第一章
失踪
恋人がいなくなった。
それは突然すぎて電話越しにしゃべっている警察の、後の話など頭に入ってこなかった。
三日前から激しい雨が降っていた。ぼんやりしている頭に入ってきた情報によると、どうやら土砂崩れに巻き込まれたという事務的な口調だけが耳に残った。俺の恋人、細川菜々子の乗る車が半分だけ土砂に埋まっているらしかった。
菜々子の両親はここからずっと離れた地方都市にすんでいる。それでケータイに履歴が残されていた恋人である俺に実況見分にきて欲しいということだった。
俺―土門
すっかり君に夢中さ、この想いアンタレスにまでとどけ。
星の住民よ。僕の想いの大きさに驚くなよ。星の小ささに驚くんだ。
最近気にいっていつも車でかけている歌だ。
空っぽの頭のまま、現場に到着した。まず驚かされたのは、菜々子はこんな山奥に何をしにきたのだろうという事だった。
山あいの集落に行く一歩手前の、車がぎりぎりすれ違うことが出来るほどの道。その道に上の杉林が土砂になって横の川に流れ込んでいる現場。すでに重機が到着し、土砂の撤去に追われている。
やがて菜々子の赤い車が見えてきた。
なまめかしいでしよ。赤は……赤い口紅をつけて、そんなことを言っていた記憶がある。
しかし、どこかおかしい。車は確かに土砂に接触していたが、埋まっているというよりも横からぶつけた程度であり、土砂の反対側はまるで無傷だったからだ。
「いやーお越し頂いて申し訳ない。履歴にあった友人達が、話を聞くなら恋人であるあなたに聞いてみるのが一番いいと口を揃えてそうおっしゃるもので」
刑事と思われる者が、そう言いながら右手をつき出す。俺も手を出し握手をする。グレーのジャケットの上下に少しだけ薄汚れたコートを羽おり、尊大な目付きでこちらを見る。
「捜査二課の佐内です。事件性はないようですな。おそらく一週間内までには、かたがつくでしょう」
「かたがつくとは?」
佐内は言いにくそうに歪んだ笑顔を見せ、俺にハッキリとこう言った。
「土砂が撤去されて遺体となって発見される事ですよ」
そんなはずはない! 反対側の席から楽に出入り出来るはずだ。
俺は大声で怒鳴った。
「これはどうみても事件でしょう!助手席側から楽に乗り降りできる。車を土砂から出そうとしているところを、手伝う振りをして近付き菜々子をさらっていったに違いない。捜索願いを出します!あなたに言ってもダメそうですからね、B市警察署に直に出してきます。それでは」
佐内は何かを言いたげだったが、俺を止めるのを
俺は人より勘がいいと自負している。特に緊急事態であればなおのこと勘が鋭くなる。
今回も勘が働く。警察署に行く前に彼女の部屋に行くべきだと。菜々子の部屋のキーは持っている。お互いに交換しているのだ。それは去年のクリスマスイブの事。向こうからプレゼントとして貰ったものだった。甘い思い出である。その日初めて結ばれたのだから。
もしかしたら彼女の部屋に着くと甘ったれた声で「お帰りなさい」と迎えてくれるかもしれない。俺は焦りにも似た気持ちで、車をとばす。
「ふー」
俺は煙草を吹かし高ぶる気持ちを落ち着かせる。やがて車を降りると彼女のマンションへ向かう。もう夕方の六時。空は薄暗くなってきた。
鍵を取りだし、ドアを開ける。その時一人の男の手が俺の手に添えられた。
「ひっ!」
俺は身体中に鳥肌が立つのを感じた。先程の刑事、佐内である。どうやらつけてきたらしく、無言で開けるように催促しているように見える。
「あんた、捜査令状持ってんのか? それが無い限り強制捜査は出来ないはずだぞ」
「ちょっと彼女の部屋を覗いて安否の確認をしたいだけなんだよ。玄関だけならいいだろう?」
「しょうがねーなー」
俺は部屋の中に入り、なかの様子を探る。リビングに台所、寝室にベランダ、そして防音室、やはりここにはいなかった。
しかしベッドの上に、妙な物を見つけた。それを手にとり、すかさずジャケットの内ポケットにしまう。そう遠くない将来、これを使う時がくる気がする。なぜここにこれが有るのか分からないが、菜々子が置いていってくれた。そんな気がした。
再び玄関にいる佐内に告げる。
「やっぱりここにはいないみたいですね。彼女を捕まえるのはやはり警察に相談するしかないようです」
「そうか、それじゃあ帰る事にするよ。邪魔したな」
佐内はそういうとやっと目の前から消えてくれた。
俺も帰る事にした。菜々子が残したあの物体を持って……
自分の部屋へ戻ると、飯を食ってない事に気づいた。仕方がないかと、カップ麺で夕食をすませる。湯船にどっかりと座り、今日一日の疲れを落とす。
それにしても、菜々子はどこに行ったのか。何か連絡があればいいものを。それを解く鍵はあの物体にある。それを警察よりも前に回収できたのは不幸中の幸いであった。少しだけ涙がにじんだ。まだ付き合いはじめてから一年たっていない。あれもしてあげればよかった、あそこにも連れていってあげればよかった……風呂に入っている間、一通り泣いた。まるでもう会えないかのように。
俺は部屋着に着替え、安物のブランデーを一口やる。彼女がいま何処にいるかは、分からない。しかし犯罪などに巻き込まれていなければいいのだが……。やがて酔いつぶれて今夜は静かにベッドに横たわった。
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