巳ノ淵・9

 ――香織ちゃん。

 肩をゆすられ、香織は我に返った。

「香織ちゃん、どうしたの? 立ちくらみ?」

 見上げると、衛が心配そうにこちらを見下ろしていた。

「急にうずくまるから、びっくりした。大丈夫?」

「ん……」

 ぼうっと辺りを見回すと、薗はいつもの状態に戻っていた。

「あれっ?」

 茅さまはどこ? 立ち上がろうとしたとき、何かが硬い音を立てた。

「あっ――」

 膝から敷石の上に滑り落ちたのは、茅が渡してくれた鋏だった。

「これ、うちの鋏?」

 驚いた顔で、衛は鋏と香織を交互に見やった。

「香織ちゃん、ここに来るときには鋏なんて持っていなかったよね」

「うん」

 拾おうとかがんで、もうひとつ落としていたものに気が付く。

「これ……」

「何?」

鋏と一緒に転げ落ちたのは、茅が香織にくれた草餅だった。

「草餅?」

「うん」

 落としてしまったけれど、柏の葉に包まれていたおかげで、中のお餅は綺麗に保たれていた。

「茅さまにもらったお餅、持って帰ってきちゃった」

「えっ! それじゃあ、もしかして」

「私、会ってきたよ」

「……そっか」

「衛くんが言ってたこと、この目で確かめてきた」

 もっと驚くかと思ったが、意外にも衛は冷静だった。

「本当に、会えたんだ」

「うん。衛くんの言うとおりだった。ごめんね」

 こっちが素直に謝っているのだからもっと嬉しそうな顔をすればいいのに、衛はやけにガッカリしたような表情を浮かべている。

「だけどひどいなぁ。どうして香織ちゃんだけ? ずっとここに住んでいる僕は一度も会ったことがないのに」

 拗ねたような調子で言う。

「どうして僕のところには、姿を見せてくれないんだろう」

「姿は見えなくても、茅さまはいつも衛くんのことを見てるよ」

「一方的に見られてるだけなんてやだよ! 僕だって会ってみたいよ」

 突然駄々をこねるような調子で口を尖らせる衛を見て、なんだ、年相応なところもあるんじゃないのと、思わず笑いがこみ上げてきた。

「茅さま、衛くんとおんなじ髪型にして欲しかったんだって。でも、お兄ちゃんに髪を切るのを失敗されて、女の子みたいな髪型になってたよ」

「えっ? 龍樹さん何やってんだよ、ひどいなぁ。茅さま、怒っていなかった?」

「ううん、それはないけど。でも、すごくきれいな白い髪だったから、切らなくてよかったかも。あのままのほうがいいと私は思うけどなぁ」

「髪が白いっていうのは聞いたことあったけど……、やっぱりそうなんだね」

「うん。あとね、瞳が赤くて、私たちと同じくらいの子供の姿をしているの。あ、そういえば、巳ノ淵に、大きな白い蛇がいたのも見たよ」

「蛇……」

 香織の言葉に何か引っかかったのか、衛はしばらく考えをめぐらせていたが、突然「アッ」と声を上げた。

「戻ろう、香織ちゃん」

「えっ?」

 衛は急かすように腕を引っ張ってきた。

「いいもの、見せてあげるよ」



 藤堂家に戻った衛は、仏間から、大きな古い鍵とL字型をした不思議な鉄の棒を持ち出してきた。

「それ、何?」

「二つとも蔵の鍵だよ。本当は親に許可取らないといけないんだけど、今日は内緒で」

 一つめはまあ鍵の形をしているので分かるが、もう一つは鍵というより、何かの器具にしか見えなかった。草刈りの時に使う、小ぶりの鎌くらいのサイズはある。衛は家の裏手に建つ土蔵に香織を連れていくと、まずは一つめの鍵を使って大きな錠前を開け、重たそうな表の扉を満身の力を込めて引っ張った。これで中に入れるのかと思いきや、その奥には頑丈そうな木の扉が作られている。扉の下のほうに、小さな穴が開いているのが見えた。衛はさきほどの鎌のような形の大きな鍵を扉の下にある穴にゆっくりと差し込むと、慎重な手つきで動かしている。

