巳ノ淵・10

 摘み草が行われる当日の朝、香織と龍樹はバス停への道を歩いていた。翌日からは学校があったため、どうしてもその日のうちに家に戻らなければならなかったのだ。

 手伝いという名目で来てはみたものの、ほとんどお客として扱われた感じだったな。歩きながら、香織はぼんやりと考えた。助けになったというよりは、むしろ世話をかけてしまったんじゃないかと心配だった。けれど、キクコさんも邦夫おじさんも二人が来たことをとても喜んでくれて、別れを惜しんでくれた。キクコさんに至っては、ちょっと涙ぐんでくれたほどだ。

「二人とも、近いうちにまた来てね。山も喜ぶし、私たちも嬉しいから」

 山も喜ぶ、というのは不思議な表現だと思ったけれど、今の香織になら、ほんのちょっとその言葉の意味が分かるような気がした。

「中でも、特に喜ぶのは衛かな。なっ、衛!」

 邦夫おじさんに小突かれた衛は、一瞬恥ずかしそうな顔でちらりとおじさんを見上げたが、特に否定することもなく黙っていた。

 摘み草の準備で忙しい両親に代わって、衛がバス停まで付いてきてくれた。来た道と同じ調子で、龍樹と衛が野草について話をしているのを聞きながら、香織は二人の後ろを黙々と歩いた。連休に天気が崩れることは一度もなく、最終日のその日もよく晴れていた。道沿いを流れる川は相変わらず澄んでいて、時折深みの奥にうっすらと見える青は、巳ノ淵で見たあの青い輝きを思わせた。

 ほんの少しの間しか滞在しなかったのに、ここに来てから、随分色んなものを見た気がした。数日前に見た同じ景色が、今は少し違って見える。鳥の声も、木々のざわめきも、以前よりもはっきりとに耳に届いてくるような気がした。

 ――私、茅さまと本当に会ったんだよなぁ。

 あれは夢だったんじゃないかと時折疑わしくなるのだけど、そのたびに茅から預かった鋏のひんやりとした重みと、貰った草餅の味を思い返した。あの草餅は、薗からの帰り道に衛と半分こして食べてしまった。あんなに蓬の緑が鮮やかなお餅を食べたのは初めてかもしれない。口にした途端、香りがふわっと立って、忘れられない味になった。

 そういえばお兄ちゃん、茅さまにかきもちを持って行っていたっけ。草餅もすごく嬉しそうに食べていたし、きっと茅さまは、食べることが好きなのだろう。また会うことがあれば、私も何か美味しいものを持って行ってあげよう。

 また、会うことがあれば。

 ……再び会うことなんて、あるのだろうか?

 

 ――目に見えないものは、いないもの。もしいたとしても、見てはいけないもの。

 いつも呪文のように唱えていた言葉が、ふと頭をよぎった。

 茅さまとあの白蛇が存在しているように、天ヶ瀬の山に人々の記憶が生き続けているように。この世界には「目に見えないもの」が満ち満ちているのだとして。

 それらが時に、人に害をなすものであったとしても。

 それでも、私がここで見たものは、ただ純粋に美しかった。

 ――いつかまた、会いたいな。

 バス停で待っている間、龍樹と衛の話す声を聞きながら、ぼんやりとした頭で、ずっとそんなことを考えていた。

 やがて、路線バスが遠い山の向こうから降りてくるのが見えてきた。

「じゃあな。次に会うときまで元気でいろよ」

 龍樹が衛に声を掛ける。

「はい、龍樹さんも」

 衛は普段どおり淡々とした様子である。昨日、土蔵で龍樹にからかわれてからというもの、何となく気恥ずかしくなってしまい、お互い積極的に言葉を交わさなくなっていた。龍樹はそんな気持ちなどお構いなしで「ほら、香織も何か言えよ」と言って、ぽんと肩を叩いてくる。

 ――もう。人の気もしらないで!

「ええと、あの。色々お世話になりました」

 戸惑いながらも声を掛けると、「こちらこそ」と、いつもの通り素っ気無い言葉が返ってきた。お兄ちゃんのせいでこっちは変に緊張してしまっているのに、衛くんは平気なんだ。なんだかずるい。

「それじゃ……、元気で」

 バスが停留所に止まり、扉が開く。龍樹が乗り込んだ後から香織がステップに足をかけた、そのとき。

「香織ちゃん」と声を掛けられたのと同時に、手のひらを握られた。

 振り返ると、衛がこちらを見つめていた。それはいつもの通り感情の読めない顔つきではあったけれど、遠慮がちに手を握るその仕草はこれまでよりもぎこちなく、そして優しかった。

「あの、これ」

 小さな紙片を差し出され、香織は何かを考える間もないまま受け取った。

「香織ちゃんに会えて、すごく楽しかったから」

 渡すことが出来てほっとしたのか、衛の眼差しは幾分柔らかくなった。

「僕、これからきっと寂しくなるよ」

「えっ」

 驚いた香織の目の前で、バスの扉が閉まる。扉の向こうに立つ衛は、笑顔で手を振った。

 ゆっくりとバスは動き始め、速度を増してゆく。遠ざかる人影が見えなくなるまで手を振ってしまうと、香織は手にした紙片に目を落とした。

 それは本のしおりだった。手触りのいいクリーム色の和紙は、紫色の小さく可憐な押し花で彩られている。裏側には几帳面な文字で「秋の薗もきれいだよ」と書かれていた。

「お? ムラサキセンブリか。これは秋にまた来いってことだな」

 上から声が聞こえるので、見上げると、龍樹が香織の持っているしおりを覗き込んでいる。

「もう、勝手に見ないでよっ」

 慌てて隠すと、龍樹は「なんで?」と言って笑った。

「な、いいところだっただろ?」

「……まぁ、ね」

 恥ずかしくなって目を逸らすと、龍樹の大きな手のひらが香織の頭を撫でた。

「次もまた、一緒に来ような」

「……うん」

 

 そうだね。二人でまた会いに来よう。

 今度は、別の季節でもいいかもしれない。

 

 香織は窓の外に目を向ける。

 山を彩る木々の緑はどこまでも若々しく、眩しかった。

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

摘み草の薗 西乃 まりも @nishinomarimo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る