巳ノ淵・8


 ――誰か、いる!

 さっきまでは誰も居なかったはずなのに。心臓が飛び出すかと思うぐらい驚いてしまい、緊張で体が竦んで急には身動きが取れなかった。それでも息を整えてゆっくりと頭を上げると、男の子が崖の縁に腰掛けて、眼下の滝壺に目を落としていた。

 その姿に、思わず目を見張った。香織の視線に気がついたのか、彼は振り返ってこちらに笑顔を見せた。ほっそりとした姿かたちこそ香織と同じ年頃の少年に見えたが、その白い肌、肩にかかる純白の髪、暗い赤味を帯びた瞳の色は、どこの世界にも存在し得ない、異質なものだった。

 そして極めつけは、彼の着ている服。

「あの……、その服」

「ああ。さっき新品を貰ったから、早速着てみた。どうだ、似合うか?」

 手にしているものを口に運びながら、少年は言った。それは、さきほどチェックしたお供え物リストの中にあった草餅だった。

「これもさっき貰った。まだ作りたてだからうまいぞ。香織も食うか?」

 ――私の名前を知ってる!

 十メートル近くはあるはずの断崖絶壁に足をぶらぶらとさせながら、柏の葉にくるまれた草餅を美味しそうにほおばる様子は危なっかしくて仕方がなかったが、その子はまるで怖がる様子を見せなかった。

「あなた、もしかして」

 ――茅、さま?

 口に出さなかったその言葉を聞きつけたかのように、白い髪の少年は笑顔になった。

「ああ。皆は私のことをそう呼ぶ。私も、おまえを知っているぞ。龍樹の妹御だろう?」

 茅は深い赤を湛えた瞳を細めて香織をまじまじと眺めると、「あの薄汚い男の妹とは思えんな。似なくて良かったじゃないか」と言い、楽しそうに笑った。

 あっけにとられて、香織は茅を見つめた。

 ――神さま? なの? この子が?

 透き通るように白い肌は、確かに人間のそれではない。けれど、目の前で喋っているこの人は、神というほど自分と遠い存在ではない。そういう気がした。

「……兄と、会ったのですか?」

 そうは言っても、やはり敬語になってしまう。どんなに子供らしい姿や声をしていても、理屈を超えた畏敬の念を呼び起こす何かを、この少年は確かに持ち合わせていた。

 茅は口をもぐもぐとさせながら、鉄製の古めかしい鋏を取り出した。

「あいつ、これを忘れて帰ってな。悪いが藤堂の家に戻してやってはくれないか」

「あっ……」

 キクコさんが言っていた鋏だ。お兄ちゃん、借りたくせに、忘れて帰るなんて!

「髪を切って欲しいと龍樹に頼んだのだが、どうやら頼む相手を間違えたらしい」

 茅は髪に手をやると、毛先をつまんでくるくると弄んだ。

「最初は気楽に引き受けてくれたのだが、実際切ってみるとなにやらおかしいと悩みだしてな。私の髪は一度切ったら最後、二度と伸びないので慎重に頼むと伝えた途端、これ以上は責任を持てないと逃げられてしまった。おかげでこの有り様のまま放置されて、困っているところだ」

その言葉に改めてよく観察してみると、前髪は眉にかかるくらい、後ろ髪は肩の上ぐらいのおかっぱのような長さになっていた。確かに、長かったものを単に横にばさっと真横に切っただけのように見える。切り口が雑で、ガタガタになっていた。

「本当は藤堂の次男坊のような形にして欲しかったのだ。この時代の男子の髪型というのは、大抵、あのようなものなのだろう?」

「ええと、まあ。そうではありますが……」

「私もごくたまに人に会うことがある。この髪色は、人によっては怖がられるのでなぁ。なるべく驚かれないようにしたかったのだが」

 そう言ってため息をつく茅に、絶対に勿体無いからやめて、と言いたかった。だって、こんなに美しい髪なのに! 再び伸びないというのなら、なおさらだ。龍樹に逃げられたと茅は言ったが、もしかしたら兄の心にも、同じ思いがあったのかもしれない。

