三十年後へ

 俺は朝早く起き、顔を洗い、主に下着類をスポーツバッグに詰めていった。最小限の着替えである。このアパートから旅立ってもいいが、もしかして最悪、帰ってこれなくなるかもしれない。


 理論には自信がある。が、世の中、理屈ばかりで通るものでもない。考えれば時空の狭間を作り出しそこを抜けていくのだ。これほど不安定な事もない。玄関横の明かり取りの窓から直射日光が入って、もうすでに暑い。今年は夏の到来が早いのか。などと、ここの心配をしている自分を笑う。これから出向くのは遠い未来だというのに。




 昼前、やっと研究室に出た。皆に挨拶をして回り、小村先生のデスクへ行った。


「おはようございます先生」

「おう、昼も早くから重役出勤か。で彼女はどうだった?」

 先生は暗い雰囲気にならないようにわざと明るく振る舞っている様子であった。おそらく最悪の事態を想定して。

「それが行方不明のままなんです、その変わりに……」

 俺はバッグの中から完成した二号機を取り出した。先生は一度眉をしかめてそれを手に取ると、次は目をひんむいた。

「こ、これは……二号機の完成形!! どこからこれを手に入れたんだね!うちにあるのはまだ試作段階だというのに」


 俺は土砂崩れの現場に行ったところから説明していった。菜々子のベッドに分かりやすく置かれていた事。おそらく事故で亡くなったことにしてほしかっただろう事 等々などなど


「もしかして助けを求めているかもしれません」

「それは一刻を争うな。早く跡を追っていくんだ!」


 なんだなんだと同僚が集まってくる。被験者が人間なのは初めてだからだ。


 その中に同級生の矢部がいた。彼とはゼミで一緒になってからずっと仲良くやってきた。しかし院生になってからは少しづつ距離を取り始めた。彼は小村先生の論文の要所、つまりは一番核になる部分がどうしても理解出来ない様子であったのだ。


 俺がどれだけ説明しても分からない。どれだけ参考書を与えても理解できない。そのうち俺も疎ましくなり少しづつ離れていった。


 先生の論文は、分からない人間にはどれだけ説明しても分からないが、分かってしまうと目からウロコが落ちるような内容で、高い高い壁がある。俺はその壁をエイヤッと一飛びで乗り越えたのだが、分からない人間は脱落していくしかなかった。


 そして二人の間に決定的な溝ができる事が生じた。俺はあるとき突然に雷に打たれたように、正解の見えなかった解をすらすらと解いてしまったのだ。それを先生に話すと、先生はなぜか窓の外をキョロキョロ覗き、

「それを今からすぐに博士論文にするんだ!」

 と、まるで大きな魚を逃さないようにと論文にまとめることを命じてきた。


「ノーベル賞が取れるぞ」

 先生の顔は真剣であった。


 面白くないのは矢部である。俺は先生の覚えもめでたく、時には飲みに連れて行って貰ったりしていたのだが、矢部は茅の外である。

 自ら壁を作り出していたのかもしれない。


 そして俺の論文が出来上がると小村先生の研究室で打ち上げパーティーが開催された。しかし、そこには矢部の姿はなかった。




「持って行くのはそれだけか?」

 先生がスポーツバッグを見て尋ねる。

「ええ、最小限の着替えだけです」

「そうか、では土門秀志君の門出を祝い、盛大な拍手を贈ってもらいたい」

皆が大きく拍手をする。俺は気を引き締める。

「気をつけるんだぞ」

「了解。では行ってきます」


 皆の拍手と心配そうな視線を受けながら、俺は赤いリューズを押し込んだ。


 俺の体が銀色に発光する。少しづつ目の前の同僚達が見えなくなる。最後に見えたのは矢部の冷たい視線だった。


少しだけのめまいが襲う。今まさにタイムスリップをしているのだ。


 一分ほどそういう状態が続き、俺はなぜか母校の小学校のグラウンドにどさりと到着した。一番下段に未来世界の時刻が表示されている。今は午後八時、回りは真っ暗である。


 少しだけ風が吹いている。月は同じく五月だ。コンビニに行って一万円札が使えるかどうか聞く。どうやら問題は無いらしい。他の紙幣もである。晩飯に弁当を買うと、駐車場に座り込み、これからの算段を始める。


 まず菜々子のマンションに向かう。流石にもう住んでないだろうなと思いながらもヒントでもないかとここに来たのだ。


 部屋の前に立ち、緊張しながらインターフォンのベルを押す。

「どちら様でしょう」

 声は菜々子じゃなかった。

「私は土門という者ですが、前にここに住んでいた細川菜々子という女性をご存知ないですか?」

「さあ……いつ頃の事でしょう」

「……三十年前ですけど」

「ふふ…それは流石に分かりませんね」

 インターフォンごしに笑っているのが聞こえてくる。俺は恥ずかしくなり、「失礼しました」と伝えてその場を離れた。


 夜の風が冷たくなってきた。最悪の場合、野宿をするしかない。


次のあては学生時分に住んでいたアパートである。ここには歩いて四十分もかかってしまった。車のありがたみが分かる。


驚いたのはアパートはもう取り壊されて立派なマンションに衣替えしていた事だった。これでは何の手がかりも無いであろう。


 後の拠り所は実家しかないが、何かよからぬ予感がする。何かが待っている感覚がある。


 しかし行くしかあるまい。菜々子と再開するために。

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