座る場所を見つけて骨壺を大事そうに抱えている。


「なあ」

 と、俺。

 菜々子に是非とも聞きたい事があったからだ。


「俺と未来の俺、なにが決定的に違ったんだ。未来へ旅立った時の事だよ。そりゃあまあ、お前達に当て付ける様に風俗嬢を呼んだりして軽蔑されたのは分かるけど、俺が聞きたいのはその前の話。ドイツのコンクールを諦めて、こいつを看取ろうと決心した、その理由だよ」


 菜々子は黙ったままだ。海風が菜々子の長い髪にあたり、揺らめいている。

「いつか、言った事があるでしょう。コンクールは来年もあるけど、恋人の死を看取るのは私をおいて他にはいないって」


「それだけじゃないだろう!」

 思わず声を荒げてしまった。俺は菜々子の心の奥底、人に言えない何かを感じとりこうしてぶつけてしまった。


「すまない。大きな声を出して」


 菜々子は、何かを考えている。俺にすら明かせない何かを。しかし意を決したように口を開いた。


「最初は……」

 菜々子が静かに語り始める。

「あなたへの当て付けだったのよ。あの頃のあなたは研究に没頭して、私のことなんか見向きもしなくなっていた。デートをするのも月に一度、それならこっちも一月雲隠れしてやろうと思って……そこに未来のあなたが現れたの。これは運命だとそう思っただけだった。でも、未来のあなたはこの世を惜しむように、毎晩、何度も何度も私を求めてきたわ。女はね、必要としてくれる男から抱かれることほど幸せな事はないの」


 菜々子はそう言うとまた横を向いてしまった。俺は言葉を失った。


「これからどうするつもりだ」

「一年間のブランクができたけど。自分の力を信じているわ。過去へ帰って一からやり直すつもり。大丈夫よ。一日十二時間ピアノを弾き続ければ、コンクールは突破出来るわ。このタイムマシンを未来へ旅立った日へセットし直して頂戴」


 女は強いなと俺は思った。菜々子なら、本当に一日十二時間弾き続ける事だろう。俺は菜々子のタイムマシンを突然失踪したあの日にセットし直してやった。


「ここいらでいいですかね。沖に五キロ出た所ですけど」

「充分ですよ」


 菜々子がやおら立って、菜箸で骨の欠片を丁寧に海へ落としていく。俺と漁師はそれをぼんやりと眺めている。


 やがて骨壺をひっくり返しカスを落とすと、骨壺も海の中に捨ててしまった。

 菜々子の口がわずかに動く。


「さよなら……」


 そう言ったように、俺には見えた。


 五十八歳か……


 短い生涯だ。俺もまた、あらがっても抗っても、ここで力尽きるんだろう


 散骨も終わり、港へと戻る。

「しばらくはホテル暮らしで街を回ってみようと思うの。あの人が愛したこの街を」


 そう言ってタクシーを呼ぶと、街の中へ消えて行った。


「ただいまー」

「お帰りなさい」

 桃恵が、すでにマタニティーウェアを着て出迎えてくれる。もうそろそろお腹が目立ってくる時期だ。

 俺は熱くキスをして靴を脱ぐ。


「どうだったの散骨は」

「うん、上手くいったよ」

「菜々子さんとは何か話せたの?」


 ――必要としてくれる男から抱かれることほど幸せな事はないの――


「まあ、向こうは黙ったままだったよ」

 俺は今日菜々子と話した事についてこれ以上詮索されたくなかった。つい、嘘をついてしまった。


「あー、話したといえば、過去に戻るって言ってたっけ。一日十二時間ピアノを引き続ければ、一年間程度のブランクは取り戻せるらしい。俺ら素人には考えられない世界さ」

「次の目標を見つけられてよかったわね、菜々子さん」

「そうだな。俺も頑張らなくちゃな。生まれてくるこの子のためにも」

「今日はね、レバニラ炒めと、サラダとひじきご飯よ」

 桃恵が台所へ向かう。俺は上着をハンガーにかけ、ネクタイを緩めるとようやくソファーに腰を降ろし一息つく。


 今日の菜々子の一言は、忘れられないものになるだろうなと思いながら。





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