「よし」

 どうやら手ごたえがあったらしい。満足そうな表情を浮かべた衛は、鍵を引き抜くと、扉を横に引いた。衛の背中越しに中をのぞき込むと、木の扉の奥に、更に網戸の扉が見えた。三つめの扉を開けるとようやく、隙間から差しこむ光の線が、蔵の中を照らし出した。

 中はひんやりとしていて、古い木と紙の香りに満ちていた。薄暗い室内には、木製の書類棚や文箱がところ狭しと並べられている。衛は勝手知ったる様子で中に入ると、書類棚に付いたラベルを確認しながら、何かを探している。香織も恐る恐る中へと足を踏み入れた。

「ええと、このあたりにあったんだけどなぁ」

「ねえ、勝手に開けたりしていいの? 邦夫おじさんに叱られるよ?」

「大丈夫だって。……うーん、この辺りだったかな」

 衛は引き出しを開けて中の書類を物色している。

「あった、これだ。ねえ、香織ちゃん、こっちに来て」

 手招きする衛に近づいていくと、彼は一枚の古い紙片を持っていた。

「この絵、見て」

「あっ――」

 見た途端、ぞわりと肌が粟立った。

「これ、うちの先祖の誰かが描いたものらしいんだけど、香織ちゃんが見たものって」

「そう、私が見たの、多分この蛇とおんなじだよ」

「そうなんだ……。やっぱり、この絵、そうなんだ! すごい!」

 衛の声が嬉しそうに弾む。

「この絵は、水神さまの姿だって言われているんだ」

 二人はしばらく黙ったまま、その古い紙に描かれた蛇の絵を見つめていた。それはちょうど香織と同じように、薗から巳ノ淵を見下ろした格好の絵だった。きっと誰かが自分の見たものを記録するために描いたのだろう。墨で描かれたその絵は、お世辞にも手馴れているようには見えなかった。滝壺の中で蛇が身をくねらせている様子が描かれていたが、瞳の部分だけは、朱色の点で表現されている。絵の周囲には流れるような筆文字で文章がたくさん書き込まれていたが、香織にはまるで読むことができなかった。

 読めない言葉、古い紙片に描かれた蛇の姿。遠い昔にも、あの場所で、香織と同じようにあの白い背を見下ろしていた人がいると思うと、心がしんとするような、不思議な心持ちになってくる。

 ……と、そのとき。

「コラアアァッ!」

「!」

 静かな土蔵の中に突如怒鳴り声が響き、飛び上がるほど驚いた。香織は思わず短い悲鳴を上げ、衛の腕にしがみついた。

「……なんだ、龍樹さんか。びっくりした」

「お兄ちゃん?」

 笑い声が響く。振り返ると、龍樹が蔵の入り口に立っていた。

「ちょっと、もう! 脅かさないでよ」

「こんなところで何やってんだよ、二人して悪巧みか?」

「水神さまの絵を見ていたんです」

「へえ? なんでまた」

「実はさっきまで、僕たち、薗に行っていて……」

「僕たちっていうと、二人だけで?」

 龍樹は意味ありげな声色で返す。

「ええと、はい」

「なんだよ。お前ら、最初に会ったときはロクに喋りもしなかったくせに。知らないうちに、えらく仲良しになったんだな」

 ニヤニヤしながらそんなことを言うので、思わず衛と顔を見合わせた。初対面の印象が風変わりすぎて全然そんな意識を持っていなかったのに、そんなことを言われてしまうと、ちょっと……、いや、かなり気恥ずかしい。衛も多分、同じような気分なのだろう、なんとも言えない表情を浮かべている。二人は、どちらからともなく一歩ずつ距離を置いた。