 茅の髪は白くはあったが、いわゆる加齢による「白髪」とはまるで違っていた。たとえるならば、それは先ほど見たあの蛇の背中の色に近いかもしれない。茅が動くたびにさらさらと流れる髪は、さきほど見た蛇の白さを思わせた。直視してはいけないものを見ているような、けれど目が離せないような。うっとりすると同時に、不安な気持ちを掻き立てられるような、そんな特別な白い輝き。

「あの。ところで、『藤堂の次男坊』っていうのは、衛くんのことですよね」

 衛の行方が気になって仕方がない香織は、思い切って尋ねた。

「彼はどこに行ったのでしょうか。ここに一緒に来たはずなのですが」

「藤堂の次男坊なら、今もまだ薗にいるぞ」

「でも、どこにも見あたらないですが」

「心配するな。少しの間だけ、私がお前だけをここに呼んだのだ。すぐに帰してやるから安心しろ」

「ここ……って?」

「常世だ」

「トコヨ?」

「この世ならぬところ。おまえたちの言うところの『あの世』だ」

「あの世、って言ったら」

 死後の世界ってこと?

 私、もしかして死んだの?

 心がすうっとつめたくなって、体に震えが走った。

「そんな……」

 そんな恐ろしいところに連れて来られたなんて。私、一体どうなっちゃうんだろう。

 不安で胸がいっぱいになって、涙があふれてくる。

「あっこら、泣くな泣くな! 必ず戻すと言ったろう? 分からんのか」

 慌てたような、少し強い口調で言うと、まずはこれでも食って元気を出せ、と、茅は手にしていた草餅をひとつ、香織に押し付けてくる。

「すまん、怖がらせてしまった。あれの妹なのだから、なんでも分かっているものだとばかり思っていた。そうか……、おまえたちは、まるで違うんだな」

 うろたえたような困ったような態度は、その見た目よりもずっと人間らしく見えた。どうやら、自分に何か危害を加えるつもりはないらしい。少なくとも、悪意のようなものは感じられなかった。

「……本当に、もとに戻してくれるんですか?」

「ああ。ただ、おまえと少しの間、話がしたかっただけだ」

 茅は申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「龍樹のやつがおまえのことばかり話すものだから、気になってきてな。知らない人間のことを延々聞かされるのは、いささか苦痛でもあるし」

「はぁ……」

 自分の見ていないところで自分の話をされるなど、あまりいい気はしなかった。茅はそんな香織の思いを知ってか知らずか、その場面を思い返すようにくすくすと笑った。

「あいつ、おまえに嫌われていると大層悩んで、心を痛めていたぞ。香織がここのところずっと元気がないとか、学校で何かあったようだが何も話してくれないとか。俺は親代わりなんだから、ちゃんとあいつのことを分かっていてやらないと、とか」

「……なにそれ」

 親代わりだなんて、そんな風に思う必要なんてないのに。

「別に分かって欲しくなんて、ないんですけど。それよりも、もっと『普通』になってくれればいいのにって思います」

「フツウ?」

「学校にちゃんと行って、先生の言うことを聞いて、友達とも仲良くして、勉強も真面目にやって、とか。そういう風になってほしくて」

「では、それをやりさえすれば、おまえはあいつを嫌わないのか?」

「いえ、そもそも、兄を嫌いというわけではないんですけど……」

「なんだ。そうなのか?」

 茅は呆れたように目を丸くすると、肩の力を抜いた。

「それではあいつが勝手に嫌われたと思い込んでいるということか! 嫌いじゃないなら、おまえからはっきりとそう言ってやれば、万事うまくいくんじゃないか?」

「いえいえっ、それは無理です」

 突然何の前触れもなく「嫌いじゃない」宣言を行うなんて。恥ずかしすぎる!

