実家にて

 このマンションから実家には結構な距離がある。俺はそろそろと歩き出す。車で行き来した道だ。それを徒歩で歩いて行く。足が痛くなってきた。運動不足もいいところだ。三十分ほど歩いたら喉が渇いてきた。


 自動販売機でコーヒーを買う。それを飲みながら歩く。ゼロカロリーの旨くもなんともないやつだ。未来の世界では、ほぼすべてのジュース類がノンシュガーになっているようだ。それほど糖尿病などが蔓延しているに違いない。


 しかし、この辺りも三十年も経つとずいぶん様変わりをしている。俺の時間軸ではこんな高架橋などなかったはずだ。こんなところにコンビニも。


 川の土手に到着した。俺は疲労で腰かける。ここから北にあと二十分歩けば実家である。これは流石に残っているであろう。


 妹はちゃんと嫁に行っただろうか? 父や母の安否は……三十年後の今現在は、俺が五十七歳。両親は二人とも七十代になっているはずだ。


 自らを鼓舞し、またもや歩き始める。気が重い。しかし行かない訳には答えにたどり着かない。ゆっくりとしかし確実に歩をすすめる。やがて見慣れた住宅街に出た。ここは市内でも一番の住宅街で、地下鉄の駅があり、交通の便もいい。立派な邸宅が立ち並ぶ。


 だんだん我が家に近づいていく。悪い予感がする。しかし今考えても無意味な事だと思い直し、歩き続ける。


 角を曲がると我が家へ続く通りに入る。自宅はどれだけ変わったのだろうか。というのも、ノーベル賞を取ったあかつきには古くなった実家をリフォームする予定だったからだ。


 俺は肩で息をしながら実家の門をくぐる。しかし、実家は三十年前のままだ。とくに目新しいリフォームもしておらず、かといって古ぼけた様子もない。


 実家の回りをキョロキョロ見ていると、なんと黒ずくめの男がこちらに突進してくるではないか。俺はギリギリかわすと、男は包丁のような物を振りかざし尚も迫ってくる。


 顔を墨汁のようなもので塗りつぶし、誰だか分からない。しかし背丈や体格、醸し出す雰囲気で俺はピンときた。


 矢部に間違いない。


「正体は分かっているぞ矢部! さあ、その包丁をこちらに渡すんだ」


 名前を呼ばれて動揺したのか、激しい息づかいがこちらまで聞こえてくる。俺は頭をくるくると巡らすと、矢部がどうやってこの三十年後にやって来たのかが分かった。試作品のいかつい初号機を使ったのだ。間違いない。


 犬を使った実験ではタイムスリップは成功していることから、人間でも同じように作動すると踏んだのだろう。現にこうやって成功している。


 男の嫉妬はたちが悪い。今身を持って体験しているところだ。ここで俺を殺し、何事もなかったように過去へ帰るつもりらしい。しかし心の壁を築き上げ、俺に嫉妬をしているだけでこのような暴挙に出るとは……何とも卑劣な奴。

「俺はお前に小村先生の理論を何度も教えたよなあ、その恩を仇で返すとは。なあ、矢部よう、こんな事は終わりにしないか。お前が今書いている論文でも十分博士号が取れる。日常に戻ってくれ。俺もこの事は胸の中にしまっておくから」

 俺は矢部をなだめにかかる。


「うるさいうるさいうるさーい! お前のその傲慢な物言いが、俺をここまで追い詰めた。二度と口をきけなくしてやる!」


 極限状態の中、俺の悪辣な部分が出る。

「ちっ! 小さい男だなーおい。お前の頭の悪さにはほとほとあいそがつきてるんだよ。小村先生の研究室の中じゃお前だけが、先生の理論を理解出来ていない。足手まといなんだよお前は。早く目の前から消え失せろ!」


 俺にはそれほどまでに悪態をつく権利があるはずだ。もともとなんでT大の大学院に入れたのかも分からないほど、成績は悪かったし、いわゆる地頭が悪い。よく一を聞いて十を知るなどと、頭のいい奴を例えて言うが、こいつは真逆で十を教えても一を分かるかどうかさえおぼつかない。


 矢部がまたもや突進してくる。俺はその腕を取り押さえ込む。しばらく包丁の取り合いとなる。その折に軽く前腕を切ってしまったようだ。しかし興奮状態ではほとんど痛みを感じない。だがシャツに血が滲む。


「観念しやがれ!」

 矢部が叫ぶ。もちろん観念などするつもりもない。


「お前はどうしようもないバカだな」

「なんだとーっ!」

「今俺は元来た時刻へセットしなおした。これで帰って警察に行く。勿論お前を殺人未遂で訴えてやるつもりだ。そうすればお前は過去に戻る事もできずに宛のないこっちの世界をさ迷わなくちゃならない。そうなれば、院生という肩書きも使えなくて就職もままならないだろうよ。最後はドカタの下働きでもするんだな」


 矢部は一瞬 ひるんだが、気を取り直し

「うわー!!」

 と気でも狂ったように突っかかってきた。


 セットしなおしたというのは勿論ハッタリだ。そんなひまなどなかった。


 俺たちはまたしても包丁の取り合いとなり、俺が矢部の右手に思い切り噛みつくと矢部は大声をあげ、ようやく包丁を地面に落とした。


 矢部はすかさず落ちた包丁を拾おうとするが、俺は足でブロックする。しかししつこく拾おうとするその足元にある顔を蹴りつけてやった。正当防衛が完全に成立するだろう。未来の警察はどうだか知らないがさほど俺の時間軸の警察と変わらないに違いない。




「誰かいるの?」

 玄関の方から女性の声がした。庭先で男二人がこれだけ大騒ぎしているのだ。不審に思わない方がおかしい。矢部は包丁を取ることを諦め、俺を憎々しげに睨み暗い夜道を逃げていった。


 ゴルフクラブを握りしめ、出てきた女性は……まぎれもない、失踪した菜々子だった。

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