「ふうん、なんだかお宝がいっぱい眠っていそうな蔵だな」

 そんな微妙な空気など気にもかけず、龍樹は土蔵の中を眺め回しながら、のんびりと近づいてくる。ジャージのポケットからクサイチゴを取り出してポイと口に放り込むと、衛の持っている紙に目を落とした。

「水神さまの絵ってそれ? ちょっと見せて」

 持っていた紙に手を差し出されたものの、衛は渡そうとしない。

「龍樹さん、これ、大事なものだから。まずは手を洗ってくれないと」

「あっ、すまんすまん。俺も今、山から降りてきたばかりで」

 汚れた手を引っ込めると、後ろ手で服にごしごしとこすりつけながら、龍樹は首をにゅっと突き出して、その絵をじっと眺めた。

「巳ノ淵の絵か。よく描けているじゃないか」

「お兄ちゃんも、見たことあるの?」

「まあな」

 相槌を打ってしばらく経ってから、龍樹は驚いたように香織に目をやった。

「……って、おまえ、もしかして見た? 白蛇」

「うん。茅さまにも会ってきたよ」

「エッ!」

 途端に、龍樹の顔が赤くなる。

「あいつと何か話をしたのか?」

 急に弱腰になった龍樹が、探るような口調で尋ねてくる。

「これ。鋏を返してくれって頼まれたの。お兄ちゃんからキクコさんに返しておいてね」

「あ、そういえば持って帰ってくるの忘れてた」

「お兄ちゃんに途中で逃げられたって、茅さま、言っていたよ」

「いや……。頼まれたから切ってみたけど、案外難しくて……、床屋が専門職なのが身に沁みて分かったっていうか……」

 鋏を受け取りながら、龍樹はもごもごと言い訳を並べる。

「それとね。私のいないところで私のことをべらべら喋るの、やめてくれない?」

 香織の言葉に、龍樹はますます顔を赤らめた。

「あー……やっぱり聞いた? ……だろうなぁ。茅のやつ、デリカシーないからなぁ」

「……デリカシー……」

 呆れたような表情で衛が呟く。

「なあ香織、あいつに何を聞いたんだよ。兄ちゃんに洗いざらい話せ」

「やだよ、教えない」

 いつもいつも振り回されてばかりなので、何となく意地悪したくなってきた。

「何だよ、にやにやしやがって。教えてくれたっていいだろ」

「自分で話したことぐらい、私に聞かなくたって分かるでしょ?」

 香織の態度で察したのか、龍樹は絶望的な表情を浮かべる。

「クソー! あの野郎、俺の恥ずかしい愚痴まで洗いざらい喋りやがったな!」

「そんな風に言うもんじゃないよ。茅さま、お兄ちゃんのこと、すごく心配してたんだから。お兄ちゃんは自分の友達だから、あんまり悲しませないでくれって、私、頼まれたの」

「あー……」

「大体、いちいち気にしすぎなんだよ。私、元気だって言ってるのに」

「ハイ」

「ほんと、大丈夫だから。あんまり心配しないで。分かった?」

「……ハイ」

 結局うなだれて全面降伏した龍樹だったが、うなだれつつも背負っていたリュックの中をごそごそと探り、スーパーのビニール袋に入った何かを取り出すと、衛に差し出した。

「これ、衛に土産」

「あっ、サルノコシカケじゃないですか! 大きいなぁ。どこで見つけたんですか?」

「えっとなぁ……あれっ、どこだったっけ? 昨日からずっと、ここいらの山をウロウロしてたから」

「お父さんに見せてあげてください。喜びますから」

 持っていた絵を元の棚に仕舞うと、衛は嬉しそうにビニール袋の中身を覗き込みながら、龍樹と一緒に蔵を出ていく。

「あっ、ねえ、ちょっと待ってよ!」

 キノコの話題に夢中な二人になら、存在を忘れられて蔵の中に置き去りにだってされかねない。香織は慌てて二人の後を追った。

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