巳ノ淵・7

 あの崖みたいな階段を再び上って「薗」にたどり着いてみたが、別段変わった様子はなく、お昼に皆で訪れたときと同じ穏やかな景色が広がっていた。日は少し傾いているものの、風はまだ暖かく、冬を越えて新しく芽吹いた草で埋め尽くされた野原は、まるで緑の海のようだった。

「今年の草は育ちがいいな」

 衛は草木を観察して回りながら、笑顔になった。

「ここの人たちは薗の草を使って、家庭ごとに体調に合わせた薬草茶を作るんだ。十薬、スギナはブレンドしてよくお茶にするよ。タンポポもお茶にできるけど、お浸しにしたり、根っこをキンピラにして食べてもいい。うん、ヨモギもよく育ってる。もう少し育ったら煮出した汁をお風呂に入れたりするけど、今ならまだ、草餅にも使えそうかな」

 しゃがみこんで草を眺めながら、衛はまだしめ縄の前に立ち止まったままの香織に目をやった。

「香織ちゃんも早くおいでよ」

「うん……」

 で、『茅さま』は? そう尋ねたかったが、衛があんまり楽しそうなので、なんだかもう、どうでもよくなってきた。いちいち蒸し返すよりも、このまま何事もなく野原をぶらついて、さっさと帰るほうがいいかもしれない。そう思って、しめ縄の下に足を一歩踏み出した、そのとき。

「――えっ?」

 香織は敷石の上で固まったまま、足元に目を落とした。

 何か、変だ。

 ――地面が、動いてる?

 いや、目の錯覚ではない。野原全体が、生き物のように不自然に蠢いている。例えるならば、理科の実験番組なんかでよく見る、植物の生長を早送りにした映像のような。

 慌ててぐるりと見渡すと、薗の草はみるみるうちに背を伸ばし、それぞれが美しい花を咲かせ始めていた。ゲンノショウコも十薬も、タンポポも、センブリも、ツユクサも。自然に群生した、石楠花も。

 明らかに異常なことが起こっている。足が震えて立っていられなくて、香織は鮮やかな緑の中にうずくまった。

 ――なにこれ。

 これは、現実?

 すべてが同時に花開くなど、ありえない。目の前にある草木の開花期がそれぞれ違うことくらい、植物にさほど詳しくない香織にだって分かった。

先ほどまで背の低い新芽で埋め尽くされていた野原は、草丈が伸び、あっというまに大小の可憐な花々でいっぱいになっていた。

「衛くん! これ、どういう――」

 呼びかけてみると、さきほどまで近くにいたはずの衛の姿が消えている。慌てて走り、衛がしゃがんでいた辺りを見回してみたが、彼の姿は忽然と消えていた。

「衛くん、どこ?」

 ついさっきまで、ここにいたはずなのに。

 私、置いていかれちゃったの?

 いや。衛は多分、そんなことはしないだろう。

 何か、普通じゃないことが起こっているんだ。背中に汗が滴り落ちていくのを感じながら、香織はあることに気づいた。

 ――音が消えてる。

 さっきまでは左手の崖下を流れる川から、大きな水音が聞こえていたはずなのに。

 どんなに耳を澄ましても、鳥の声も、風の音も、何の音も聞こえなかった。香織は恐る恐る崖のほうへと足を運んだ。薗の下には『巳ノ淵』があるのだと衛は言っていた。

 断崖の縁で四つんばいになって下を覗いてみると、果たして、川は流れていた。けれど、やはり水の音が感じられない。

 耳がおかしくなったのかと思い、試しに手をたたいてみると、手のひらを叩く音は、はっきりと自分の耳に届いてきた。

 風は止み、あたりは完全な静寂に包まれていた。眼下には、美しい水を湛えた滝壺が見える。岩壁の急傾斜を滑り落ちる豊かで澄んだ水は、青く輝く滝壺に吸い込まれるように流れ落ちていく。音が聞こえないせいか、その様子はまるで現実味がなく、途方もなく遠い、別の世界を覗き見ているような気になってきた。

 ――この世じゃないみたいに、きれい……

 パニックになっても不思議じゃないはずなのに、その水の澄んださまににどうしようもなく心惹かれてしまう。青い水面をじっと覗いていると、なんだか自分まで吸い込まれそうな気がして恐ろしくなってきた。慌てて体を起こそうとしたとき、水の中で何かがきらりと光るのを見た。

 ――魚?

 もう一度よく目を凝らしてみると、青い水の底から水面に浮かび上がってきたのは、白くて長い、生き物の背中だった。

 ――蛇だ。 

 それも、ものすごく大きな。

 息を潜めて、香織はその滑らかな動きを見つめた。ゆっくりと穏やかに旋回する大蛇の背は白く輝いている。滑らかな動きが清冽な水を揺らす姿に、不気味な影は感じない。その白い背は目に鮮やかすぎて、直視するのさえ憚られるほど、眩しく映った。

「きれいだろう?」

 そのとき、すぐそばから聞き覚えのない子供の声がした。

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