「嫌いではないにしても、直して欲しいところはいっぱいあるし」

「ならば、直して欲しいところをはっきり伝えればよいではないか。あの男は、お前の考えていることなど、おそらく何も分かってはおらんぞ」

「…………」

 なんだか、それも違う気がするのだ。直して欲しいと思うのは、あくまで香織の都合であって、龍樹が本当に変わるべきなのかと問われると、そういうことではないのだとも、心のどこかで分かってはいた。

 ――だからこそ、ままならないのに。

 そういう気持ちを、どう話せばこの人に分かってもらえるだろう。

「私はただ、みんなの中で、普通に暮らしていたいだけなんです」

「暮らせないのか?」

 茅はあくまで素直に質問を重ねてくる。その瞳の澄んださまは、まるで先ほど見た、巳ノ淵の水面のようだった。そんな目で一途に見つめられると、適当にはぐらかした返答など、すべて見透かされてしまうような気がしてしまう。

「兄のことも天ヶ瀬のことも、世間の人たちには理解されないんです。私、あの山に住んでいるせいで、みんなにおかしな目で見られてしまうのが嫌で仕方なくて」

「天ヶ瀬に住むのは、おまえにとって苦痛ということか」

「大っ嫌いです、あんなところ」

「まあ、私は実際に見たわけではないが。御しがたい、難儀な地であるようだな。だからこそ、龍樹のような人間が生まれついたのだろうが」

「…………」

「ときに――、香織」

少し言いよどんだあと、茅は思い切ったように口を開いた。

「おまえにひとつ質問したいことがある」

「はい」

「龍樹はどうやら、香織が両親を失ったのは自分のせいだと考えておるふしがあるが」

「? ……え?」

「おまえもそのように考えているのか?」

「いいえ、まさか」

 意外すぎて、言葉もなかった。あの能天気を絵に描いたように見えるお兄ちゃんが、そんなふうに思っているなんて。

「山で迷子になった龍樹を探しに行ったせいで、おまえの両親は姿を消したのだろう? ならば龍樹がそう考えるのも分からなくはないが」

「そんな……、勝手にそんな風に思われても困ります」

「困る?」

 にわかに、茅の顔が明るくなった。

「そうか、困るか! ならば、困ると言ってやれ」

「えっ?」

「香織が困ると言えば、龍樹はおまえに対して心苦しく思うことができなくなるだろう?」

「……そういうふうに簡単に割り切れるものでも、ないと思いますが」

「? 違うのか?」

 茅は本気で困惑しているらしい。はて、と考え込む様子はどこか無防備で可愛らしかった。何でもわかっている大人のようだと思うこともあれば、心の機微に無頓着な幼さが垣間見えたり。それでも一つ確かに伝わってくることは、茅はどうやら龍樹のことを真剣に思いやり、心配しているらしい、ということだった。

「兄のことを色々と考えてくださって、ありがとうございます」

 ちょっと的外れだったりもするけれど。香織はいつの間にか笑顔になっていた。

「大丈夫です。私、兄のこと、嫌いなわけではないので」

「あいつを、あまり悲しませないでくれよ。私の数少ない友達なんだ」

「友達、ですか?」

「ああ」

 友達。

 今日はやけに、その言葉を聞く日だ。

「私も、茅さまに質問してもいいですか?」

「もちろん」

「どうして、小学校の制服を着ているのですか?」

「セイフク?」

 何のことだか分からなかったらしい。一瞬、きょとんとした顔をした茅は、目を下げて、自分が身につけている服に目をやった。

「ああ、この服のことか? 自分と同じぐらいの見た目の子供が着ている服をもらえないかと、いつだったか、土地のものに頼んだことがあったのだ。皆それを覚えていてくれて、近頃はこれを供えてもらえるようになった。動きやすいし、気に入っているぞ」

「季節によって、寒かったり、暑かったりはしないんですか?」

 おかしな質問だとは思ったが、気になっていたことが口を突いて出た。紺の半ズボンに白いシャツとニットベスト姿で、もしもこの山奥の冬を越すのだとしたら、それは寒すぎはしないだろうか。ついつい心配になってくる。

「私が暑さ寒さを感じることはない。ただ、人であった頃の習慣で、服を着ないと落ち着かないだけだ」

「人であった頃、ですか」

「随分昔の話だがな」

「では、今は人ではなく、『神さま』なのですか?」

「神さま?」

 茅は不思議そうに首を傾げた。

「……いいや。そのようなものでは」

 それからしばらく眼下の滝壺に目を落として考え込んだあと、少し困ったような目をして香織を見つめた。

「本当のところ、自分が何者であるのか、私自身にも分からないのだ」


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