ミスター・テイラー

 俺と菜々子は廊下に出て主治医の話を聞いている。今の状態は非常に危険であり、このままでは命に関わる事と、延命したいのならすい臓そのものを切除するしかないという事だった。


 しかし、延命をするためにすい臓をまるごと切除をすると、栄養は点滴からしか得る事が出来なくなり、ホルモンバランスも崩れ、生活の質が著しく悪くなるという。


 それを本人に隠さず伝えると、延命措置はもういいと拒む。

「天命だ。俺はそれを受け入れる覚悟がある。もう余計なお節介だけは辞めてくれ」

 と、自嘲気味に笑う。


「本当に悔いはないのか」

「ああ、ない」

「人生は楽しかったか」

「楽しかった。タイムマシンの数理モデルを発明した瞬間、小村先生とのいざこざを経てM工科大学に呼ばれた事、そこで会社を興し莫大な富をこの手に入れた事。結婚をし、ジェイとウィリーを授かった日々。それら全てがダイアモンドのように光輝いていて一点の曇りもない。もしも生まれ変わったとしても、またこの人生を生きたい」


 俺は少し涙ぐんだ。俺が歩まなかった人生、俺が体験しなかった、ゼロから莫大な富を築きあげた喜び。おそらく、本当に楽しかったに違いない。振り替えるにどうだっただろう、今までの俺は。こいつのカードで散財し、金取引で五億円をちょろまかし、こいつの力で今、会社の社外取締役にいつの間にかついている。


 考えてみれば、桃恵が妊娠した時に分岐点が訪れたのだ。それはもう運としか言いようがない。しかし、皮肉なことに彼女を本気で愛すようになり、ささやかながら、幸せな家庭を手に入れた。こいつの激動の人生と、卑小ながらもそれなりに幸せな日々。もしも生まれ変わっても俺は俺で、また桃恵との人生を選びたい。少し天然だが、人の気持ちを思いやれる力。小悪魔のようだが、天女のように豊満なその心。


 取締役に就任してから一週間が経とうとしている。俺は時差ボケを解消し、朝六時に寝て、昼の二時に起きる生活に慣れていった。


 会議の方は相変わらずで、あいつのここが悪いだの、ここがイカれているだの、悪口が永遠に飛び交う場と化している。まあ、これも仕事なんだと割りきってはいるが。


 午後の部の面接では、俺の苛烈な質問が容赦なく飛ぶ。本当にモデルを理解しているのかの肝に当たる数学的な問いと、その解釈についてである。


 なかには、全く話にならないやつも三人いた。部長にこの三人の配置転換を求めると、抵抗してくる。


 最後はお前を切るつもりなんだよ…


 思っていても口が裂けても言えない。まだ決定的なミスがないからだ。しかしいつかはボロを出すだろう。


 俺はこの部長とのやり取りを会議にかけてみた。するとでるわでるわ、罵詈雑言の嵐。役員の言うことを聞かないで平然としている事で有名な部長らしい。


 ディビッドがまとめる。

「この案件は社内役員会議に動議を提出しよう。一度ならず、三度も上司の命令を蹴った罪は重い。こういう傲慢な奴がいるから、ガバナンスが崩れるんだ。取締役に楯突いたらどうなるか見せしめの意味も込めて、良くてヒラに降格、悪くて首切りだ」


 その中の十人ほどはほぼ完璧に数理モデルをマスターしていた。残りの二十人には俺が直接コーチングをしていく。


 二日に一日は病院に通う。今は重粒子線治療をかなりきつめにやっているらしい。しかし食べたものを吐き戻したり、全身を痛みが襲ったりと、極限状態が続く。やはりいっそあの拳銃を手にした時に、命を奪ってやったほうが良かったのではなかったかなどと、思いが駆け巡る。


 ベッドの横には吐き気を催した時にすぐ吐き戻す事が出来るように、バケツが置かれている。菜々子がそれを手に取り、吐かせている様子が目に浮かぶ。献身的な看病をしているに違いない。


 俺はまだ軽い嫉妬を覚える。二人の中に入ってはいけないような気がして、病院をあとにした。




 社外取締役会議の動議を受けて、役員会議に例の部長の件が議題に上った。やはりジェイコブが一番危惧し、人員を一新しなければならないとの危機感を持っていたようで、部長はすぐに役員会議に呼び寄せられ、俺もモニターで会議に出席した。


「これより社外取締役会議からの動議を受けて、ここにいる、ミスター・トーマス・テイラーの処遇について話し合いたい」

 議長が会議の宣言をする。


 テイラーは膨れっ面をして末席に座って、鬼の様な顔をしてモニターの俺を睨んでいる。


「まずはここに座っている取締役のミスター・ドモンの要求を一度ならず、三度も従わなかった。これは同意するね」


 テイラーは言い返す。

「まず、彼ら三人の配置転換に異を唱えた理由は、彼らが優秀なアイデアマンであり、数理モデルを理解してなくとも商品開発に欠くことのできない人材だからです。それに加えて彼らは部内では回りを照らすムードメーカーの側面もあります。この三人を切るには忍びないとの判断から敢えて切らずに残しました。全員が数理モデルを理解していなくとも、十人理解をしていれば、開発部は素晴らしい成果をあげる事が出来るとの判断からです」


 議長が問いただす。

「では取締役の命令違反をしたことは認めるんだね」


「それは認めます。ただ、人間とは不思議なもので、同じような考え方をする者がいくら集まっても、アイデアが堂々巡りに陥ることが多々あります。そこに異質な人材を混ぜると何らかの化学変化が生じ、ブレークスルーを起こすのを私はたびたび経験しました。何せ土門取締役はまだ若い。そのような私の経験を理解するのは困難だと思い、独断で人選いたしました」


 正論だ。俺達はあっけにとられ、ぐうの音も出なかった。かなり長い間沈黙が続く。


 役員の一人が口を挟む。

「しかし、そのような独断を認めていては社内統治が崩れてしまう。それについてはどう思っているのかね」

 テイラーは余裕綽々で答える。

「ガバナンスの問題は多くは上司のほうに問題があると常々思っているところです。問題があるならなぜ私に直に聞かなかったのか、すぐにでも納得行く答を示すことが出来たのに。そうでしょう、ミスター・ドモン」


 憎らしくもいちいち正論で攻めてくる。


 ジェイコブが鶴の一声を発する。


「言っている事の正当性は認める。しかしミスター・テイラーは取締役を明らかに愚弄している。よって子会社に出向し、そこで役職を与える。結論が出るまでは自宅待機をしていてほしい」


 俺は半分やり込められた格好だ。痛み分けというところか。忸怩たる思いを胸にモニターのスイッチを切った。


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