クリスタルガラス

 桜が舞落ち、葉桜になった。一年で一番過ごしやすい季節の到来だ。街を歩いている人たちもなぜか輝いてみえる、不思議な季節。


 俺と菜々子は共通の趣味を持っていた。クラッシック音楽である。菜々子がピアノを弾ませ、俺がフルートを吹く。菜々子のマンションには、グランドピアノを置ける防音室があり、親が会社役員だというのも頷ける。一言でいうとお嬢様である。


 菜々子は小さな頃からピアノを習っており、プロを目指して現在音大に通い必死に練習している日々であった。


 俺の方は完全な素人の趣味で、子犬のワルツがようやく吹ける程度の腕前である。そして二人でセッションするのがデートであった。


 今朝はラボを休むよう先生に連絡をしてある。先生は、

「恋人が行方不明なのか? それじゃあ仕事にならないわな。無事を祈るよ」

 と、優しく気づかってくれた。


 防音室でピアノをあたる。俺も二三曲は弾ける程度の腕はある。まあ、素人レベルではあるが。


 菜々子はいつもどういう気持ちでセッションしてくれていたんだろう。フルートとピアノの二重奏の場合、フルートがメロディーを、ピアノが伴奏を受け持つことがほとんどである。フルートがメロディーの気持ちいいところを弾いている最中でもピアノは伴奏のコード弾きだ。あまり楽しいものでもないだろう。よもやそれにねて何処かに消え去ったのではないであろうが。


 朝の九時、警察署に行く時間だ。俺は愛車のゴライアスに乗り込み警察署に車をすべらせる。冷房を入れるより窓を開ける方が心地いい。田舎の学園都市だ。様々な大学の支所や研究所が集っている。渋滞もなく三十分で署の駐車場へついた。


 受付へ行き、捜索願いを出したいと言うとしばし待たされる。奥から担当者が出てきた。

「一昨日の土砂崩れの件ですね」

 奥まったところにあるソファーに通され、小声でしゃべる四十前の男……担当者として出てきた者に、俺は一から説明した。


 なぜか男は事故扱いにしたいらしく、口では「ええ、ええ」と言ってはいるものの、話は耳から耳へ通り過ぎるようだった。


「事件だと言ってるんだよ!」

 机をバーンと叩き、俺は少しキレ気味に言った。さすがに男は目を見開いたが、態度は変わらず「まあまあ」などと、なだめようとする。


 俺はポケットから手帳を取りだし、ボールペンを借りる。

「あなた、お名前は?」

 俺の態度の硬化に目を白黒させはじめた。

「こんな対応で初動捜査が遅れてよもや事件に巻き込まれてでもしたら、国なんかのぼんやりとした誰も責任を取らないところじゃなくて、あなた本人を『個人』として訴えますからね。で、お名前は?」

「ちょっ、ちょっと待って下さい……」

 男の額には汗がにじんでいた。 慌てた様子で席を外すとしばらく待たされたあと、

「私が責任者です」

 と、五十歳前後のくたびれた顔にジャケットを脱いだ壮年の男が現れた。


 俺は名前を聞いた。男は加藤と答えた。

 説明をまた最初からやりなおしだ。土砂崩れは運転席側にしかかかっていない事、助手席側から逃れられた事、おそらく誘拐されている事……加藤は真剣に手帳にメモを取っている。


「分かりました。事件の方からもあたってみましょう。この申請用紙に捜索願いを書いて下さい」

 やっと話が分かる人間が現れた感じだ。用紙に書き込んでいる間、無言の緊張感が二人を覆う。申請用紙に書き込むとようやく興奮が収まった。


「ご職業は何ですか」

「T大の大学院生です。小村 弘明ひろあき先生の研究室に名を連ねています。」

「それは優秀な……雲の上の世界ですな。で、どんな研究を?」

「グラビトンを使った時空変性の確証性を研究しています。そんなことよりも菜々子をよろしくお願いいたします」


 俺たちは握手をして警察署を出た。


 しかし最初の若い男の方の対応はなんだったんだ。それほど事件扱いにするのは骨が折れる事なのか。俺はもう一度彼女の家へ向かう。防音室に山積みになった譜面の数々、それを収納する、大きめな本棚、そして……


 そして俺が気まぐれでプレゼントした、クリスタルガラスの小さなオブジェ。様々な形のピースが融合し、複雑な形状が作れるようになっている、立体パズルのようなものだ。


 俺はなぜだか今はまとまっているそれを壊したくなって右手を振りかざす。しかし、菜々子が一生懸命に組み合わせた情景が目に浮かぶと力なく右手を下ろしてしまった。


 ご両親のことを忘れていた。リビングのソファーに座ると、田舎のお父さんに電話をかける。


 長いコールの後、ようやく出てくれた。一度菜々子の家には挨拶にいっているので、人となりは知っている。物腰の柔らかい田舎の普通のお父さんという感じの人だ。


「こんにちは。菜々子さんのお父さんですか。私は半年ほど前にそちらへご挨拶に伺った土門秀志というものです。ごぶさたしております」

「あー、この前の?何でも菜々子が、土砂崩れに巻き込まれたとか。警察から連絡があってね、今そちらへ向かう準備をしているところだ。君にはすまないね。いろいろ動いてくれてるようで」

 警察はやはり事故の線で処理をする気らしい。ここまでくると怠慢を通りすぎて悪意すら感じる。


 俺は例の物体をポケットから取り出してみる。腕時計のようだが、腕時計じゃあない。上段に現在の時計、そして真ん中に年月日、下段にその日の予定時刻。


 そう、これは今俺のラボで開発中のタイムマシンなのである。


 理論には絶対の自信がある。初号機の犬を使った実験では成功もしている。三日後にセットし、三日間待っていると、予定した時刻にジャストで現れた。まるでイリュージョンのように。


 グラビトンを使った時空変性の確証性とは俺の書いた論文で、苦労して書き上げたというよりも、ある時頭のなかのスイッチがずらずらずらっと繋がり、まさに天から降ってきたような感覚で書き上げたものだった。


 白い本体にデジタルの液晶表示。予定では後一月で完成するやつがなぜ菜々子のベッドに置いてあったのかは分からないが、俺はとっさに、これを使わなければ菜々子に会えないという確信を持った。


 お父さんとお母さんは高速で五時間もかかるという、かなりの田舎に住んでいる。菜々子も当然そこの出なので、たまにアクセントがおかしい事がある。そういう時は囃し立てると、ほっぺたをプーッとふくらませる。その顔が可愛くて何度も小バカにすると、流石に本気で怒りだし、俺も自分のこどもっぽさに自分でも嫌気がさしてくるのである。それも今となっては楽しい思い出だ。しかし懐かしんでなんかいられない。今は一刻を争う事態なんだと思いなおし、お父さんに告げた。

「これはただの失踪じゃないんですよ」

と、……

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