腕時計

「これは現在T大の僕の研究所で極秘に開発中のタイムマシンです。上の段に今の時刻。真ん中に行きたい年月日、下段に到着する予定時刻となっています」


 変な勘の話にタイムマシン。マッドサイエンティストと思われても仕方がない。


 しかしお父さんは食いついてきた。

「どれどれ……」

「あ、横のボタン類には触れないでくださいね。おそらく菜々子さんがセットした時刻が分からなくなってしまいますんで」

「真ん中が年月日かね。20XX年、今からおよそ三十年後じゃあないかね!」

「そうですね。恐らくその時間軸に菜々子さんはいると思います」


 お父さんは俺の事を心配してくれる、優しい人だ。俺は自分を結構悪辣な人間だと密かに思っているが、優しい人には敵わない。自分の卑小な人間性を写し出す鏡だからだ。


 その優しさに触れるとこっちも穏やかな人格になるから不思議だ。人間の脳の中にはミラー細胞なるものがあるという。例えばいつも笑顔の人には、こちらもつい笑顔で返している。これまで出会った人がもっと人間性に溢れた人達だったら……自分の人格もやんわりしたものになったに違いない。


 しかしこちらはもう二十七歳。この持って生まれたしかめっ面はもうなおりそうにない。




 ふたつの謎を残して消えた菜々子。ひとつはあのような小さな集落に出向いた事。そして、土砂崩れのふちが何処まで来るのか知っていたようなジャストな位置に車を泊めて待っていた、その判断力。


 これは、もしかしてタイムスリップを企てた未来人の言う事を聞いて、その通りに事が運んだ結果ではないのか。目的はもちろん事故で処理してもらうことであろう。しかし俺には行き先の痕跡を残してくれた。これは行くしかない。はやるような、焦るような複雑な気持ち。菜々子が成功していることからして少しは気が楽ではあるが……


 それと菜々子を連れ去った未来人の方も気になる。誰なんだろう。知り合い?それとも未来で菜々子が出会う人? 興味はつきない。


「私はね、菜々子には夢を追いかける人生を送って欲しいんですよ。会社役員と言えどもしがないサラリーマンに過ぎません。菜々子には、そんなありきたりな人生を送って欲しくなかった。最初はいろんな習い事をさせました。でも一番興味を示したのがピアノだったんです」

 お父さんが語り始める。

「とにかく物心がつく前からピアノが好きで好きでしょうがないといった感じであたっていました。好きこそものの上手なれと言います。他の習い事は一切やめさせて、ピアノ一本にしたんです。三才児用の小さなピアノでしたが、みるみるうちに上達して」

 お父さんが涙ぐむ。

「小学生に上がると同時に一部屋防音室に改装し、グランドピアノを買い与えました。それからはまさに寝食を忘れたようなピアノ漬けの毎日でしたが、愚痴ひとつ言わずに練習していました。音大に入ってもプロレベルは菜々子ぐらいのもので、親ばかかもしれませんが群をぬいていました」


 お父さんはスーパーで買ってきたと思われる一升瓶をとりだし、コップになみなみと日本酒を注ぐ。

「秀志さん、今日はとことん行きましょう!」

「分かりました。お供します」

 俺も飲みたい気分だった。静かな空調の音だけが聞こえる主がいなくなったこの部屋で、お母さんも交えて静かな宴会が始まった。


 俺は一杯めは一気に飲み干した。えぐさのない飲みやすい日本酒である。

「美味しいお酒ですね」

 俺が素直に言うと、

「分かりますか。名酒ですよ」

 と破顔した。


 酒が腹にしみる。

「しかし、近々ドイツでコンクールがあったはず。それをなげうってまで行かなければならない何かがあった……全く思いつきません」

 俺が正直に言うとお母さんが涙ながらに訴える。

「どうぞそのタイムマシンで菜々子の事よろしくお願いいたします」


「任せてください。必ず菜々子さんを連れ戻してみせます」


 空になった俺のコップにお父さんがまたなみなみと酒を注ぐ。俺は今度はちびちびとやりはじめる。スーパーで買ってきたおつまみも遠慮なくいただくと、お父さんが一枚のDVDを取り出す。

「これは菜々子が高校生だった頃の画像です」

 DVDプレーヤーにセットし、スイッチをONにすると、かわいい菜々子の姿がテレビで再生される。遊園地に行った時に録画したもののようだ。お父さんはそれを見ながら涙を拭いている。

「アイドルみたいですね」

 俺は見たままを言葉にする。俺は今年で二十七歳、菜々子は二十歳だ。しかし年の差は感じない。どころか精神年齢は菜々子の方が年上に感じる。


「僕も心に穴が空いたような気分です。研究に忙しくて菜々子さんを少しないがしろにしていた感は否めません。反省しています」

「いえ、自分を攻めないでください。菜々子は自分の意思で行ったんですよね。それだけ切迫した事情が有ったのでしょう。コンクールをなげうつ程の何か。自分の人生をなげる程の出来事。それだけ菜々子を突き動かす事があったに違いありません」

 お父さんはしきりに俺をかばってくれる。お父さんが泣いているのを見てこちらも思わずもらい泣きする。


 お父さんはもう手酌で飲んでいる。きっと俺より辛いに違いない。


 しばらくするとお父さんはソファーで眠ってしまった。

「今日はよほど疲れていたのね」

 お母さんが毛布をかける。

「じゃあ、僕もそろそろ帰ります」

「車に乗って来たのね、これはタクシー代よ」

 お母さんが一万円札を取り出すのを見て俺は慌てた。

「あー、そんな事をしていただなくても…」

「お父さんの相手をしていただいたお礼よ。受け取って頂戴」

 お母さんはやんわりと俺の胸のポケットにねじりこむ。

「そうですか、それじゃあ遠慮なくいただきます。ありがとうございます」

 菜々子のマンションを出た。夜の風が心地いい。俺はタクシーと、運転代行を一台ケータイで呼ぶと、夜風の中で待つ。やがてタクシーが到着し、住所を告げた。まだあまり酔ってはいないが、部屋へ帰ると安物のブランデーが待っている。


 アパートに到着した。車を駐車場に入れてもらい、料金を払う。


 忙しなかった今日を振り返る。まさか、ご両親と飲むとは思わなかった。飲み崩れなかったのがせめてもの救いか。アパートの階段をカンカンカンとかけあがり、部屋のドアを開けた。

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